ぱそらぼ (ぱぁと1)

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過程

2023年04月13日 | 命の生き方
13日朝、北海道を対象にしたJアラートが発動。「ミサイルが8時頃、北海道周辺に落下する」として、避難が呼びかけられました。その後、ミサイル落下の可能性はなくなったと訂正情報が流れました。過去の情報発信では、日本の上空を通過するというものでしたから、着弾の可能性が報じられたのは初めてのことでした。

誰もが声に出すことをはばかって、気づかないふりを装っていますが、一部にとどまらず世界が戦火に覆われる危険をひたひたとせまっています。ロシアのウクライナ侵攻をきっかけに、力の誇示が堰を切ったようにあちらこちらで溢れ出さんばかりで、僅かな理性と駆け引きが、最後の箍に手をかけることを思いとどまっているにすぎません。

人の満足、充実感は、最後に手にするものではなく、手に入れる過程にあるのではないかと思っています。「幸せ」は満ち足りたものの中にあるのではなく、それを目指す過程にあるという思いです。「目標」を手にしたいと必死にもがいている中にこそ幸せが存在するもので、手にした瞬間に「目標」は色褪せてしまうかに思えます。

彼の国の為政者たちが、どんな事をしてでも手に入れたいと切望している「強さ」であったり「力」であったり「大きさ」であったり…も、おそらくは手にした瞬間に色褪せて、次を目指さねば満足できないようなそんなもののように思えます。どこまで行っても、ゴールのない無間地獄なのではないでしょうか。

強いこと。大きいこと。偉大であること。自らが大きくないと、満足できない性はどこまで行っても、救いがないことに思い至りたいと思います。過程にこそ「全て」があるのだと考えれば、日常の「人生」そのものが尊いに違いありません。

2023年03月05日 | 命の生き方
先日、日本国内での出生数が前年度比5.1%減の79万9728人で、80万人を割ったと報道されました。国立社会保障・人口問題研究所が2017年の推計で、2033年には出生数が80万人を割り込む見通しを発表していましたから、予想が11年も早まったことになるようです。岸田首相は「異次元の少子化対策」と言っておられるようですが、「異次元」という言葉の遊びに過ぎない印象があります。

少子化対策議論の落ち着く先は、結局のところ「予算の増額」に他ならず、出産給付金や子育て支援給付金、教育費の無償化などがテコ入れされることになるのでしょうか。ただ残念ながら、子育て予算を多く取れば少子化が解消されるかと言えば、どうやらそうでも無いようです。

日本では近年、婚姻件数が減少しており、男女ともに未婚率が上昇していると言われます。晩婚化・晩産化の傾向も顕著であると共に、不妊に悩むカップルの数も増えていると言います。世界の合計特殊出生率ランキングによれば(1人の女性が一生の間に産むとされる子供の数)上位を占めているのはアフリカ諸国で、1位のニジェールでは6.7人という数値が上がっています。対して下位を占めるのが、ヨーロッパと韓国や日本などアジアの一部です。

一言で言うなら「種」として、衰退の途にある…というべきなのかもしれません。2億年以上も前の地球では恐竜が栄えていた時代がありましたが、6600万年前には殆どが絶滅しています。以降、新生代と呼ばれる時代に、哺乳類が多様化して人類が出現してきますが、いずれその人類が姿を消しても不思議ではありません。種が歩む歴史は必ずしも種の保存の方向を目指すわけではありません。そんな中で、人間同士が互いを攻め滅ぼし合って、どうするのでしょう。

2023年01月21日 | 命の生き方
今どきのタレントさんや歌手の名前も知らないくせに、芸能ネタを書こうとは思いませんが(笑)。体調不良で昨年11月から活動休止していた中居正広さんが、相次いでレギュラー番組に復帰を果たし歓迎されています。異例の長期療養に、重病説まで飛び交っていたようで、ファンならずとも安堵しているところでしょうか。

この長期療養が話題になるのは、偏に中居さんの人気・実力を示すものではありますが、同時に「体調不良で」としながら、その詳細を明かさない彼の姿勢にもあったようです。小林麻央さんが「なりたい自分になる」と題して、「がんの陰に隠れないで」と医師に言われたことをきっかけに、自らの病状を公開し大きな反響を呼んで以来、少し前まではタブーとされていた自身の病気や闘病を明らかにする芸能人が多くなりました。病気であるとすることが、致命傷のハンディになった時代ではなく、むしろ(言葉は悪いかも知れませんが)宣伝になる時代に突入した感があります。そんな中、敢えて「公表しない」姿勢を貫くトップスターということで、人目を集めたようです。

