ぱそらぼ (ぱぁと1)

パソコン講座を、まじめに愛するブログです

デジタルタトゥ

2014年07月31日 | 社会派らぼ
今年のミス・ユニバースのタイ代表に選ばれた女性が、辞退を申し出たそうです。元々、最終選考会の会場では、準ミスに選ばれた女性の方が人気が高く、発表時にはブーイングがあったとも伝えられています。それでもキチンと代表に選ばれ、一旦は賞金や副賞の乗用車、宝飾品などを手にしたわけですが、それらもすべて返還し、タイトルを返上するとのことです。

何でも、フェイスブックに政治的な差別発言を書き入れた…とかで、非難が集中、代表に選ばれたことに対する抗議文には数千件の支持が集まったと言います。テレビ局のインタビューなどで謝罪したものの非難は止まず、家族までそうした状況に苦しむのを見て決断したとのことでした。

世の中はSNS流行りです。が、そこに書き込まれている内容ときたら、その大半が意味のないもので、更にいくつかは通り過ぎて悪ふざけが過ぎるものであったりするのが現実です。遠い未来にこれらを振り返った時、そこには社会研究としてこの時代を分析する材料としての意味はあっても、一つ一つが残すに足るものとは思えません。そんな中で言えば、彼女の発言はハッキリと政治的な立場を表現するもので、骨があると言えばそうなのかもしれませんが、「全員処刑されるべき」などという言葉は不穏当です。

フェイスブックなどのSNSを「デジタルタトゥ」と表現する人がいます。一度刻み込んだら、一生消えないという意味でしょうか。後悔するくらいなら、書くべきではありません。ネットに発言をするということは、公に発言をするということを意味します。自室で個人的な話をすることとは、訳が違っています。十二分に考えた発言であるべきで、謝罪をしなければならない内容は書くべきではありませんでした。それが世の中に向かって発信したいと思う内容であるなら、堂々と論陣を張って発言し、起きる批判も堂々と受けて立つべし…です。(但し、身は隠したままで、他人のあれこれに辛辣に口を極める、ネットの品の無さは、改めたいと常々思ってはいます。)

私、個人的には、「政治」や「宗教」などの話は書かないことにしています。立場が変われば、180度変わってしまう…といった内容は、無作為に色々な人がいる場で、言葉が尽くせない状況の中、取り上げるべきことだとは思わないからです。中国の司法部門を牛耳ってきた周永康氏の失脚がニュースになっていました。何でも石油閥のトップとして私腹を肥やしてきたと報道されています。世界では、まだまだ政権が変われば命までも危うくするような場面が幾つもあります。人が命までもをかけている問題を、気安く論評できるとは思えません。ですが「政治」や「宗教」を超えるものがあると、私は思っています。立場が変われば180度変わるようなものでは無く、どんな時代にもどんな立場でも揺るがないもの…こそが公の場には似つかわしいと、思いませんか。



虹色のワードアートを作りたい

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終活

2014年07月30日 | 命の生き方
「就活」や「婚活」といった言葉が流行り、その同じ流れで「終活」も人気のようです。「終」つまり、来たるべき「死」に備えての準備を指す言葉らしいです。専門雑誌が刊行されたり、特集が組まれたり、またイベントなどが催されているのを見かけることも少なくありません。

終活では、来たるべき「死」を迎えるために、今しておくべきことを様々に提案する内容となっているようです。例えば、自分のための葬儀を計画したり、入るべき墓を準備したり、遺言書を作成したりするような事も含むようです。死を見つめ、死を迎える準備をすることで、今現在の生き方を見直そうとするもののようで、終活カウンセラーなる仕事ができていたり、それらの勉強会や検定なども展開されているようで、ブームというのはなかなか恐ろしいものです。

