ぱそらぼ (ぱぁと1)

パソコン講座を、まじめに愛するブログです

勉強会

2007年02月28日 | アイボ
長くパソコン講座に関わって来て、それでもそれでも、私の中には「こうじゃない」「こうなのよ」「こうしたい」「こんな風に」が渦巻いています。何故なんでしょうね(笑)。

私には、多分「私流」パソコンの使い方…があるような気がしています。私にとってそれは、ただの「勘」だったりするものを、どうしたら皆さんの「勘」として共有できるのか、手探りしているような感じです。そんな風に「何となく触ってるだけじゃダメで、う~~~~ん、今のクリックに何の意味があるのか考えてクリックしようよ~~~」と今日も独り相撲を取っていた次第です。

たくさんの方に出会う度に、その一人ひとりに「もっとこうしてあげたい」「もっとここをわからせてあげたい」が募るのですが、私のように教室形式を取っているといつも自分の中に未消化部分が残ってしまいます。

…で、そんな「こんな風に」「あんな風に」を、今年度はM公民館で「勉強会」の名の元に実施させていただく機会をいただきました。全てが手探りですから、自分の目論見と実際には勿論ズレが生じてきているけれど、こんな「場」を生み出せたことに取り敢えずの満足をすることにしています。勿論この「勉強会」を許可してくださった館長さんや、積極的に後押しをしてくださたた職員さんや、何より全面協力をいただいたアイボの皆さんとご参加くださった受講生の方々のおかげだと感謝…です。

明日が一応のラストです。もう一度今年度を振り返り、自分の「こんな風に」「あんな風に」を振り返り、モット良い形、モット自分の内なるものと一致する形を模索したいと感じています。皆様のアドバイスをいただき、今後とも何卒よろしくお願いいたします。


邪魔な(?)描画キャンバス
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パソコンの気持ち

2007年02月27日 | ぱそこん道
オフィス2007が発売されました。マイクロソフトの考えを代弁すると、「特別な知識がなくても使えるパソコン」を目指しているのだと思います。その方向性は反対ではありませんが、今のやり方がベストなのかと言うと「?」です。

「特別な知識なく使える」という方向は、どうも食品を買い揃えて料理をするのでなく、レトルトパックを買うという考え方のように思えます。それはそれで便利です。ですが「便利になる」ということはどういうことかと、一抹の疑問も感じています。2007の考え方で気になるのは、自分の意志で構築する画面が面倒な場所へ押しやられ、何パターンもの出来合いの中から選択する画面が手近になってきているように感じる点です。

「詳細」を知る必要はなく、ただ「利便性」だけで充分なのでしょうか。理解し考える力、生み出し創り出す感性などは、不要になっていくのでしょうか。難しいことはすべてブラックボックスに閉じ込めて、ややこしいことには一切関与せずに日々を流して過ごすのが、人間の目指している理想なのでしょうか。

これからも「パソコンの気持ち」が分かる使い方を、(それが少数派になろうと)模索していたいと思います。


ワードでの微調整
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1ヶ月ぶりでした…

2007年02月26日 | アイボ
パソコンは日々進化していますし、その目指しているものは恐らく「誰にでも使える機器」だと思います。最初の頃のパソコンの画面をご存知の方がどのくらいおられるかは疑問ですが、MS-DOSといわれる不滅のOS(!)がありました。恐らくはMS-DOSが覆ることなどあり得ないくらいに思われていた基本ソフトです。これは、真っ黒の画面で白い英文のような文字がズラズラ~ッと並びました。

Windows95の発売と共に、パソコンは画期的な変貌を遂げました。CUI(Character-based User Interface)と言われた文字で操る世界から、GUI(Graphical User Interface)の絵で表現する世界への転換が、専門家の手にあったパソコンを一般の人たちの手に渡したと言っても良いかもしれません。それを更に、直感だけで使えるようにしようとの意図を、WindowsVISTAに搭載されているOffice2007などには感じます。(その目論見が当たるかどうかは?です。)

それでも、私はパソコンは「理解して」使うものだと考えています。ただガチャガチャと触ってみて5回に1回上手くいけばそれでよいのでなく、5回とも確実に操作できるものであるはずです。今現在の多くのユーザーには、パソコンが便利な道具であることは間違いありませんが、使い方の殆どが「単なる清書用具」のように感じるのです。習った処理はするけれど、それはそれ以上のものを生みはしない…と言った残念な使い方にどうしてもなってしまわれるのです。

