ぱそらぼ (ぱぁと1)

パソコン講座を、まじめに愛するブログです

責任

2015年05月30日 | 社会派らぼ
他人の事はいくらでも無責任に批判できます。完璧な人なんて、いるはずもありませんし、人はそれぞれに思想・信条が違っていて当然ですから、意見の合わないことなどは日常茶飯事のはずです。

先日の大阪都構想を問う住民投票で僅差で敗れた橋下氏は、以前から口にしていた通り、現在の市長職の任期切れと共に、政界を引退すると表明しておられます。橋下氏の手法は、相手をもヒートアップさせるところがありますので、これまでからも敵の多い方であったと思いますが、早速「辞めるのは無責任だ」という声もしばしば聞かれます。ただ、無責任だというのであれば、彼が手腕を発揮できる環境を整えるべきではないのでしょうか。信じる思想・信条はいくらでも堂々と主張すれば良いと思うけれど、同時にそれは責任を伴う事であることを、私たちは知っておく必要があります。彼に舵を握らせないのであれば、自らが正しく舵を握って船を正しく目的港まで操縦する義務と覚悟と実践が必要です。

橋下氏という政治家を私は嫌いではありません。政治は、生業としてするものであってはならないのではないか…と、漠然と思います。身分の保全を第一に考えておかなければならない状況では、理想とする政治を進めることなどできないのではないでしょうか。橋下氏の(ある意味で)素人感覚は、今の政治に欠けているものであり、彼は自身のその感覚を論理的に分析し、筋道を立てて、展開させていく稀有の人材であったように思います。ですから、潔い身の引き方に圧倒されると同時に、その能力が1弁護士として埋もれてしまうことに、残念な気持ちも覚えています。

…と、大阪の話を持ち出すと、他府県の私たちとは縁のない話なのですが、どんな組織であれ、責任が存在するという意味では同じだと思うのです。何かしらの社会活動をするのであれば、自らがその責任を負う覚悟が必要だと痛感しています。暇を持て余した人間の井戸端会議のように、「こうよ」「あぁよ」と姦しく話すことは、プライベートであれば何ら咎めることはありませんが、どんな小さな社会組織であっても、一旦組織となれば発言すべき事、言ってはならない事(個人的な会話の中で、言ってはならない事とはまた違う次元で…)、別人に委ねるべき事、報告すべき事、それらをシッカリとわきまえておかなければならない…と思う事しきりです。私たちはともすると、すべてを自分中心にしか考えませんから、やりたいからやっている…のスタンスに立ってしまい、ツイ自分の責任をどこかに置き忘れてしまうことがあります。危ない、危ない…。



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介助犬

2015年05月29日 | 社会派らぼ
室蘭市内で視覚障害者らが卓球交流会を計画したところ、宿泊施設が確保できず、交流会は中止されたと報道されました。宿泊を打診されたホテルは「盲導犬にも犬特有の臭いがあると思われるし、抜け毛も心配」だとして宿泊を断ったと言います。拒否はしなかったものの、受け容れを即答しなかったホテルもあったようです。

身体障害者補助犬法では、国の施設や公共交通事業者が、介助犬を拒んではならないと定めていると共に、「不特定かつ多数の者が利用する施設」についても介助犬の同伴を拒んではならないという項も設けています。まさにホテルなどの事を指しているのだと思います。が、同時にこの法律は、「当該施設に著しい損害が発生し、又は当該施設を利用する者が著しい損害を受けるおそれがある場合、その他やむを得ない理由がある場合」には、この限りでない(つまり、断っても構わない)と続きます。

介助犬というのは、そのように訓練をされた犬であり、ある意味で障害者の身体の一部であるといった感覚です。よほどの理由がなければ、断ることはできないと法律を理解すべきだろうと想像します。…にも関わらず今回は、宿泊が拒否されました。想像するに…交流会ということで、盲導犬同伴の宿泊客がたくさん居ることを施設側が恐れたのかも知れません。ずらりと介助犬がいれば、一般の宿泊客にも影響は必至かもしれませんから。