実力も人気もあるタレントばかりでなく、ブログの世界には確実に「闘病もの」とでも言える分野があるようです。非常に厳しい状況を乗り越えた方から、現在リアルタイムで直面している方まで。自分の経験が誰かの役に立てば…という動機も理解できますし、そうしたブログに勇気をもらっている方や、情報を仕入れている方もいらっしゃると想像します。それでも、それにしても、オンパレードの様は少し異様にも感じます。

公表したい方があっても良いし、公表しない人があっても良い。それはあくまで個人の自由です。が、あくまで非常にプライベートでナイーブなものは人目に晒すのが基本ではないような気がします。某病院では、診療時間が始まると、受付前に列ができます。来院した人の症状を聞いて、いくつかの科に受診を振り分けるのが、受付の仕事のようです。…が、列に並んでいる人に片端から「今日はどうされました?」と尋ねて患者がそれに答える様は、何となく違うのではないかと感じます。

医薬分業が進んだおかげで、診察は病院で受けた後、処方箋を持って薬局で薬を受け取るといった図式が定着しました。ここでも、狭い薬局の中で、アクリル板で多少区切っただけのブースでは、薬剤師が「痛み止めが増えていますが、痛みが強いですか?」とか、「〇〇の薬が出ています」といった説明をしています。医師と話した上で説明・処方された薬を、尋ねたい人は別として、病状も知らない薬剤師に大声で繰り返して欲しくはない…と思う人はいないのでしょうか。

好んで病気になる人はいません。病気を歓迎する者もいません。他人に大きな声で吹聴したい人はいるかも知れませんが、伝えるとしたらそれにはそれで深い理由があるはずで、大半の人にとってそれは非常にプライベートな問題です。恥ずべきものでもない代わりに、吹聴したいものでもない。それを、無神経に多人数の前で読み上げる必要は無い…と感じる私だけがもしかすると感覚が異なっているのでしょうか。他人が直面している闇に無神経に聞き耳を立てたくはありません。

本音と建前があって、人は本音で向き合わねばならないといった事は良く耳にします。が、私は「建前」というのはトテモ大切なものであると感じています。何もかもさらけ出してぶちまけるのが良い事ではなく、こうありたいこうあるべきだという志を高くありたいと思っています。

無力感

2022年07月09日 | 命の生き方
誰もが一様にフェイクニュースではないかと思い、目を耳を疑う事態が現実に起こりました。参院選の応援演説中の安倍晋三元首相が銃撃され、心肺停止状態で病院に搬送され、死去が公表されました。

与野党そろって「許しがたい蛮行」を非難し、今は失われたものの大きさをかみしめています。ニュースは世界を駆け巡り、ネットには賛辞が溢れています。政治的な立場や功罪は別として、世界という場で「日本」の立ち位置を認めさせた政治家ではなかったかと思います。「でもしか」議員が多い中(失礼…)、政治家らしい政治家であったような気がします。

犯人はその場で逮捕されていますが、元海自ということが報道されている以外「不満があって殺そうと思った」という動機しか聞こえてきません。これから捜査が進む中で、何かもっともらしいことが見えてきたりするのでしょうか。

ロシア軍のウクライナ侵攻に解決の糸口が見えない中、コロナ感染の第7波が心配され始めました。そこに安倍元首相殺害の報が飛び込んで、何をも為し得ない無力感が覆いかぶさって来るような感覚があります。人の命を奪う「殺人罪」は、最も重罪であると認識されていますが、被害者の命を奪う以外に、多くの人の「心」を傷つけるという罪が加算されても良いのではないかと思うくらいです。人の命の重みは、被害者が誰であろうと変わりはしませんが、取り返しがつかない事が理不尽に行われていることへの心のストレスは、量り知れないほどの勢いで世界中を覆ったような気がするのです。たまたま追い詰められている知人の心に寄り添える方法が無いかと模索していたから余計なのかもしれませんが、多くの人が似たようないたたまれない思いを抱えたと思います。

