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ぱそらぼ (ぱぁと1)

パソコン講座を、まじめに愛するブログです

タイタニック

2023年06月23日 | 雑談
タイタニック号の見学ツアーの潜水艇が消息を絶ち、必死の捜索が続いていました。残念ですが、消息を絶った直後に水圧で爆発した可能性が高く、乗り組んだ全員が絶望視されています。

イギリスの豪華客船タイタニック号は、1912年の処女航海で北大西洋上で氷山に接触して沈没し、乗員乗客合わせておよそ1500人が犠牲になった、20世紀最大の海難事故と言われています。生還者が700人とも言われていますが、映画化されるなど、有名な事件です。海底に沈んだそのタイタニック号の残骸を見学に向かって、同様に海底の藻屑と消えた…というのも皮肉な話です。

潜水艦には、ツアーを催行する会社のCEO、タイタニック号探査の専門家、三つのギネス世界記録を持つ冒険家、パキスタンの実業家親子が同乗していたと報じられています。タイタニック専門家の方には、乗船する必然性があったかもしれませんが、必然性がさほど見当たらない方々の家族には、受け入れ難い事故かも知れません。そんなツアーに行かせなければ良かった…と思う後悔に押しつぶされる思いでしょうか。

沈んだタイタニック号を実際に見学できるツアーが存在することも、かかる費用が3500万円だということも、多くの人には初めて知ることだったかもしれません。多額のお金を使って、事故現場を見に行き、不慮の事故に遭って命を落とす…という事実の横で、除隊後の刑免除を定めて犯罪者を正規軍に動員し、侵略を続けようとするロシアのウクライナ侵略のニュースが報じられています。人間に絶望する人が出てもおかしくはありません。

丸投げ

2023年06月02日 | 雑談
1991年、パソコンインストラクターの仕事を始めました。30年以上パソコン講座の現場にいたことになります。ちょうど2000年頃にはe-Japan構想が示され、全国の自治体でパソコン講習が行われ、無償ということもあって受講希望者が随分押し寄せたこともありました。多くの人が一通りのことができるようになったせいか、スマホで何でもできる時代になったせいか、最近はパソコンを修得したいという希望者は激減し、いわゆるパソコン講座は流行らない時代になったようです。

パソコンの相談日も開設していますが、訪れる人の方向も長い時間の間に、随分変わってきたような気もします。ポスターを作りたいという相談者に、どんな風にして作るか一つひとつのテクニックを紹介していくようなやり方から、丸投げまで、どんな手助けが必要ですかと尋ねたところ、「丸投げ」という希望でした。手間暇をかける必要のない楽な選択肢があるなら、やはりそうなりますね。

ただ、世の中の動きと無理に関係性を求めてみると、チャットGPTなどが登場し、AIによる自動応答がこれからの重要なツールになって行きそうな世の中とつながるところがあるような気もしています。手間暇をかける手仕事より、瞬時に結論に到達する方が歓迎されるのは当然の事でしょう。人類が世の中に登場して以来、自然の中で怯えて身を守る術を探すところから始まった文明の歴史は、いつの間にか人手をかけずに用が足りる時代へと進化してきたわけで、それこそが世の中の進歩でした。

文字もなく伝承で後世に色々なものを残そうとした時代もありましたが、いつしか文字を書いて書物にすることができ、その文字を書く必要もなくなり、書物を読む必要もない時代に突入しているのが現実かも知れません。ネット上の膨大な情報を自分で探して精査し、自身の考え方としてまとめて行くことをしないでも、AIがやってくれる時代…に突入しています。

それが人類の進歩だと思う一方で、突き詰めれば、では人は一体何をするのか?という疑問に行きついてしまう気がします。止めようのない輝かしい進歩の流れの中で、一昔前の青臭い「生きるとはなんぞや」という疑問に悩んだ時代の方が、人は人らしかったような…。

さくら

2023年03月28日 | 雑談
まだまだひんやりしていますが、季節は「春」。公園の桜は、既に満開。とてもきれいです。このあたりの小学校の入学式は4月10日だったでしょうか。残念ながら、それまでには桜は散ってしまっているかもしれません。