興味を覚える人が、興味の赴くままに、活動?をされればいいことで、とやかく言う気はありません。が、個人的には「終活」に興味はありません。「死」などというものは、如何に準備をしたところで、到底納得のできるものではなはいはずだと思うのがその最たる理由です。例えば「葬儀」の段取りを自分で立てておく…といったことも提案される一つのようですが、葬儀というのは、送られる本人のためにあるものではなく、残された送る側のためのものだと、私は理解しています。ですから、どう送られたいかなどということは関係がないような気がするのです。残された者が、どう送りたいかで仕切られるべきもので、私個人的には、自分のための葬儀というのはやって欲しいとも思っていません。また、遺産のトラブルなどを避けるために、キチンと遺志を残すことも、不要ではないかと思っています。(遺産なるものがない人間にはあまり関係がある話でもなく…笑)もし、自分の死後に財産が残るとしても、それはもう自分のものでは無いと思います。自分のものでは無いのですから、それもまた残された者の意志で決める問題なのだろうと思えてしまいます。要するに、人は死んだら、そこですべての物事がストップするのであって、それ以降を自分が操ると考える余地は私にはないのです。

「終活」なるものが、精神的な問題に殆ど触れようとしていないことも、なんだか気にかかります。葬儀の費用とかしきたりのことなどばかりが問題に取り上げられすぎていて、精神的な葛藤などに関しては、かなり関心が希薄なようです。必要だとしたら、そういう魂の問題が真摯に掘り下げるべきであり、ブームに乗ってするような問題とは、到底思えないのです。




ワードのクリップアートは自由に使ってもよいのですか

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2014年07月29日 | 雑談



CDを焼く

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畏敬

2014年07月28日 | 命の生き方
高校1年生の女子生徒が殺人で逮捕されました。マンション自室で、同級生の女子生徒を殴って殺害、更に遺体を切断したというショッキングなニュースです。更に、どうやら殺害直後「殺しちゃんだけど」という内容で、何度もネットに投稿をしていたようで、リアルな写真も何回かアップされています。リアルタイムでやり取りをしていた者たちは、半信半疑で「マジで?」など、秘かに動揺が広がっている風です。夕方の報道では「人を殺してみたかった」などという供述をしているようですから、何とも気が滅入ります。

このような犯罪に際しては、犯人が心身耗弱にあったとして、その責任能力が不問に処される…といった議論がしばしば起こります。殺人などといった犯罪行為が、正常な精神状態で行われるとは、到底思えません。その瞬間にも人が冷静でいるなどとは考えにくいものです。だから…責任が無いという理屈は成り立たないと、私は思っています。どれだけ精神障害が立証されようと、責任の担い方に様々な方法があるとは思いますが、責任は必ず当事者に存します。

本人は「人を殺してみたかった」とその動機を話しているようですが、死に対する畏敬の念は、極論行き着くとこのようなことになるのかも知れません。明らかに精神を病んでいたとして、それでも彼女は確かに日常的には普通の生活を送ってきたのですから、日常と異常がどこでギアチェンジされたのかが解明されなければなりません。そこからしか、彼女が異常に至らずにいられた可能性を探る道は無いのだと思います。

ただ、異常な犯罪行為そのものにも増して、何度もネットに書き込んでいることに戸惑いを感じます。勿論この掲示板への投稿が、本人のものかどうかはまだ判別できてはいません。この世代の(年齢は関係ないのかも知れませんが)、ネット依存の実態は何なのでしょうか。最初は、もしかすると日常が広がる感じなのかも知れません。閉じられた日常の空間から、新しい異次元な空間が生まれたような、そんな感覚があるのかもしれません。リアルな世界では、他人は常に自分の思惑通りには動きませんが、ネット上では自分の本質を忘れて、まるで別の人間性を生きることが可能になるような錯覚があります。必要以上の干渉もなければ、身を偽ることにも何の障害も起こりません。人はそこで、自由になったように錯覚し、依存を深めていくようにも見えます。

