ぱそらぼ (ぱぁと1)

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ネット

2020年05月27日 | 社会派らぼ
女子プロレスラーの木村花氏が、硫化水素で自殺を図ったことから、プロバイダ責任制限法の改定にまで話が及んでいるようです。「台本がない」という台本で、複数男女のシェアハウス生活を記録する「テラスハウス」という番組に出演しておられ、この番組内での言動がSNSで誹謗中傷されていたことが原因と言われています。

番組は見たことがありません。昨今のネット事情から想像すると、繰り返された…という誹謗中傷が、度を過ぎた品の無いものだった事は充分に想像できます。死の報に接したタレントやレスラー達からは、彼女の死を悼み、繰り返された誹謗中傷に対する怒りの声が次々上がっています。

もとより、キチンとした場では発言をする勇気を持たず、発言者が特定できないような場で、身を隠したまま無責任発言を繰り返すこと自体が間違っています。そういう意味で、ネットは顔を晒していない…という不思議な安心感を盾に、理性や知性、品性をかなぐり捨てる発言が多すぎます。言うまでもなく心すべき事です。

良く「人が死なないと警察は動かない」などと揶揄されることがありますが、まさに人が亡くなった事で、ネット上の無責任発言にスポットが当てられた格好です。法整備の行方は知りませんが、これでネット上のモラルが見直される結果になれば、せめて彼女が浮かばれるのかと言うと…はなはだ疑問の心境です。

今更のように、気づいてあげられなかったと唇をかんでも、事は遅いのです。それなのに敢えてそうカミングアウトする人たちを見ていても、ネットの未来が変わるとは思えません。

法整備には、十二分の議論が必要だと思いますし、どのような形で「無法地帯」であるネットに「法」が持ち込めるかは、これからでしょう。ですが、もっと大切なことは、ネットで身を隠していたら理性や知性、品性をかなぐり捨てられる人間性が問題なのではないでしょうか。そしてそれは、偏に教育に負うところが大きいのではないかと想像します。「ひとの痛みを知る」「ひとにやさしく」「相手を尊重する」そういった教育は山と繰り返されてきて、現在の非常識なネットの世界が出来上がっています。人が人として、自己を高める努力をどう自らに課していくか…という事を目指さない限り、第2、第3の木村花氏が出て来ない…という保証はありません。

理不尽なネットの声などに惑わない居直りを見せていただきたかったと思う事しきりです。せめて彼女の魂が安らかにあることを祈りたいと思います。

ゆとり

2020年05月24日 | 社会派らぼ
首都圏4都県と北海道に引き続き出されている緊急事態宣言は、明日にも全面解除される見通しのようです。解除は、直近1週間の新たな感染者数が10万人当たり、0.5人程度以下になることが目安とされていますが、23日時点で神奈川と北海道がこの数字を上回っていました。但し、感染者は減少傾向で感染経路がほぼ追えているといった事が指摘されており、政府は解除に前向きのようです。

感染阻止のためには、各自が「Stay Home」。できるだけ家にとどまって外出を自粛するのが一番効果的なのでしょうが、経済活動がストップしている現状の経済損失は測り知れません。100年も昔のスペイン風邪と比べるのは、あまりにも時代錯誤かも知れませんが、抗ウィルス薬が開発されない限り、一斉休校やマスク着用などの対策はその時代とさして変わりがありません。スペイン風邪の収束には3年を要しており、その間流行のピークは3度発生したとの記録を振り返ると、これでコロナが抑え込めたと考えるのは、時期尚早かもしれません。

各地の小中学校も6月1日から授業が始まるところも多いようで、9月新学期論はうやむやのうちに忘れ去られそうです。が、昨年度3月から休校が続いている事を考えると、短期間にその間の学習が取り戻せるとは思えません。夏休み返上や土曜通学などもどうやら無さそうで、夏休みも2週間くらいは計画されているようです。休み中の課題も成績査定に使われる…との事ですが、査定ができればそれで良いとも思えません。数年かけて遅れを取り戻す…としているようですが、結局その間の子ども達が「貧乏くじ」を引いた事になってしまいそうです。