特に花見に行くでもなく…ても、近所を歩けば、満開の桜に出逢いますし、車で走ると、神社や川沿いに桜並木が続いていたりして、花見に行った気分に浸っています。この頃は、スマホなるものがあって、高性能のカメラが搭載されています。わざわざカメラを構える…といった意識なく、気軽にカシャカシャとシャッターが切れますので、特に写真が好きでというわけでない人間も写真を撮る機会が増えました。当然…ですが、この一瞬の華やかな桜もついつい写真に収めてしまいます。

不思議…なのは、後から見るどの写真よりも、実際に目で見た桜の方がきれいに見えるということ。腕の問題ですね。もっとカメラの上手な人がシャッターを切れば、美しい瞬間を切り取ることができるのでしょうけれど、残念ながら「ただシャッターを押すだけ」の私には、それなりの桜は撮れても、華やかさ・気品・風格のある「あの」桜は撮れません。

自分の「眼で見る」ということは、そういう事なのかも知れません。もしかすると画像に収まった桜が本物で、目で見た桜は、その時の気分や想いや心持ちによって、実際とは異なる姿を見ているのかもしれません。けれど、想いの中で捉えたものこそが「自分にとっての本当」なのでしょう。

おそらく、咲き誇る桜だけでなく、世の中の事象全てを「見る」ということはそういう事なのかもしれません。「ありのままの真実」というものは実体のない幻で、見る人によって世の中のことは如何様にでも見える。理性は理性だけでは貧弱でか細いものでしかなく、感性が備わることで、何倍も何十倍も美しく輝くのだとしたら、感性を磨くことが大切に思えてきます。

願い

2023年02月24日 | 雑談
子どもさんが大好きなキャラクターが描かれたクッキーを買って来て、大喜びで食べたご一家。お兄ちゃんは食べる前に写真を撮ってから食べたのに、弟さんは食べてしまい、後になって写真が無いと大泣きしたとか。機転を利かせたお母さんが、プレーンクッキーを弟に持たせて写真を撮り、ネットでキャラクターの描かれたクッキーを探し、写真を合成したら、弟さんはたちまち笑顔に。

そんな微笑ましいご家庭の話を聞きました。温かいご家族の雰囲気がこちらにも伝わってくるようなそんな気がしました。

けれど、何か引っかかるものがあります。写真を撮らずに食べてしまったから写真が無い。お兄ちゃんは写真があるのに僕は無い。だから大泣きをする。子どもなら「あるある」の経緯なのですが、だからと言って合成写真を作って、その場で泣き止ませる必要は多分無いのでは…という思いです。

望めば何でも手に入るわけではない…ということは、子どもが成長していく過程の中で、いやでも学ばねばならない事のはずです。こんな些細な一コマからでも、きっと子どもは世の中は思い通りにはならないんだということを学んで行くと思うから、合成写真などという現代の魔法を使う必要などなかったのではないでしょうか。

小林一茶の俳句集「おらが春」には「名月をとってくれろと泣く子かな」という句が収められています。子は美しい名月を取って欲しいと言って泣く。月など取ってやれるものではないことはわかってはいるけれど、きっと取ってやれるものなら取ってやりたいと親は願っているのでしょう。望めばなんでも手に入るわけではないことを学ぶのは、実は子ではなく、親なのだと思い至ります。

できないことをしたいと望むことはきっと悪い事ではなく、できないからこそ何とかできればいいのに…が、世の中の様々を変えて来たのかもしれません。「目の前にいない人とも瞬時に話が出来たら良いのに」。そんなこと、できるはずもなかったのでしょうけれど、今では当たり前に、それこそ相手が仕事中だろうが忙しくしているかもしれない時だろうが、お構いなしに電話をかけることができるようになりました。そんなことが叶うはずもなかった時代の人からすると、信じられないような話です。