いずれにしても(この投稿が事実として)、彼女が報告すべき相手はネットだったわけです。通信を切ればそれで済む付き合い以上の、生身の付き合い方を知らなかったのは確かです。こういう事件が起きる度に、「命の尊さ」を生徒たちに教える取り組みが見直さることになります。が、「命の尊さ」といったものは、薄っぺらな指導要領の中で示せるほど安易なものでないことも確かです。「人」というものが一体何であるのか、自分が活かされている本当の目的が何であるのか、真の幸せがどのような形をしているのか、このような問いに苛まれる経験をたくさん積まなければ、「死」というものへの正しい畏敬は生まれないのかも知れません。


iPhoneから直接印刷命令を出す

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引きこもり

2014年07月25日 | 社会派らぼ
いわゆる「引きこもり」の実態調査に関しての情報はあまりたくさんは目につかないのですが、平成22年の調査では23.6万人とされています。更に「準ひきこもり(趣味に関する用事には外出する)」と言われている人が46万人。合わせると70万人に近い人が、引きこもり中ということになります。

職場になじめなかったとか、就職活動がうまくいかなかったとかが、引きがねになっているようです。自分をさらけ出して、否定されることに恐怖感を抱いてしまうのが原因でしょうか。引きこもっていれば、他者と関わらなくて済みます。自分にだけ没頭していられますから、否定される心配もありません。誰にも邪魔されずに、自分の中にだけいることが、恐らく何よりも安心なのだろうと想像します。

但し、もっと広い解釈をすれば、街中に出ていても、仕事や学校に行っていても、社会参加を回避し、自分だけの世界に閉じこもる人はもっと多いような気がします。車中などで、耳にイヤホンをつけ、スマホに手を走らせている人たちは、引きこもりとは言いませんが、ある意味で自室の中に居続けている人のようにも見えるのです。

公道を歩く…ということは、そいういうことを言うのではないような気がします。他人と積極的に言葉を交わさなくても、居ずまいを正し、周囲の人に最低限の関心を持つことは大切なように思います。




シート見出しのスクロール

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機械化

2014年07月24日 | 社会派らぼ
私事で恐縮ですが、久々に回転すしに立ち寄りました。今浦島よろしく、回ってくるお寿司を取る以外、注文はタブレットでお願いします…に、「ほぉ、この頃はこんな風になっているのか」(笑)と、食事を楽しみました。以前なら、握っている職人さんに声をかけて、好みのものを握ってもらっていたのですが、タブレットなら声かけのしにくいお客さんでも気兼ねなく注文できます。更に、お勘定の際の精算機。今では多くの店舗で取り入れられているそうですが、瞬時にお皿の色や枚数を読み取ってくれます。便利っちゃ、便利ですね。店舗によれば、シューターに食べたお皿を入れて数えさせるようなシステムもあるそうです。ちなみに、出入り口が自動扉ではなくて、手で開け閉めするようになっていたのですが、これってかさむ電気代の相殺なのだろうか?と妙に気になりました。

日本の誇る技術力!ですね。全てが機械で処理されますので、自分の食べたお皿を隣の席の投入口に入れてごまかす人がいるとか、隣席の人のお皿の上にこっそり自分のお皿を載せる人がいるとか…。ネットにはその手の書き込みはひっきりなしにあるみたいで、人手を省いている分、人の眼が行き届きにくいといった事情もあるのかもしれません。技術の進歩は大いに結構。合理的なシステムを取り入れないという手はありません。が、何を省いて、何を目指す世の中なんだろうと多少気になったのは確かです。

別件ですが、ある書類を送付しました。後日、書類に不備があるから…といった、返送されてきました。提出の様式を満たしていない…ということだったのですが、指定の様式というのは、「100~200字で記述」。この文字数が満たされていないという指摘に「?」。文字数はキチンと数えて106字とか109字とかになっているはずだったのです。基準を満たしてから再度提出するような指示が書いてあったので、直接電話で尋ねました。…ところ、それで問題なしですから、再送付してくださいという返事がありました。