そうではないのです! パソコンは「思考支援ツール」です。どうやって使っていくかは自分のアイデア次第です。実は「想像力」がトテモ重要だと考えます。坊ちゃんが小6でPTAの役員を務められるお母さんが、子どもさん達の分団登校の班分けをしておられました。6年の班長を筆頭に、各学年を万遍なくばらけ、兄弟は同じ班になるよう、男女が偏らないよう…パソコンはできた班分けをプリントアウトするものではなく、その班分けを考える過程にこそ必要な道具です。少し、作業にアドバイスを差し上げたことで、「ヤッパリ楽なんですねぇ!」と喜んでくださいましたが、パソコンとはそういうものなのです。

どうしたら…そうした世界に皆さんをお連れできるか、私の試行錯誤はまだまだ続いています。懲りずにお付き合いいただければ。


ややこしーDVDの話
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美しいひと

2007年02月25日 | 命の生き方
知る人は知っている…私の「夢」は、何と大胆にも「本を創る」です。本を創るなんて大それたことなのはわかっているのですが、夢を見るのも自由ですからね!

実は、せっせと原稿は作っています。言い出してからの年数ったら相当ですから、本当ならとおの昔にできあがっているはずです。けれど、一番最初はワードで、でもワードは実はいい加減なソフトで本当の意味ではDTPとしては使いにくいものでイラストレーターに切り替えました。イラストレーターはご存知かどうかわかりませんが、1ページが1ファイルとなります。ですから本を作るとしたら膨大な数のファイルを作っていく作業になるので、これをインデザインというソフトに変えました。インデザインでの仕事中、中断期間がかなり入ったので最初からもう一度見直しをかけていて、2007の発売予定に出鼻をくじかれました。

ですから今、5回目くらいの原稿書き直しを始めたところです。多分私は「夢」を追って駆けている期間を楽しんでいるのだと最近気づきました。勿論完成が目標ですが(但し完成しても本になるかどうかは不明です)、恐らく完成してしまったらその瞬間から私は次の「夢」に向かって走り始めるはずです。

「夢」を「幸せ」に置き換えても一緒だと思います。「幸せ」というのは、追っている間が「幸せ」なのであって、絵に描いたような「幸せ」を手に入れてしまえば、それはその瞬間から「幸せ」ではなくなるんだと思います。メーテルリンクの名著、『青い鳥』の所以です。

講座中の受講生の方々は「美しい」と思います。一生懸命課題と取り組んで、努力のありったけで向かわれる姿が私は好きです(できる、できないではなく…です)。でもその期間を過ぎて尚、輝いていられる方達であって欲しいと願っています。手に入れたものに慢心するのではなく、常に自分の原点を見失わない方々は、尚いつまでも「美しい」と感じます。


グーグルアースの3-Dレイヤー機能
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人の話を理解する

2007年02月24日 | 命の生き方
「人にものを伝える」のはトテモ難しいと感じますが、「人の話を聞く」ことはモット難しいと思っています。

あるインストのアシストを務めた人から相談を受けたことがありますが…。講座中、質問をいただくことはよくあります。そのインストは質問に「それはね…」とその場で答えるのですが、明らかに聞いている内容とは違ったことを答えているらしいのです。休憩時間に「○○のことを聞きたかったんじゃないですか?」とアシストが声をかけると、質問者は嬉しそうに「そうなんです!」。で、食い違いを伝えるのだけれど「あ、そう。」の一言だけしかない…。

これは極端な例ですが、「聞いている」振りはしているけれど、本当に「心から気持ちを聞いてはいない」ことはありがちです。上の例で言うなら「質問者の迷いをなくしてあげたい」と思って聞くのと、「答えられなかったら困る」と思って聞くのとでは全く違ってくるということです。インスト側は「授業中の質問にその場で答える」ということが目的ですから、質問者の戸惑いが放置されたことについては気にする内容ではなかったのでしょう。