やれもしないことをやりたいと望むこと、願うことは、新しい次の扉を開くことにつながります。それは、ただ「泣いて」いるだけでなく、心に刻んで忘れずに、いつかそれが何かのきっかけになるように、きちんと蓋をして整理しておくことからしか始まりません。ちなみに、夢や願いと妄想はどこで線を引いたら良いのでしょう…。

戯言

2023年02月16日 | 雑談
6日、トルコ南部シリア国境近くで、マグニチュード7.8の大地震が発生しました。両国の犠牲者は合わせて4万人以上にも上り、72時間が勝負とも言われる時期を大きく超えた今、現地では懸命な救助活動が続いていますが、犠牲者はさらに増えるかと思われています。

と同時に、広範囲にわたって町が破壊され、何百万人もの子どもたちが緊急の人道支援を必要としていると報じられています。冬の寒さの中で路上で寝泊まりしている子もおり、ユニセフは多くの子どもが「絶望的な状況」にあると表現しています。既に、各国から医療支援チームが駆け付け、被災者の治療に当たるほか、支援活動なども行われてはいますが、現地が平穏を取り戻すまでには、相当な時間が必要であり、その間継続的な支援が必要であると思われます。

自然災害は人間には抗うことができないもので、仕方がないといえば仕方がないのですが、ロシアの侵攻以降、1万3000人にも上るウクライナ兵士が死亡したとも報道されています。戦争状態の中ではロシア兵・ウクライナ兵・民間人のいずれにも死傷者が出ており、おそらく正確な数は測りようが無いのではないかと思われます。自然災害とは異なり、人の意思によってもたらされている悲劇であり、人間の無能さを示しているといっても過言ではないかもしれません。

またロシアは、生後4か月から17歳までの子どもを、少なくとも6000人連れ去り、組織的な再教育をしているとの疑いが発表されています。教育というのは恐ろしいもので、偏った見方を刷り込まれると、偏っているということ自体に気づくことが困難になります。

そんなこんなの世の中を見渡せば、日本の「今」がいかに恵まれているかは歴然としているのですが、その日本の子どもたちは、果たして正しい感性を持ち合わせているのかと考えると…。教育は恐ろしいものです。何を学び、何を吸収するかによって、価値観や人生観が異なってしまうはずなのに、現在の教育は「人が人としてどうあるべきか」という根幹を放棄しているような気がすることがあります。

戦時下での偏った教育への反省から、自由と自主性を重んじるとする今の教育に切り替わりました。自分の可能性を最大限に発揮し、幸福な人生を自ら創りだしていくことが大切だとされていますし、きっとそれは正しい事だと思うのですが、世界のあちこちで人が苦しんでいるような社会の中で、自らの生き方をどう襟を正さねばならないか的な視点が、そこには欠けているような気がします。

自分の可能性を生かすこと。自らが輝ける生き方であること。光り輝いている字面を追えば、それは素晴らしい理念であると思いますが、そのために自らをどう律していくべきか、自分がどうありたいかではなくどうあるべきなのか…といった、生きる根幹に関わることがそっくり欠如しているような感覚に陥るのはなぜでしょうか。

ウクライナの悲劇はどうすることもできません。トルコで苦しんでいる人たちに手を差し伸べる方法は、寄付をするくらいしか思いつきません。撃ち落さなければならないのは、空中を飛んでくる気球ではなく、自分たちの中に巣くっている「お金が手に入ればいい」「楽して生きていければそれでいい」とする退廃なのかもしれません。「お国のため」と洗脳したかつての教育は間違っていると思いますが、自らが人間的な高みを目指して、自分自身の「在り方」を模索する必要はあるのではないかと。

自転車人間

2023年01月14日 | 雑談
毎日冷たい日が続きます。寒い…というより、冷たい…感じです。「年」と「年度」が異なっているのは周知の事で、年は明けて暦は新しくなりましたが、年度末の時期で、年度末処理や4月からの「新年度」の準備に忙しいのがこの季節でしょうか。