ペットや介助犬の受け入れは、ある程度公表されているようですから(ペット可のホテルといった調べ方で、可能なホテル名が上がって来ます。)、受け容れ可能な施設をリサーチしてから、交流会を計画されれば事はスムーズだったかも知れません。それでは筋が通らない…とお叱りをいただくのかも知れませんが、世の中は理想論が常にまかり通るわけではなかったりするのが常のものです。多くのヒトに受け容れられる方策を探りながら、啓発を繰り返すことも、障害者支援活動の大切な柱かと思います。



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大学

2015年05月28日 | 社会派らぼ
現代は、高齢化・少子化が大きな社会問題です。試算によれば、平成42年には、18歳人口が101万人になるのだそうです。平成26年が約118万人ですから、85%くらいになるというわけです。もっと遡ってピークに近かった平成3年は204万人でしたから、当時と比べると半減してしまうことになります。その一方で、入学定員枠には大きな変動はありません。それもあって、文科省から国立大学の文系学部・大学院の規模縮小を要請する素案が出されました。国立大学は6年ごとに中期目標を提出しなければならないそうで、6月末の提出にはこの通知が参考にされることになります。

少子化に伴う措置であると共に、「文系の学部・大学院の人材育成方針が明確でない」といった理由が挙げられているようです。一部の報道では、「文系廃止」といった過激な言葉まで使われたりしています。安倍首相が、OECD閣僚理事会基調演説で「学術研究を深めるのではなく、社会のニーズを見据えた実践的な職業教育を行う」といった趣旨の発言をされています。それと相まって、文系のあいまいな学術研究は不要、実践的な理系を重視…といったニュアンスに聞こえなくもないので、関係者の反発は必至かと想像します。

そもそも論になるのでしょうが、「大学」というのは何のために存在しているのでしょうか。実際に大学で学ぶこと…は、就職後に直接役立つわけでは無いといったことはよく指摘されます。就職後の仕事は、企業が1から教育をしなければならないわけで、暴論を唱えるなら、高卒であっても大卒であっても要はそんなにできることが違うわけではない。大学の意義が問われかねないのです。

金銭的に採算がとれること、つまりは利益が上がることであれば、民間会社は諸手を挙げて取り組みます。採算がとれる事では無いからこそ、国が税金を投入して研究を推進しなければならないのではないかと、私は考えています。むしろ、大学という場は、採算の取れない「学術研究」を推し進める場所とさえ理解しています。実践的な職業教育の場である必要は無い、そんな風にさえ思うのです。

ですから、それにしたら、大学の定員が多過ぎるのです。そんなに多くの「研究者」が必要なわけではありません。突出した才を持つ人、殊更特異な分野に興味を持つ人、数少ないスペシャリストがいればそれで良いのであって、大半の者は現行の制度で言うなら、「専門学校」的なところで、実践を学ぶべきではないのでしょうか。そういう意味で、安倍首相の発言には共感する部分もありはしますが、根本的な違いは、その職業教育の場が大学だとは思わない、大学は学術研究を深める場であるべきだ…というところです。

と言って、現行の制度のままであれば、ともかく大学だけは出ておかなければ…感が強すぎて、意味もなく大学を卒業する若者が無駄にいることも、事実です。若者自身やその親御さんが違和感なく受け容れられる、実践教育の場を作る必要があるのではないでしょうか。つまりは、抜本的な教育制度改革(教育改革では無く、教育制度改革)が必要とされている気がするのです。文系のみを縮小というニュアンスには少し抵抗があります。少子化で対象者が減るのであれば、理系・文系を問わず定員は削減されて然るべきでしょう。大学(現行制度の大学でなく、新たにつくられる最高学府)は、文理を問わず、真に学術的な研究に携わろうと思う数少ない人間を受け容れ、育てる場であって欲しいと願います。



白く塗った円をコピーしているのに、白くならない

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正しい

2015年05月27日 | 命の生き方
幸い、個人の自由が尊重される時代です。人は皆、思うままに生きることが許されているます。他人に迷惑さえかけなければ、他人に煩わされることなく、一人もしくは家族だけの世界で気ままに過ごすのが最高だ。そんな風に思う人は多いのではないでしょうか。人は究極には「一人」で生きているはずで、わざわざ他人と関わってストレスとためることは無い…のかも知れません。

が、そう思う一方で、人は「群れ」をなして生きる生物であって、他人と関わることを拒絶して内に閉じこもる事は、やはり違っていると思います。人の感覚は同じではありませんが、程度の差はありながら、私たちの大半は、社会の中にうまく溶け込みつつも、個人の自由を満喫している、絶妙なバランスを採っているのだと思います。