ここから先は邪推…です。たまたまその記述文の行間が狭かったために、定められた文字数は満たしていたものの、通常の行間で書かれたものよりも、記述スペースが短かったのです。恐らくそのスペースの長さだけを測ったために、文字数が足りないという判断になったのだろうと思われますが、判断したのは、もしかすると機械?かもしれません。全国から送られてくる書類のチェックは、恐らく人間がするのでは大変なので、機械が導入されているのではないでしょうか。機械には、それぞれの書類による個別の事情は読み取れませんので、予めプログラムされている条件を満たさないものは、不備という判断をされてしまったような気がします。

機械化の世の中で、機械が判断することは、人間の判断よりも正確で迅速である…という前提があります。機械は疲れたからと言って、文句も言いませんし、注意力が散漫になることもありません。が、人間の判断力に勝るチェック機能を機械に持たせることは、今はまだ無理のような気がします。将棋や囲碁でコンピュータが人間に勝ったといった報道はされていますが、人間がコンピュータと競う必要など微塵もありません。機械には過去の膨大なデータが入れてあるだけで、そこにはオリジナルな差し手は生まれない…のではないだろうかと想像しています。

あらゆるものを機械化して。例えばスーパーでの品出しもレジ打ちも、そのうちに人は要らなくなるでしょう。病気の診断さえも、機械に腕を入れれば瞬時にあらゆる計測値を出して、問診というのは要らなくなるかも知れません。電子教科書だの電子黒板などが普及すれば、そのまま電子教師が登場して、全国どこの学校でも同じ質の授業が受けられますといったことも、そんなに遠い先だとは思えません。…そうして結局、人間が就くべき仕事というものを無くしていって、私たちは何を生業にして、何のために生きることになるのでしょうか。




前に使ったファイルを開く

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サポート

2014年07月23日 | 社会派らぼ
パソコンには、障害を持たれている方のために、操作方法に別のやり方を提案する機能がついています。例えば、エラー音の代わりに、画面を点滅させたり、テキストやアイコンサイズを大きく表示できる拡大鏡機能が選べたり、Shiftキーを片手で押し続けなくても良いようにロックしてくれたり、画面表示を読み上げてくれたり…と、様々です。が、いずれも障害の種類や程度に応じて、選択できるようになっています。

パソコンというツールは、私たちの能力をサポートする相棒として甚だ心強い奴なのです。が、健常者にしてこれなのですから、まして体のどこかに思うように動かない部分があったとしても、上述のようなサポート機能を活かせば、結果としては他者と全く遜色のない仕事をやってのけることが可能です。短絡した説明をすれば、腕が振るえて文字がきれいに書けなくても、印字文字は美しく詠みやすく仕上げることができます。ですから、私は障害のある方にこそ、パソコンを使っていただきたいといつも言っていました。想いが叶って、数年(もう10年近い?)、障害者支援施設のパソコン講座を担当させていただいたことがありました。残念ながら、毎年予算を確保することは、なかなか難しいようで、恒例行事にすることはできませんでした。

ですから、障害者のパソコン学習の積極的支援者でもあります。それでも(こちらは10年以上前…でしょうか)、苦い経験をしたことがあります。パソコンの中級者~上級者レベルの長期講習を担当した際、適性検査の結果では受講資格がクリアできなかった方が、講座に混じられたことがありました。聞くところによると、かなり強い圧力があったためとのことでした。ノーマライゼーションという言葉が流行った時期でした。障害を差別して、はじき出すのではなく、その方の障害レベルをよく理解したうえで、一番無理なく学習できる環境を整えるべきだと思うのです。それこそが、本当の障害者支援だろうと、思っています。

こうした圧力には、得てして弱い…のが役所です(誤解がないように。揶揄する気持ちは毛頭ありません)。つまり、「障害者差別」というレッテルを貼られてしまうと、本来の業務が機能しないほどのクレームが殺到する事が目に見えていますから、ともかく「受け容れる」結論を出すしか無い場合が多いのです。(責任の大半は、無責任なクレーマーにあるのでしょうね。)ただ、何でもかんでも受け容れるというのでは、本当の障害者施策にはならないと私は思っています。まず、その方をよく理解して差し上げることが不可欠です。どのような障害があって、どの程度不自由をしておられて、何を望んでおられて、どのような完成像が描けるのか。本当のサポートとはそういうことを言うのだと思います。