ちなみに日本では、財政法に「国の会計年度は、毎年4月1日に始まり、翌年3月31日に終わるものとする」と規定されており、地方公共団体についても地方自治法で同様に規定されているそうです。更にちなみに、アメリカの会計年度は10月から9月だそうですし、イギリスは日本と同様4月から3月。欧州主要国を中心に1月から12月としている国が多いようで、世界統一基準はありません。

何せその年度末ですので、新年度に向けての計画にあれやこれや頭を悩ませています。近年はスマホやタブレットの時代となっているようで、パソコン離れが顕著だと言われます。以前は、中高年はパソコンが苦手というのが通例で、職場では年配者が若者に教えを乞う図式だったようですが、最近はパソコンが使えない若者が急増していると言います。スマホやタブレットの普及によって、パソコンを使う必要が無いのだとか。

が、スマホやタブレットの時代だからこそ、「パソコンはもっとパソコンらしく」使わなければならないのではないだろうか…と考えています。単にネット検索をしたり、メールやラインのやり取りをするのなら、スマホの方が便利なのはわかり切っています。パソコンの使い道がネットやメールでは、廃れて当たり前かと。スマホ時代を十二分に意識したパソコンというものをもっと考えて、提案ができたら良いなと思って、あれこれ思案を巡らせています。

ですが、あれやこれやと思いを巡らせて、私の場合はそれを実際にご案内する機会を想定し、内容を組み立てて資料を作る…といった風になるのですが、この作業はやはり楽しい(笑)。二輪の自転車は漕ぎ続けていないと、自立しません。漕いで前に進むことで、初めて姿勢を真っ直ぐ保ち続けることができます。自転車人間の私だけでなく、きっとそういうものなのではないかと思います。

世の中は、個人の力が及ばないところで、最悪の加速度を加えているようです。大きな流れを考えると、足がすくむような気がします。そんな時代だから…ではなくて、そんな時代だからこそ…、一人ひとりが小さな自立を続ける事しかできないのかも知れません。漕ぎ続けることでしか、前に進むエネルギーは出て来ないのだとしたら。

あけましておめでとうございます

2023年01月06日 | 雑談
明けましておめでとうございます。

新しい年が明けました。ただひとすら流れていく時間の中で、人間は「暦」というものを考えました。それは壮大な宇宙の定まった動きに起因しているとはいえ、辛いことも哀しいことも一区切りさせて、新たに頑張ってみようかなという真っ新な気持ちにさせてくれる不思議な効果があります。

昨年は長く続けたブログを開けない日々が続きました。いっそ閉じてしまおうと何度も思いましたが、これまで紡いだ駄文が愛おしくてそのままに。いただいたお年賀状でブログに触れて下さった方もおられ、…心の片隅で気にかけていただいていることが有難く、新年の真っ新効果もあって、久々にキーボードを叩いています。

駄文を綴らなくなった理由は、単に日々惰性に流されていただけです。哀しいかな、年齢を重ね、若い時のように勢いだけで突っ走ることが次第に難しいお歳ゴロに差し掛かってきました。加えて世界が誰もが止められない方向に突っ走っており、そこではいくら「人はこうあるべきなのでは」とか「こんな風に生きる方が…」とか考えてみても、異なる価値観の前に全てが無力であることを実感させられる日々であったせいもあるかと思います。(←言い訳)

「ニワトリが先か 卵が先か」。互いに循環している原因と結果の端緒を探ってみても、明確な答えは出てはきません。「国ありき」か「人ありき」かといった問題も、似ている気がします。「国ありき」で、その国に人が住んでいると考えるか、「人ありき」で、その人たちが国を作っていると考えるか、そんな根本的な価値観の相違がある限り、世界が一つになることは難しいように思えてきます。プーチン大統領が率いるロシアの蛮行を非難する声は確かに正しいし、ロシアという国の民意が平和へ舵を切ってくれないかと切に思います。が、もしかするとプーチン大統領自身が「国ありき」という大前提で、その国が偉大でなければならないという大きな妄想を背負って、苦しんでいるのかも知れません。

ネットの世界が大きく変容を遂げました。当初は、発信が可能なのはほんの一部の限られた人だけで、それなりに立場を持っている人たちの手でネット世界が築かれて来ました。最近はどんな考えの人も等しく主張が可能な時代に突入し、真偽・虚実・表裏が混とんとした世界になっています。