社会と関わることは、人間として必須だと感じていますが、関われば関わるほどに、社会正義といったようなものと、私見のギャップが何かにつけ、トラブルの種を作ります。私もそうですが、自分独自のアンテナのようなものがあって、事ごとに、「正しい」ことが何であるのかを判断し、間違った方向には流されないようにと、自衛本能を働かせています。問題なのは、自分が「正しい」と思っていることが、本当に絶対基準として「正しい」のか?という点なのでしょう。

自分は「正しい」と誰もが信じています。自分の感性こそが間違っていないのだと。でも、振り返る事もせずに「正しい」と思っていることは、おおむね「正しい」わけではないのも、一方で真実です。かと言って、自分の感性に自信の持てないようなアンテナでは意味がありません。絶対基準のようなものは存在しませんから、この判断はトテモ難しいのです。常に、自分のアンテナを磨き直しておくこと、歪んでいないかどうかを振り返る事は、トテモ大切なのだと思います。

独りよがりの正義や、独りよがりの総括は、見ていて美しいとは思えません。正しい事は、美しくなければいけない…はずです。



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ウィルス疲れ

2015年05月26日 | 雑談
ウィルスソフトの会社が、ウィルスをばらまいているのじゃない?などと言われるくらい、ウィルスとウィルスソフトはエンドレスの追いかけごっこをしているようで、次々と新手のウィルスが現れます。「ランサムウェア感染に関する注意喚起」が、JPCERTコーディネーションセンターより出されています。JPCERT子オーディネーションセンターというのは、日本の代表的なCSIRT(コンピュータやネットのセキュリティ上の問題を監視し、問題発生時には原因解析や調査を行う組織)です。

ランサムウェアというのは、パソコン内のデータを人質に(?)とって脅迫してくるソフトウェアのことを言うのだそうです。パソコン内に入り込んで来て、ファイルを暗号化して開かないようにしてしまいます。自分の作成したファイルでありながら、開くことができなくなるわけです。そして、暗号化を解除の条件として金銭を要求してくるために「身代金ウィルス」と言った風に呼ばれます。

ネットを利用するには、こうしたすべての脅威に対してあらかじめ防衛策を講じておくということに他なりません。ウィルスソフトを導入しておけば、有効期間内は護られているはずですし、必要なアップデートもある程度は自動でやってくれます。ですから、毎日の作業にそう追いまくられるわけでは無いのですが、いささかこうした稚拙な行動そのものに、疲れた感が否めません。

一緒にすると、お叱りをいただくのかも知れませんが、先日来「韓国疲れ」といった微妙な表現を耳にすることがあります。つまり、隣国の反日が、いささか度が過ぎて来ていて、日本人ならずともそうした振る舞いを見聞きするのに疲れてしまったというのです。

ウィルスも然り。そうした輩がいるという事は、十分認識しています。ただの愉快犯から、身代金目的まで、まるで性質の悪い誘拐犯と変わらないこうした日常の脅威は、いわば人為的に作られた脅威です。火山が噴火するのとは訳が違います。地震が起きるのとも違います。そうした行為に走る人間がやめれば良いだけの話なのです。もっと人生がワクワクするような、明日が楽しくなるような日々を過ごしませんか。





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イクメン

2015年05月24日 | 社会派らぼ
全国12県の知事で作られる「日本創生のための将来世代応援知事同盟」が、初会合を岡山市内で開きました。長野・宮城・福島・三重・滋賀・鳥取・岡山・広島・山口・徳島・高知・宮崎の12県が加盟県だそうです。いずれも、人が都会に流れ出て行くために、人口減少を課題と考えている地域のようです。

この会合の「おかやま声明」では、知事自らが育児に積極的に関わるとする「イクボス宣言」など5項目が盛り込まれたと言います。イクボスというのは、男性従業員や部下の育児参加に理解のある経営者や上司の事を指す新語なのだそうです。子育てに積極的に関わる男性を「イクメン」と呼ぶことが、かなり浸透したようですが、そのイクメンを職場で支援する立場・環境整備に努めるリーダーの事を言うのだそうです。