世の中は解禁になっても「新しい生活様式」とやらが求められています。自分の身は自分で守りましょう…です。が、身を護る事に汲々とするあまり、他人を傷つける事に鈍感にならないようにしたいと思います。随所で「コロナハラスメント」の言葉を聞くようになってきました。テレワークやリモート会議など、生身の人間と接する機会が減り、合理的に仕事を進める事が可能になりつつあります。画面を介したやり取りで、そん色は無いと思いがちですが、画面からは温度を伝える事ができません。人の想いに心を配るゆとりを忘れないでいたいと思います。

2020年05月12日 | 社会派らぼ
コロナの収束を願うという意味では、皆が同じ思いを共有しています。が、地域によって立場によって、当然意見は分かれる場合があります。先日、コロナ騒動にトップ級の対応を見せている吉村大阪府知事が、「大阪モデル」を発表しました。緊急事態宣言の出口戦略と言えばよいでしょうか。どうなれば休業要請などを解除し、更にはどうなれば第2波に関して再宣言するかといった基準を、数値で示すものです。

これが殊の外反応が良くて、更に吉村知事が「国に指標を示してもらいたかった」と注文をつけものですから、西村経済再生相の「休業要請と解除の権限は知事にある」として知事の勘違い発言に繋がりました。知事が瞬時に「今後は発信に気をつけます」と陳謝する形をとったのも、世論には好印象で、吉村株は上がる一方。西村氏には印象戦ではマイナスポイントがついた感が免れません。政治というものは、正論を振りかざしてさえいればよいのではなく、人の心をいかにつかむかが大切なのだという見本のようなやり取りでした。

休業要請は知事の責任ですが、言い換えると緊急事態宣言は国の責任です。13の特定警戒都道府県と、それ以外の県に分けて宣言が出されているわけで、その宣言に関しては、国が基準を示す必要があります。吉村知事は、敢えてそういう指摘はしませんでしたが、西村氏は14日より前に方向性を…と解除基準を示す考えを表明しています。地方からの発信が国を優ったと誰しもが考えます。

一方、大阪府の歯切れの良い発信にあやかろうとしてか、愛知県も独自の数値基準導入を発表しました。更に兵庫県も独自の解除基準を作成中としています。国が「解除の基準は知事にある」としているわけですから、それぞれが独自に基準を模索する事になるのも当然です。キチンとした地域独自の基準が示せるケースと、単に「右へ倣え」のケースが出て来ることが予測できます。知事にもその力量に差があって当然です。大切なことは、自らにその力量があるか無いかを客観的に知っておく事かも知れません。

自らの器を知って、身を諫める事を良しとした時代がありました。が、今や自らの器を大きく見せる時代になりつつあります。見せた器に中身がついて来ることも勿論あるでしょうけれど、見せかけ倒れになる場合もあります。古来「己を知る」事は、己を見つめる事であり己を律する事でありました。今は、自分の力を決めて制限をかけてしまわずに、もっと大きな力があると信じる事の方が美徳とされている感があります。…が、あまりある才は、いくら伏せようとしても溢れ出て来る…はずです。自らが歌わなくとも、周りがその才を認めざるを得ないのを本当の才と言うのだと思います。

危機が才を生む…コロナ禍がそれぞれの地で有能なリーダーを生んでくれれば…と願います。

もっと

2020年05月06日 | 社会派らぼ
5月末まで「緊急事態宣言」が延長されました。これを受けて、各都道府県がそれぞれに対策を発表しています。それぞれ感染者数も異なりますし、人の往来度・密集度などにも差がありますから、独自の判断があるのは当然かと思います。加えて、首長の手腕・力量にも差があり、安心感を持てるリーダーがいれば、住民が不安を募らせている地域もあるようです。