大地が誰かの所有物であり、その大地が生む産物は所有者の財産であり、財産を築く営みで経済が回るという世の中である限り、世界も一層混とんを極めていくのではないかという危惧が否めません。生まれた土地や住む土地に関係なく国が選べるとか、もしかすると国という概念がなくなるとか、価値を定めるものが貨幣でなく例えば「人からの感謝」であるとか…。いずれにしても現在の社会のありようは、人間がたどり着く最後の形態ではない気がします。

世界がどうであれ、「自分の生を閉じる」ためにどう生きたいのか、自分で納得のできる日々を過ごしたいと思います。今年は気まぐれ発信をいくつ重ねることができるでしょうか。パソコンが不調で、突然落ちることを何度も繰り返し始めており、行先思いやられる新年です。皆様のご多幸を心より祈ります。

年賀状

2022年01月01日 | 雑談
明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

日本に暦が伝わってきたのは6世紀頃とも言われていますから、それ以前の古墳時代や弥生時代に遡ると、現代のようにカレンダーを見てそろそろ寒さもピークだろうとか、もう少しで春が来る…といった感覚は持てなかったでしょう。長年の勘が、耐え忍べばいつか芽吹く春が来るという事はわかっていたかも知れませんが、カレンダーを1枚めくって、気持ちをまっさらにするなどといった芸当には縁がなかった時代でしょう。

現代の私たちは、暦を手に入れて季節の巡りを頭で理解することができ、辛いことや苦しいことがあった時にも、その都度気持ちをリセットする節目を手に入れました。新年は「もう一度1から」と思い直す良い機会です。

年頭に当たって送り合う年賀状の習慣が廃れつつあると言われます。メールやSNSの普及がその背景にあることは明白です。1枚1枚手でしたためた時代がありましたが、今ではプリンタが自動で印刷をしてくれます。それでも年賀状のデザインを考え(数あるサンプルから選び?)ハガキを買って来てプリンタにセットし、パソコンを操作するその手間ヒマから解放されたい…と思う人が多いということでしょうか。

虚礼廃止といった言葉もまことしやかに叫ばれた事もあります。要するに、誰だったか(…は大げさにしても)も考えず、機械的に挨拶を送ること自体に意味は無いとする考え方です。子どもの頃、父親の年賀状の宛名書きをしていましたが、選挙運動のアルバイトみたいなもので、虚礼と言えば虚礼かもしれません。が、いただいた年賀状を嬉しそうに見ていた父の姿を思うと、虚礼とは言い難いものがあります。

この時代ですから、年賀状はやめてSNSでご挨拶も良いかも知れませんね。でも「SNSで年末や新年の挨拶はどうする? 参考になる例文テンプレート・投稿事例集」なんていうサイトが立ち上がっていたりするのを見ると、それって意味があるのかなと笑ってしまいました。

年賀状を書くのが大変なので「出さずにスルーする」という動きも広がっているとか。ご年配の方を中心に「今年限りでご挨拶は失礼します」といった「年賀状卒業」の儀式を経ずに、ただ出さないといった「年賀状スルー」。「『年賀状スルー』あ、出さないでもいいのか」という反応を見て、う~んそうじゃないだろう、出すか出さないかは個々人の考え方ひとつなのではないだろうかと思いました。出すもよし、出さぬもよし。自分自身が、相手とどう繋がっていきたいか?だけなのだと思います。

今年も皆様と細々と繋がっていたい…と願う当ブログです。

将棋

2021年11月13日 | 雑談
14歳2か月という史上最年少でプロデビューした藤井聡太氏は、あっという間に王位、叡王、棋聖の3冠を獲得し、四冠目になる竜王に挑戦。四戦連勝でタイトルを手にされました。もちろん史上最年少のぶっちぎりの記録です。おめでとうございます。コロナ、コロナ…で、世の中が停滞している感が強い中、誰しもの心が少し踊るニュースです。