ホリエモンこと堀江貴文氏が「反省すべきはネット上に無数にいたアベガー達だ」といったツイッターをあげています。「アベガー」とは何かにつけて「安倍が悪い」「安倍が悪い」と言い立てる人のことを指すようですが、自分が不遇なのは世の中のせいだと、下品な言葉で揶揄するような感覚が蔓延しているのは事実かもしれません。安倍氏危篤が報じられる中、ネット上ではその脇にリアルタイムのコメントが次々流れていましたが、そんな時でも口を極めて品のない書き込みをする人が実に多いことに、世の中の(?人の心の?)闇の深さを思い知らされます。

「社会に対して絶望する人が自殺でなく、他殺を選ぶという予想」をしていたとするのはひろゆきこと西村博之氏。逮捕された犯人の1個人の資質の問題だとする以上に、世の中を憂えている発言という意味では同じかもしれません。

SNSを通じて、社会に対してものをいう人が増えていますが、世の中に物申すという意気込みだけでなく、物事を主張したければしたいほど、そこに「品格」が必要であるということが、人間の本質として備わるようにならねばなりません。

人間そのものを辞めたいと感じる厭世観を、現実の社会が克服できるかが大切なのかもしれません。安倍氏が世の中に大きなものを残した「最後の政治家」とならないようにするのが、唯一の手向けでしょうか。誰もがわけのわからない無力感につぶされませんように。合掌。

2022年04月03日 | 命の生き方
命より大切なものはありません。

では今海の彼方で砲弾が飛び交う中、敢えて祖国に留まり身を呈して国を守ろうとしている人は、その何よりも優先されるべき命を投げ出して、何を守ろうとしていると考えれば良いのでしょうか。それはまさに、命よりも優先すべき事が、この世の中には存在することを、まざまざと証明しています。

学校教育では「命の大切さ」を実感させることに、重きが置かれています。まずは自分の存在そのものを価値あるものとして認めることができなければなりません。生きていることの素晴らしさを感じなければなりません。そして、自分の命と同様に、他人の命が大切にされなければならないという事を、繰り返し教えていかねばなりません。壮絶ないじめや凶悪な犯罪が起こる度に、改めて背筋を伸ばし、一層声を大にして「命」の教育が叫ばれます。

「生きていること」それ自体が、それだけで素晴らしいのです。それなら、他国に占領されようと、自由を奪われようと、命を大切に考えれば良いのではないか…という暴論が成り立ちます。でも現実はそうでは無いことを、私たちは彼の国から学びます。

ただ単に「命を大切にしましょう」「自分を大切にしましょう」と唱える事とは違った視点から、私たちは考えなければならないのではないでしょうか。命を大切にして「何を」すべきなのか。「何のために」命は燃やすべきなのか。つまり、どう生きるべきなのか。自分の理想とする生き方は、どういう事なのか。そういう問いかけが必要なのではないでしょうか。「自分を大切にする」「自分を活かす」というのは、一体どういうことなのか。

「人は何のために生きるのか」。かつては永遠のテーマであったはずの事が、今は掘り下げられなくなったような気がします。「生きているだけで素晴らしい」のだという理論にいつの間にかすり替わっていて、自分軸ばかりが重んじられる場面にいくつも遭遇します。軸は自分の中…というよりも、もっと遠い彼方の一点から引っぱられている…そんな気がします。

君は何のために生きるのですか。あなたはどのように生きたいのですか。人はどうあるべきなのですか。それぞれが心に刻んで生きなければならないのではないでしょうか。どんな人でも、明日命が終わりを迎える可能性はゼロではありません。

自らの光り方

2021年12月31日 | 命の生き方
2021年も後1時間ほどで、新しい2022年が明けます。

第5波と呼ばれた感染者の波がようやく引き、「やっと」の思いをあざ笑うかのように諸外国に「オミクロン株」が猛威を振るい、一旦「0」になったかに見えた感染者数が再び上がる兆しを見せています。社会的にはコロナに明けコロナに暮れた一年だったかも知れません。個人的にも大きな波がやっと引いて来たかのような位置に居ます。明けてくる新年が、すべての人にとって「復活」の年でありますように。

一年の総決算を振り返ろうかといった12月に事件は起こりました。当初は北新地のビル4階のクリニックから火が出て多数が心肺停止状態で搬送された…という火災ニュースでした。実はクリニックに通う患者の放火殺人事件だという衝撃的なもので、意識不明となった容疑者が入院先で死亡したと報道されました。