相手の立場になって話を聞いていないと、ツイ自分の土俵の上でものを考えてしまいます。質問を伺うときは、努めて自分の頭を空っぽにします。状況説明をされるとおりに、場面を自分の頭の中で想像して組み立てていきます。その上で答えると、お気持ちに沿った答が返せる気がしています。たとえ、そこで正しい答が導けなくても「○○のことをおっしゃってるんですよね」と確認するだけでも、トテモ救われた顔をされます。相手の土俵が不明な時は「ご質問の意味を私がよく理解できていないと思うんですけど…」と、再度お伺いする場合もあります。

人の話を理解する「聞き方」ができないと、自分の話すことを理解していただく「話し方」も稚拙なような気がします。講座は奥が深いです。


圧縮ファイルを解凍する
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飲酒運転

2007年02月23日 | 命の生き方
飲酒運転での悲惨な事故が報道されたことも記憶に新しいですし、交通法規が飲酒運転に厳しくなったことも周知のことと思います。それでかどうか、最近飲酒運転事故の記事を見かけることが減ったように思います。本当に減ったのでしょうか。それとも単にマスコミが飽きただけでしょうか。

飲酒運転が何より性質(たち)が悪いのは、「このくらい飲んでも自分は酔っていない」と頑なに思っていること。判断力や瞬時の機敏な動きには自信さえあって、ハンドルを握っていること。

どうも最近の私達は、「お酒」ではありませんが、「何か」に酔って、人生を飲酒運転しているような気がしたりします。飲んだのは「金銭至上主義」か「身勝手」か「人間としての尊厳を忘れ去ること」か…何かわかりませんが、もしかすると既にアル中状態になっているかも知れません。

それなのに「自分だけは間違っていない」と未だに信じていること。危うい運転は側で見ていればわかるのに、「お酒なんて飲んでいない」と言い張る本人に、それ以上の苦言が呈せなくています。もしかすると、自分では「飲んだ」という意識はなくて、毎日毎日の食事に少量ずつ混ぜて(ヒ素か何かのように)、長時間かけて中毒状態になっているのかも知れません。それなら、本人に自覚のないのも頷けます。

私達はいつの間にか「個人」が集まって「社会」を構成していると思っているけれど、「社会」を構成する単体の一つ一つが「個人」なのだと思います。単独行動で狩りができる肉食獣でないのなら、群れを大切にしないと命取りに繋がりかねません。


ワードの表で行高が広がらない
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ブログ

2007年02月22日 | 社会派らぼ
小学生相手にブログ講座を…といった話を小耳にしました。恐らくこれから、色々なことが検討され、望ましい形に計画を進めて行かれるのだと思います。ですから、その計画の話ではなく、別個の話として読んでいただきたいと思います。

個人的には、小学生にブログは反対です。ネットの世界というのは、諸刃の剣の世界で、世の中に向かって発信していくということの責任は、小学生に負わせるべきではないと思うからです。簡単にアフェリエイトなどで金銭すら手に入ってしまうような世界にわざわざ誘導する必要はないとも思います。

「権利」意識は、いびつな形で広く行き渡りました。人間は皆平等だと考える大切な認識です。人間は平等ではありますが、同一ではありません。大人と子どもは、同じ人間として共に尊重されなければなりませんが、大人は子どもを正しく成長させる義務があり、子どもはそうした大人の忠告に従ってこれから成長せねばなりません。

まるで子どもを大人扱いすることが、素晴らしいことであるかのような錯覚に私達はツイ陥ります。ましてそれに、我が子への過度の期待と愛情というふりかけをかけたりすると、下手すると「子どもにおもねる」ことになってしまいます。

そうではなく、私達が次世代に引き継ぐべきものは、もっと根本的な感性だと考えます。もっと基本的な地道なことをシッカリ受け止めて考えることのできる子ども達はたくさんいると思います。


Outbound Port 25 Blocking
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言葉は…

2007年02月21日 | 命の生き方
自分の思いを表現するのには「言葉派」と「映像派」があると思います。

平凡な日々を送っていても、悲しいことや悔しいことや辛いことは山ほどあるし、たまには嬉しいことも楽しいことも心を熱くすることも経験させてもらえます。それって別にそれだけで終わりですが、心が感じた何かを「言葉」として意識する人と、「映像」として意識する人がいるような気がするのです。