何より、ご両親の教育のおかげなのか、師匠の薫陶のおかげなのか、傲慢さを微塵も感じさせないところに好感を抱きます。勝率や最年少記録、タイトルに関心を寄せる世間とは別次元にあって、「強くなる」ことだけを目指している…という彼の姿勢が、生涯崩れないことを願います。

将棋も門外漢です。が、駒の並べ方と動かし方程度は、子どもの頃に教わった覚えがあります。7歳と5歳の姉弟に尋ねられたので、簡単な動きを教えたところ、あっという間に将棋にはまったのは意外でした。ゲームのようなビジュアル性や効果音などが全くない世界なのに、小さな子どもをが魅了されるのが不思議ですが、当面飽きないようです。一つひとつの駒の動きに別個のルールがあって、敵陣に入ると「成る」事で力が倍増す…など、初心者には初心者なりの楽しみ方があるようです。

ニュースとは無縁の子どもですので、藤井氏の活躍に感化されたわけではありません。これが将棋が長く愛されて生き残ってきた魅力なのかと漠然と感じます。少なくとも「受動脳」では無さそうなので、いつまでこのブームが続くかわかりませんが、当面楽しめたら良いなと思っています。まだまだ「漢字」の知識が無い5歳。「信用金庫」の看板に「金がある!」(うんうん)「角もある!)(えっ…?)。「用」の漢字が「角」に見えたらしい。「安全」標語にも「金がある!」(惜しいっ。「全」は「金」の点々がないよぉ)

余暇

2021年10月31日 | 雑談
最近始めた「趣味」?というか、「時間のつぶし方」?について。別段、時間があり余っているわけではありません。するべき事はたくさんあっても、なかなか気が乗らない…というか、懸命になれず集中できない時が増えました。

そういう時は、単純作業に限ります。我が家には小さいながら、庭があります。一年の大半は放ったらかしで、きれいに庭を整えておられるご近所には、申し訳なくて、いつも言い訳ばかりしています。「私が庭をきれいにし始めた時には『あぁ、歳をとったのね』と思ってネ」とまで宣言して、普段は放置なのですが、たまにスイッチが入ると、今度は止め時を失う…という、なかなか厄介な性癖があります(苦笑)。何も考える必要のない単純作業は、ある意味でどこか救いです。

庭に出るのは面倒で…の日常には、「ゲーム」が手軽です。特にゲーム好きというわけではなかったのですが、時間を潰すのにはなかなかの優れもの。攻略に頭は必要なのでしょうが、私がするような単純なゲームは機械的に等しいくらいの頭の使い方しか要りません。それでも多少の工夫をして、高得点でステージをクリアすると妙な達成感も得られます。引きこもりなどと称される人たちが、一日の大半をゲームで過ごしているなどと聞くと、わからないでもないと思ったりします。ただ、ゲームは安易に時間を潰すことができる反面、一層無気力になるような気もします。頭が受動脳になる…とでも説明すると、良いかもしれません。

…前振りが長くなりましたが、最近「数学Ⅰ+A」という薄い問題集を買い込みました。ハイ、高校の数学の本です。前から、やりたいと思ってはいたのですが、なかなかきっかけがありませんでした。たまたま数学の問題を聞かれたのですが、小学校の算数の問題なら、忘れているとは言え、しばらく格闘すれば何とかなっていたのが、高校の内容となってくると基本事項さえすっかり忘れてしまっていて、どうにもならない(!) それなら…と、書店に走りました。

これ、それなりに充実感もあり、ゲーム感覚で、目下のところ時間の潰し方ナンバーワンとなっています。不思議な事ですが、ゲームのような無気力感を伴いません。ただ「昔取った杵柄」とは言い難く、肝心な箇所は読み飛ばすは、計算は間違えるは、順列だの組み合わせだのとなって来ると「えっ、昔こんなのやったっけ?」状態です。目下の悩みは、次に「数学Ⅱ+B」に手を出すべきか、「数学Ⅰ+A」をもう一度やり直そうか。結構真剣に考えています(笑)。