良いか悪いかは抜きにして、いわゆる「核家族」(もう、改めて言葉を使う事も無くなったでしょうか)が多い現状、少子化の一因として、子育てに関わる実質的な人手が足りないということが挙げられます。出産直後の母子のサポートや以降の子育てに、男性が積極的に関わらなければならないと啓発が積極的に行われるゆえんです。結果、若いお父さん方の意識は、一昔とは随分変わっており、実行できるかできないかを問わず、積極的に育児に関わらねばならないとする意識は非常に高いように思います。

…で、良く言われるのが、父親も育児休暇を積極的にとるべきだとする意見です。確かに、出産直後の男性のサポートは心強いものがあります。沐浴を夫婦二人で連携するとか、夜中の授乳に男性が関わる(粉ミルクなら)とかいった事は、微笑ましいとは思うものの、問題の本質はそんな事では無かろうという気がします。父親が数日間(数か月間?)の休暇をべったりと取ることが必須なのでは無くて、日々起こる事への柔軟な対応だったりするような気がします。第一、女性の産休・育休のように、その仕事のポジションをそっくりそのまま第三者に任せ、復帰時にはまた仕事の整理をつけて元の業務に戻るなり、新しいポジションを用意するなどの休暇の取り方は、今のところ考えている人は少ないようです。急にバタバタして昼から出社が認めてもらえたり、残業ナシで定時に退社できたり、急きょ休暇が認めてもらえたり…するような柔軟な職場環境が本当は必要なのではないだろうかと思うのです。法律や規則で子育て世帯を応援することができるとしたら…何日間の休暇を与えるではなくて、もっとフレキシブルな現場の対応だろうと想像します。

要は、父親が何日休暇を取ればいい、何をすればいい…といった簡単な事ではないのです。日々、正解が無くてエンドレスの子育てに萎えがちな気持ちを、和らげてもらえるサポートが必要で、それが何かは家庭によって異なっています、多分。


同じ文字なのに、倍率が違うとずれてしまいます

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差別用語

2015年05月23日 | 命の生き方
私の情報源は主にネットです。実際にテレビ等で見たわけでは無く、ネットに流れていた…だけの話です。女優の市原悦子さんが、テレビアニメ「まんが日本昔ばなし」の思い出を番組内で語り、「かたわ」「毛唐」などの「差別用語」を連発したというものです。「やまんば」は、世の中から外れた人だったのではないかというのが市原さんの解釈で(かたわや毛唐だったのではないかと説明)、そのために反骨精神や憎しみが強く、それが他人への攻撃に繋がる。が、一旦心が通じると、今度は心を通わせ合う、その極端さに「やまんば」の魅力があるのだといった事を語られたようです。

やり取り自体は違和感なく、むしろ「やまんば」に対する愛情すら込められていたようですが、番組の終盤になって、突然局のアナウンサーが「体の不自由な方、外国人の方を傷つける発言があった」ことを『お詫び』して謝罪しました。この謝罪が騒動を呼んだようです。今では、民意というものは、ツイッターなどのネットに溢れます。「謝罪」という対応をとった番組への疑問が相次ぎました。市原さんには、差別の意図は無く、「当時そのような形で差別された人」という意味で敢えて使った表現であって問題は無いとする意見が大半だったようです。

差別だとする「言葉狩り」には、元々疑問があります。言葉というものは、良いにつけ悪いにつけ、長い歴史の中で、自然と生まれ、淘汰されていくものです。常に変遷を重ねていくもので、言葉には責任はありません。その言葉を使う人の気持ちの問題であるはずなのです。一方的に差別用語として言葉を禁止したところで、蔑む気持ち自体が止まなければ意味は無いのですから。更に滑稽な事には、このこと自体を報道するネットニュースの中には、実際に使われた差別用語を「○○」「××」と書き入れ、文脈が微妙に通じにくいニュースになっているものすらありました。「市原悦子さんが「○○」「××」などと言った。アナウンサーが先ほどの「○○」「××」は不適切だったと謝罪した。」というようなもので、何が起きたのかさっぱり理解できません。偏に「かたわ」「毛唐」という言葉を書き入れることへの懸念です。が、繰り返して確認しておきたいと思います。差別用語とされる言葉は、蔑む気持ちを持って使われた時に初めて相手を傷つけるのです。表層的な「差別」弾劾はそろそろ卒業しませんか。差別用語だと烙印を押してヒステリックに封じることが、一方でより陰湿な差別意識を温存しているような気さえします。