人類の歴史は、感染症との戦いを繰り返して来てはいますが、現代人にとっては未経験の世界です。特殊な地域に限っての蔓延は経験したことがあっても、これほどまでに世界規模のしかも危険性の高い試練は、初めてと言っても過言ではありません。残念ですが、対応に右往左往するのもうなずけてしまいます。

でも人はただ「頑張りましょう」では、効果的に頑張ることができません。元々頑張る気の無い人に「頑張りましょう」は必要な呼びかけかも知れませんが、頑張っている人に「頑張りましょう」は効果が期待できません。頑張っておられる方々は、既に頑張っていて、今更「頑張って」というエールは空しくしか聞こえないものです。もっと具体的に、それならやれそうだと思うようなアドバイスを差し上げないと、目の前の壁に立ち向かう勇気が出て来ないものです。本当に効果があることでなくても(笑)、こうしたらできるかも…という具体案があれば「じゃぁ、やってみます!頑張ります!」という気力が出て来るものです。そういう意味で、大阪府知事が外出自粛や休業要請の解除基準を独自で示したことには、意義があるかと思います。

愛知県では、文科省の示した「小1・小6・中3」案でなく、児童を2グループに分けて、隔日登校といった案を提示しているようです。こちらも具体案として耳を傾ける値打ちがあると感じますが、学校についてはある程度、全国の足並みが揃うべきかもしれません。「ゆとり世代」だのと言われたのと同様、いずれ今の子ども達は「コロナ世代」だから…と揶揄されることが目に見えるような気がします。授業日数が欠けたのは仕方がない…ではなくて、彼らにも公平に学習機会を与える必要があると思います。全国一律「9月スタート」に価値があるのはその意味で、説得力を感じます。

ホリエモンこと堀江貴文氏が、長良川で川遊びをして溺れた男性を叩くコメントに「やばい世の中になったな」とつぶやいています。自宅に居るよう自粛が呼びかけられている中、救急出動させるような行為を批判する多くの声に対する苦言です。ホリエモンと言えば毒舌で知られています。その彼をして、自己責任論を振り回して他人を叩く世間を嘆かせるのは、論外なのかも知れません。

コロナ禍を通して、人はもっと謙虚に、もっと強く、もっと賢く、もっと優しくならなければならないと思います。

絶対

2020年05月04日 | 社会派らぼ
安倍首相から、「緊急事態宣言」を全都道府県を対象としたまま5月31日まで延長すると、発表がありました。但し、14日をめどに、解除の可否を検討するそうです。予断を許さない状況にありますが、新規感染者数が少し落ち着いて来ているのは確かでしょうか。このまま抑え込めるといいですが、油断は禁物です。

緊急事態宣言を受けて、休校措置はどうなるのでしょうか。既に自治体によれば、31日までの休校を発表しているところもあれば、休校措置が切れるのが1週間後くらいに迫っているところもあります。ただ、各地で教委の方針は異なるのかも知れませんが、再開しても保護者が子どもを自宅待機させたいと申し出た場合、欠席にはならない…のだとか。それって…。

確かに「絶対安全」といった状況は、そうた易くは生まれません。学校が再開されて、通学したことでコロナに感染し、命まで危険にさらされたとなった場合、学校は責任を持てません。だから、自宅待機させておきたいという申し出を、無視することができないわけです。

う~ん、なんだか少し腑に落ちません。学校の価値を認めていない親は、少なからずいます。学校などに行かせておくより、塾に通わせておけばいい? YouTuberとして活躍する方がよほど意義がある? そんな方針を持っている家庭もあるわけで、そうした個々人の偏った教育論から、子ども達を守るのが「義務教育」の役目です。「コロナが危険だから」という隠れ蓑に身を隠す家庭を容認することにつながるような気が…します。

物事に「絶対」はあり得ません。私たちが、何かにつけ「絶対」を求めるのは、間違っているのだと考えます。例えば、ネット上には「絶対」の安全はありません。どうしたら安全が確保できるのかといったアドバイスはたくさんあるでしょうし、耳を傾ける値打ちはあると思います。それでも「絶対」はあり得ません。最後は「自己責任」でしかありません。