障害を抱えて、それでも日々努力を怠らない多くの方々を、きめ細やかにサポートできる場が設けられないものでしょうか。




画面の左上ボックス内に文字が入力されてしまいます

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2014年07月22日 | 雑談
「学習する」ことは「覚える」ことだと思っておられる方は、少なからずおられると思います。実際「覚えなければ」始まらないことも多々あるとは思います。必要最低限の知識というのは、やはり覚えていなければならないのも確かです。但し、徹頭徹尾すべてを覚えるのだと、勘違いして欲しくもありません。

学習の要素は、幾つもあるのだと思います。が、一言に表すと「勘」なのではないだろうかと、この頃思います。学生時代には、「勘」に頼るというのは、学習ができていない証のように言われていました。確かに試験を前に、何一つ問題が分からない…となると、勘で答えざるを得ないわけですが、それは偏に学習してきていないせいです。ただそれは言うならば、「ヤマ勘」とでも言うべきことで、当てずっぽう、何の根拠もなく、鉛筆を転がすようなものでしかありません。

本当に大切なものは、根拠に裏打ちされ、理解の上に成り立っている「勘」なのだと思います。物事には理由があります。こうなれば、こうなって、そしてこうなる…という風に、必ず理由があるものです。その根拠の過程をなぞりながら、物事を理解すると、その後は理由などを考えなくても、正しい答えが「勘」で分かるようになる、そんなものだという気がするのです。その「勘」を磨く過程こそが、学習なのだという気がするのです。

文科省は、「新学習指導要領」の根幹に「生きる力」という言葉を据えています。生きる力を育むという理念のもとに、知識や技能の習得、思考力・判断力・表現力の育成をうたっています。これからの教育は「ゆとり」でも「詰め込み」でもなく、「生きる力」を身に付けるためのものだと言っているのです。この「生きる力」というのも、実は裏返すと「勘」なのではないだろうかと、思えてきます。

地道にルーティンな理解を繰り返すことは大切です。ただ、いつまでもただ決まったことをなぞっているだけでは、そこから先に進みません。頭の中にその回路を作る作業とも違っています。そこには理由があって、過程が見えています。その先に導かれるものには、必然性が無ければなりませんが、その必然性が「勘」になるべきなのだろうと、そんな風に思ったりしています。




画像がドラッグアンドドロップで挿入できない

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2014年07月21日 | 社会派らぼ
何年(いえ、何十年)ぶりかで、ベビーカーのお伴をして、大阪方面を歩きました。街が未だこうした弱者には、利用しにくい仕組みになっていることを改めて実感した次第。エスカレーターやエレベーターの設置は必須にはなって来ており、それこそ何十年前の記憶と比べると、随分進化したとは思います。階段しか見当たらず、子どもを抱いてたたんだバギーを肩に、荷物も持って移動したこともありましたから。。。。

探せばエレベーターはあるのですが、すべての階段・エスカレーター設置場所にあるわけではありません。当然、エレベーターを求めて平面移動してから乗降を繰り返すわけですから、必然的に歩く距離が非常に多くなるわけです。良く利用するスポットは、大体エレベーターの場所がわかりますからまだしも、そうでなければ、エレベーターの表示を探してウロウロ。中には目的の階には止まりません…となっていたりするので、わざわざ別階に行ってから、改めて乗りなおすとか、特に駅ビル付近は、階層がややこしくて、現在位置が何階なのかさえ、?になって、ともかく疲れました。

まぁ、ベビーカーを持って歩く人達は、若い(苦笑)方々ですから、元気なのでしょうけれど、もう少し、この無駄を何度か解消できないのだろうかと思ってしまいました。日本は決して土地が広くありませんから、ベビーカーごと乗れるムービングスロープ的なものを設置する場所が無いのだろうと思います。が…、出店数や売り場面積を少なくしてでも、施設を完備するような英断を下せる実業家はおられないものでしょうか。