火災の翌日でしたから、ニュースはひっそり報道された感もありましたが、神田沙也加さんがホテルの高層階の部屋の窓から転落死した…と報じられたのも社会には大きな衝撃でした。何しろ、俳優の神田正輝さんを父に歌手の松田聖子さんを母に持つというサラブレッドでしたから、その七光りとプレッシャーに苛まれた人生であったろう…と誰もがその思いを何となくわかるような気がしたのかも知れません。

年末に立て続けに起こった事件は、閉塞感の2021年を象徴する事件だったのかも知れません。教育現場は、だから「命を大切に」が更に声を大にするところだろうと想像します。命は尊いものだから、自らの命を大切に、そして他人のそれも決して揺るがしてはならないものだと、今一度原点に戻って、子ども達に伝えていかねばならないと、決意を新たにしておられるところではないでしょうか。

ただ「命を大切に」といったお題目では解決しない問題のような気がします。放火事件の容疑者も、自死と断定するのは多少はばかられるのかも知れませんが沙也加さんも「死を選んだ」というより「生きていく方法が分からなくなった」のではないかと思うからです。

「命を大切に」というけれど、その「命」をどう生きていくのか…は、「それぞれの生き方がある」的な一般論でくくられて、実際に青春をかけて右往左往することが無いのが現代です。「自らの光り方」が分からぬままに、見かけだけを求める人たちがSNSにも多くあふれている気がします。とことん「生きる」事に悩む日々を過ごさず、自分軸の人生を描いて来た先は、その重ねた日々の分しか光らない。


新しい年には、これまでの何かを払しょくする力があります。2022年「自らの光り方」を探り、小さな何かが見つけられるとイイなと思っています。

一年間、大変お世話になりました。来る年がすべての人にとって輝かしいものでありますように。これからもどうぞよろしくお願いいたします。

2021年11月29日 | 命の生き方
今年もあと1か月となりました。早かったのか、遅かったのか…という感慨さえなく過ぎた日々のように思います。

新聞やニュースは、望むと望まざるとにかかわらず、様々な「死」であふれています。命の灯が静かにぽったりと落ちるようなものから、非業の死に至るまで。どんなに科学が発達しても、この大きな大宇宙の中で、一つ一つの生命というものは、有限で、その大きな時の流れの中に飲み込まれていくようなものだという他ありません。そう言いつつ、それぞれの「死」には、主体であるべき当事者がいて、その個々人からすれば、天地がひっくり返るほどの「一大事」を私たちは生きています。

ある人が「人の晩年は、その人が『どう生きたか』で定まる」と言っていました。生きてきた集大成が「晩年」なのだと。ここでいう「晩年」は、決して病を患っているか否か…でなく、金銭に苦労しているか否か…でもなく、介護をする人がいるかいないか…でもなく、偏に心美しくいられるか否か…といったことを指しているのだと思います。

非業の死や理不尽な死が、そこここに散在する世の中ですから、彼の言っていることは半ば当たってはいませんが、それでもキット魂が救われるような高い見地から眺めると、そうなのかも知れません。狭い了見の中にしか価値観を見出せず汲々と生きて、良い人生だった、これはこれであり…だったと思う幸せは、きっと真のものではない…というのが、彼の言う正解でしょうか。

今年も多くの魂が鬼籍に入られました。それぞれの「人生」に敬意を表したいと思います。そしていささか遅きに失しているかも知れませんが、真摯に生きたいと思います。

2020年09月27日 | 命の生き方
今年前半の日本の自殺者は前年より少なかったものの8月になって増加し、昨年8月に比べて15%増えたという統計が発表されています。女性だけに限れば8月は昨年の40%増しだったということです。増加の背景について、確たることは分かりませんが、一説によれば新型コロナによる影響も否めないようです。営業自粛要請が長引いたことや、解雇や雇い止めに遭ったなど、経済的困難が高まったうえに、育児などの負担も増大したことが考えられるとされていますが、今後詳細な分析が進められることになるようです。

そうした社会の状況と呼応しているのかどうかは分かりませんが、芸能界でも自殺とみられる悲報が相次いでいます。SNS上での中傷が原因では無いかとされた「テラスハウス」出演の木村花さんの自殺は、一時的かも知れませんがネット上の匿名発信についての議論を盛り上げました。更に衝撃的だったのは、人気実力共に盤石かと思わせる三浦春馬さんの自殺でした。私生活はいざ知らず、スクリーン上では微塵も陰りを見せていなかった人の突然の死に、多くの人が動揺したかに思われました。更に、芦名星さんと続き、竹内結子さん。