同様に学校の安全にも「絶対」はありません。子ども達の安全は、学校が保証できるものではありません(平時であっても)。それでも、自己責任で通わせるところが学校なんだと考えると、再開した学校で、子どもを自宅待機させたいと考える親御さんは、「欠席」させてでも我が子の安全を守るべきなのではないかな…と思うのです。出席日数が足りなくても、命を守れたら、それはそれですから。

だから、自宅待機させたければ欠席にはしません…とか、小1と小6と中3の授業だけを優先させるとか…。学校全体としてのバランス…は、個々の生徒には関係ありません。小1と同じくらい小2の授業も大切です。親も覚悟をして子どもを学校に通わせるのです。学校側も覚悟を持って、生徒一人ひとりを受け容れるべきだろうと思います。

こんな時だから…品格を

2020年05月02日 | 社会派らぼ
これしか話題が無いか…というくらい、連日「コロナ」報道に明け暮れています。出口が見当たらず、当初はここまで…と思っていなかった世間も、いささかコロナ疲れを呈して来た感があります。各自治体の反応や判断を見ていると、その行動力や判断力が(正しいか否かは、もっと時間が経った先にしか判断は不可能です。)優れていると思う対応と、後手に回ってもっと何とかならないのかと思う判断が入り混じっています。偏にリーダーの手腕だという事でしょうか。ただし、力量があろうが無かろうか、今のトップに采配を任せるしか、私たちには術がありません。反対意見や新たな提案は、あって当然ですが、どのような形で異論を唱えれば良いのか、やはりそこには「品格」というものがあるべきだと、私は思っています。

新型コロナウイルス特措法に基づいて緊急事態宣言が出されており、行政からの休業要請が出されています。これに応じているにも関わらず、飲食店などに匿名の嫌がらせ貼り紙が貼られたりしているようです。それぞれの店舗では自分たちの死活問題を抱えつつ、可能な範囲で営業努力をしているところへ、「自粛警察」と呼ばれるこうした行為が相次いでいるとか。休業指示に従わないとやり玉に挙げられているパチンコ店でも、開店前の列に「営業するのはおかしい」とスマホで店員や客を撮影して叫ぶ男が現れて、警察が駆けつける騒ぎも起きたとか。コロナ禍の鬱屈感が、そのままこうした表現になるのでしょうか。

そうかと思えば、多くの感染者を出しているアメリカのニュージャージーで、医療関係者用のマスクを「手術器具とトレイの間に敷かれる布」で作ることが提案され、多くの市民が病院スタッフに代わってマスクづくりに取りかかっている…といったニュースも報じられています。身に危険がひたひたと押し寄せる中で、品格を維持できるか否か、私たちは究極に試されているのかも知れません。

社会活動の再開と、身の安全は、多分両立しません。このまま何もかも自粛で各自が家に籠って外出をしなければ、コロナは抑え込めるのかも知れませんが、仕事をしなければ経済が破綻します。学校の再開もどこまで行けば安全なのか見極められない中、いつまでも休校措置が続けられません。個人的には9月新学期説に賛成なのですが(4月からの年度を維持するには、欠けた期間が既に長過ぎて、その間何らかの学習を進めている子ども達と、そうではない子ども達の差が激しすぎます)、そこまでの英断を振るう人材には欠けているような感です。

このまま、社会活動が見切り発車される可能性も大いにあります。言葉は悪いかもしれませんが、罹患する人を切り捨てて、日常が優先される場合があるということです。自己防衛をするしか無いということでしょうか。他人にどうこうせよ…と詰め寄るのではなく、自分自身がどうすれば良いのか最善を考える必要があります。

(蛇足ながら、この窮状に、なぜNHKは全社挙げてでも、各学年に応じた授業放送を流したりはしないのでしょうか。たった一人の教師さえいれば、ホワイトボードをバックに授業を進める動画を作成することなど、実は簡単ではないでしょうか。受信料を払わない人からの取り立てを云々する前に、本当に皆に感謝される番組を制作して欲しいと思ったりします。)