映像と限定すると良くないかもしれません。イメージとして「色」を思い浮かべたり、「一幅の絵画」として頭に広がったり、「水が流れるような映像」だったり、果ては「リズム」であったり…と、感じたものを感じたまま五感で表現できるという意味です。残念ながら私にはこれはできません。そんな感性の持ち主をうらやましいとは思いますが、私とは別人だとハッキリ諦めている節があります。

明らかに私は「言葉派」の人間です。自分の感じていること、想っていること、憤ること、哀しいこと、心が震えること…は、言葉にして表現したいと思います。だって…黙っていると消えてしまいそうだから。一瞬感じた想いというのは、その瞬間にはトテモ確かな想いなのですが、時が流れると必ずその確かさは揺らぎます。文字にして記録するという意味合いではなく、文字化することは私の中ではその想いをより確かなものに整理し直す作業でもあるみたいです。

朝日新聞のCMに「言葉は思い出」「言葉は鎖」「言葉は…」というのがありました。私にとっては、う~ん難しいですね。敢えて一つだけ選ぶとしたら『言葉は想い』ですかね。言葉そのものに力があるのではなくて、本当はその裏にある「想い」に力があるんだと思います。


USBメモリを抜く
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淘汰

2007年02月20日 | 社会派らぼ
最近、よく利用していた店がつぶれました。日頃何気なく通っている道沿いの店も、ある日突然看板が変わることがあります。回転寿司の店が牛丼屋になったり、イタリア料理の店が岩盤浴の店になったり、ラーメン屋さんが歯医者さんになったり。

商売の世界は厳しいといつも思います。パソコンスクールも幾つも潰れました(尤もこれは行政にかなりの責任があると考えていますが)。消えていった店は「力がなかったから」であり、生き残っていく店は「力がある」ということになります。ただその「力」とは一体何なのか少しフシギに思わないでもありません。単に腕っぷしの強いものが生き残る、体が大きいものが生き残る…としたら、これは動物の世界とまるで同じです。人間はそこに「知恵」が加わります。商売のことはよくはわかりませんが、何かを仕掛けたり、取引をしたり、節税に励んだり、もちろん工夫をこらしたり…。それらも含めて「力」と呼ぶのでしょう。

でも、それだけで良いのだろうかという思いがまだ残ります。「淘汰」といった言葉には、力でねじ伏せる以外のモット強い力が働いて欲しいと考えることは、既に幻想なのでしょうか。例えば、政治を巻き込み、そろばんを上手にはじき、資金力にものを言わせると、様々な悪評の多い施設であっても生き残っていくことができたりしてしまいます(個別の施設を指しているつもりは全くありません)。

「口コミ」という言葉が使われます。「あそこはいいよ」という人から人への口伝てが大きな集客力に繋がっていく、あるいは「あそこは止めた方がいいよ」という評価が命取りに繋がったりする。そればかりで商売が浮沈するのは歓迎すべきことばかりでないのかもしれませんが、そうした庶民の「見る力」「選ぶ力」すら、威力を失っているのかも知れません。宣伝や見せ掛けや策に騙されず、「熱いもの」「美しいもの」「本当に力のあるもの」が淘汰されて生き残っていく時代であって欲しいと思います。


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Be動詞

2007年02月19日 | 命の生き方
英語は日本語に比べて、主語や述語がハッキリしている。というのはよく言われることです。日本語には曖昧な表現が実に多いという気がします。(と言って、他言語を知っているわけではありません。)

単純に名を名乗る時、日本語なら「○○と申します。」でしょうか。英語なら「I am ○○.」。帰宅した時、日本語なら「ただいま~」。英語では「I'm home.」となるのでしょうか。日本語では一々「私は」とか「です」みたいなことを改めて強調しないのでしょうね。そこはわかってるやん、といった感じでしょうか。

ただこのbe動詞が大変重要であるといったことを言われている方もおられます。いかに「存在するか」ということの重要性。大上段にどういう生き方を…と尋ねられると困ってしまいますが、何も考えなくても、人間は存在する…わけですから、その存在の仕方を重要視すべきだということなのだと思います。

「to be or not to be」有名なハムレットの言葉です。それを「生きるか死ぬか」と訳したのは訳者の考え方で、それはもっと「存在そのもの」を問う言葉だったのかもしれません。




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