やさしくなろうよ。それだけです。




フロッピーディスクの内容をUSBに移し替えたい

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いただきますの文化

2015年05月21日 | 社会派らぼ
世界動物園水族館協会(という組織が、あるのだそうです WAZA)が、日本動物園水族館協会(JAZA)に対し、改善勧告を突きつけていました。和歌山県太地町で行われている伝統追い込み漁で捕獲したイルカを水族館で展示することが、倫理規範に違反する…というものです。既に報道されているように、JAZAでは、WAZA加盟継続の賛否を会員投票で問い、結果WAZA残留が決定されました。つまり、以降は追い込み漁で捕獲したイルカの入手をやめることになり、人気のイルカショーなどの運営に支障が出る恐れがあるとのことです。

世界には様々な国があり、それぞれの歴史や文化は異なっていて当然なのですが、性質の悪い事に、自国の文化に誇りを持ちすぎる余り、他国の文化をないがしろにして自分たちの価値観を押しつける行為は後を絶ちません。発展途上の民族の集落にテレビカメラを入れ、自然と共に悠々と暮らしているであろう人達に、お金や今風の機器を手にさせることは、彼らの文化への畏敬が足りない…と私は思います。長いその国の歴史の中で、何を食して来たのかといった文化にまで、他国は立ち入るべきではないのです。例えば、エスキモーの人達の食生活を、私たちが否定することは間違っているのだと思うのです。

欧米には、なぜか「自然界にあるものを捕って食すのは野蛮」「それ用に飼育して食料とするのは文化」という考え方が根を張っているようです。狩りをしても、飼って繁殖させていても、「命」を食べるという意味では変わらないはずなのに、自然界のものは「命」、養殖・飼育・栽培したものは「食料ということになっているのが、根本のボタンのズレだろうと思います。

以前、とんでもない学校の先生が、子ども達に「給食代を支払っているのだから『いただきます』を言う必要は無い」と指導して物議を醸しました。「いただきます」とは、「生きとし生ける『命』を頂戴いたします」という意味なのだから、給食代云々とは関係が無い!と、多くの識者のお叱りを買いました。英語には(私が知らないだけかもしれませんが)、そのような「いただきます」という文化が存在しないのです。食事を始めるに際して言うとしたら「Let's eat!」でしょうか、「いただきます」とは立ち位置が異なるのです。

WAZAからの脱退に反対した会員の本音は、、展示用のライオンやキリンが手に入らなくなってしまう…のあたりにあるようです。日本には生息しない動物を、WAZAのパイプを利用して入手したい…と思う会員は、太地からのイルカ入手を諦める、これはキットごく自然の当たり前の理屈です。



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慣れ

2015年05月20日 | 雑談
千葉の山林に、中学教諭が生徒の個人情報を段ボール箱で投棄したとして、問題になっています。技術家庭科担当の男性教諭は、前任校での生徒の成績表や、作品、名簿などを44箱の段ボールに詰め、軽トラックで4回に分け、山林に運んだと言います。問題発覚後、全て回収され、情報は流出していないようですが、市教委では近く処分の方針とか。

最近、随所でニュースになるのは、デジタル化された後の個人情報の流出でしたが、元々のアナログ情報の管理も当然必要です。このご時世ですから、情報管理については先生方に対して、学校からの注意があっただろうと想像しますが、段ボール箱44個もの情報を手元に置いていた事がまずずさんとしか言いようがありません。生徒個人に返却するなどしていたら、これほどの情報ゴミが手元に残る事も無かったでしょう。

最近は、先生がSNSなどに子どもの写真を挙げる事も頻繁で、こちらも指導が追い付かない…とか。人は、毎日のように埋もれている環境には、当然ですが慣れが先に立ってしまいます。細心の注意を払っていたつもりでも、いつしか「慣れ」が、注意を散漫にしてしまいます。当たり前の事を当たり前に処理し続けるには…、やはり最初にどのような流れで処理を進めるのかをキチンとフロー化し、「今日だけは」「これだけは」「今度だけは」という特例を排除するような心構えが必要になるようです。「こう」と決めたルールを、一途に守り続ける愚鈍さこそが、ずさんな慣れを引き起こさない唯一の方法かもしれません。


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