DVD-RWに追記ができない

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無断使用

2014年07月20日 | 社会派らぼ
野洲市の情報紙が有料イラストを無断で掲載したとのことで、約30万円を請求されたというニュースがありました。市側は、有料…との認識はなかったとしながらも、無断使用を認めていると言います。イラスト管理会社では、法の執行機関である行政はより厳格に守っていただきたいと話しているそうです。

イラスト・写真の無断使用は大変多いものと想像しますす。ネット上に公開されているものは、すべて無料とは限らないといった話を以前したところ、参加者の方が「えー? そうなんですか?」と驚かれたことに驚いたことがあります。インターネットからイラストをダウンロードしてくると言ったことが日常茶飯事になった今、あまりにも皆が気軽に「インターネット」と言われるせいか、そこに権利やお金が発生していると認識できていないない方々がまだ多くおられます。中には、ダウンロードしたイラストも、色を変更したり、多少デフォルメすれば、それで使える…と豪語するし達者なプロもいたりします。

原因の一つには、「探し方」があるような気がします。以前ですと、まずイラストを提供しているサイトを検索し、その中に気に入ったイラストが無いかを探すことが多かったうぴな気がします。必然的に、サイトのトップページから入り、「使用のお願い」などの記述を経て、イラスト置き場にたどり着きましたから、斜め読みをしていても、多少は「してもいいこと」「してはいけないこと」が把握できたのかも知れません。最近は恐らく、キーワードで探していきますから、サイトの意図よりも先にイラストを見つけてしまいます。そこから、本来の「ページを表示」させて趣旨をキチンと読み直す人は少ないのではないだろうかと想像できます。画像検索をかけた時点でピックアップされてくる画像を直接ダウンロードしてしまっている人は、殆どサイトの趣旨を知らずに、ダウンロードしてしまうことになるのかも知れません。

野洲市の担当者は「無料 イラスト テーマ」で検索したと言っているそうです。「無料」というキーワードを入れたから安心…と、どこかで思われたような気がします。更には、管理会社が言うように、「イラストの無断使用は大変多い」わけですから、不正使用したサイトが検索にひっかかってくる可能性も拭えません。「有料とは書いていない」という判断根拠と、「無料と書いてある」判断根拠は、根本的に違っていますから、くれぐれも気をつけなければならないと思います。

そういう私も、頻繁にネット検索をして、イラストを拝借して使っています。公共的な機関のお手伝いをしていることも、大変多い者です。イラストを使用する際には、極力注意をしているツモリです。他の方にまでご迷惑をおかけしてしまう場合もあり得ますから、注意して「フリー」と明記しているサイトのイラストを選ぶよう、心がけてはいます。それでも時折、どう見ても全く同じだと思えるイラストが、一方では「サンプル」などという文字が入って発表されているのに、別箇所ではあたかもフリーイラストのように配付されているケースを見かけることもあります。どれが使っても良いイラストで、どれが制作者に断らなければならないイラストなのかの判断根拠は大変難しいと感じることもしばしばです。いっそ、使えないイラストにはすべて「サンプル」などのクレジットを入れて欲しいとすら思います。

ネットという公開場所は諸刃の剣のようで、広く皆に衆知してもらえる反面、不正利用などの被害に遭うことも覚悟しなければならない場所です。利用者にもっと啓発を繰り返し、正しい著作権理解を徹底させるべきです。と同時に、イラストにアクセスした時点で、フリーなのかそうでないのかが一目瞭然に区別できる何らかの(ダウンロードできなくする…などの)対策技術の提案が待たれます。

多分、技術が一足先を行ってしまっています。正しい著作権認識や、正しいネットの利用方法を理解できる以前に、パソコンが使えてしまえることが問題なのかも知れません。




知人からのメールがフィッシングメールと表示される

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