人が自ら「死」を選ぶには、それなりに他人には分からない深い葛藤があるはずです。人の中には、そうした行動を諫める気持ちも必ずやありますから、その一線を超えるだけの重みが確かにそこにはあったのだと思うしかありません。他人には知る由もないことです。こうした名の通った俳優さんの自死は、社会的な影響力が強いことが懸念されます。どこに端緒があり、どこにどう連なっているのかは分かりませんが、苦しさの中に居る人たちに、漠然とした「救い」を与えてしまいそうです。どこかでホッとするような「死んでもいいんだ」という感触は、更なる引き金に繋がりそうで、どこかにこの閉塞感を打破する「何か」が起きて欲しいと願っています。

今の日本は(較差はあれど)非常に豊かな国となりました。多くの子ども達は、豊かな家庭で幸せに育てられ、更に「人に注目されたい」だの「人にもっと認められたい」だの…目指すべき方向を知りません。幸せというものは「過程」にこそあると思っているのですが、「結果」にしか幸せを見いだせないでいると、向かっていくべき方向を見失うのでしょうか。現代は「人を傷つける」時代かも知れません。社会が、生きることが難しかった時代の記憶を失ってはいけないのだと思います。

命は今更戻りません。これ以上、失わないでも良い命が失われませんように。

正規分布

2020年07月07日 | 命の生き方
どんなに科学が発展しても、どんなに医学が発達しても…、人の寿命には限りがあって、いつかその「生」が終わる事を知っていながら、全力疾走をするという矛盾を生きています。「本当に理にかなったものは美しい」。数学的な美しさ…と言うものがトテモ魅力的に見えるのは、私だけでしょうか。

正規分布と言われる分布曲線は、美しく左右対称のカーブを描きます。人の一生も、それを阻む要素がもしなければ、美しい正規分布を描くのが、当然なのかもしれません。

何もできない赤ん坊が、身体的にも知識的にも精神的にも、急速に成長していくカーブは、頂点が過ぎれば、全てが衰えて行くカーブを描いて当たり前なのだと、そう思います。それが、最も美しい曲線なのですから。それなのに、私たちは、ピークを過ぎて突然そこで0に回帰したい…という強い欲望に捨てきれません。何もできない事が武器である赤ん坊に対して、大人のそれは武器とは程遠いからです。いっそ芥川龍之介の小説に出て来る河童のように、生まれた時には老人で、年を取るほど若返る一生であれば…もっと生き易いのかも知れません。

若い時と同様に行かなくなっていく懸念を周囲に振りまきながらも、どうすれば美しい分布曲線の下りカーブを左右対称にせずに済むのか。「人間は何のために生きるのか」と言った、かつての「書生」が必ず通って来た青臭い葛藤を、他人事のようにスルーしてはいけないのだろうと、何となく思います。

人類の未来

2019年09月24日 | 命の生き方
山中伸弥教授の言を待たずとも、「人類は滅ぶ」可能性がある…と考えている人は、少なからずいるはずです。否、確実に必ず滅ぶはずです。

16歳のトゥンベリさんの演説を聞かずとも、人類の無節操な自然破壊は今すぐ止めるべきだ…と考えている人もたくさんいるはずです。事は決して単純ではなく、産業や経済の安定を保証しつつ、環境を守らねばならないわけで、一方の議論だけに終始できるわけではありません。贅沢にも衣食住が保証され、護られた立場にあって、批判をするだけは簡単ですが、あらゆる方面の影響を考え併せて戦法を練る必要があります。

が人類は既に、ただ一人の力だけでは、どうにも止めることができないほどの、訳の分からない大きなエネルギーで、とある方向に走り続けています。ですが、訳の分からない加速度に身を任せておくことは、多分危険なのだ…と、誰しもが感じ始めています。多分、世界のあちこちで、これこそがまぎれもなく最善の方法だと確信を持って、リードしようとしている方向が間違っているのだとしか思えません。

山中氏は「密室で研究しないこと」が重要だとしておられます。誰か一人が、方向を決めるのでは、方向を見失う可能性がある…という事でしょうか。吟味された落ち着いた言葉で、理路整然と方向を示すのでなければ、人類の未来は動かないと思います。