ぱそらぼ (ぱぁと1)

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封じる

2018年08月31日 | 社会派らぼ
宝塚市の教育委員の男性が、公立小学校を訪問した際、難病で人工呼吸器が必要な女児が「養護学校の方が合っているのでは…」という趣旨の発言をし、委員を辞職しました。この委員は「養護学校の方がより良い対応が可能ではないかと思い発言した」といった趣旨の釈明をしたようですが、教育委員会協議会で「配慮にかけた差別発言だ」とされ、-元委員は謝罪をするとともに、辞表を提出し、受理されました。ニュースとして報じられるのは、事実のほんの一部であって、本当のところは当事者しか分からない事が多々あるのだとは思います。が、何でも「差別」だとして切って捨ててるのは違っているかもしれないと思います。

辞職されましたので、元委員となりますが、この元委員は昨年の市総合教育会議の席でも「障害の度合いに合わせて、養護学校に通学した方が子どものためになる…という指導を教育委員会からもすべきだ」といった発言をしていた…と言います。先生の負担にも配慮した上での発言のようです。

文科省は2013年時点で、子どもの就学先に障害の側から振り分ける「分離別学」でなく、「保護者の意向を最大限尊重する」方針に切り替えています。今回の難病女児も、市からは「養護学校が適当」と判定されていたものの、本人と両親の希望で学校に看護師を配置した公立小学校に入学した…という経緯をたどったものです。

入学前の時点で、市が「養護学校が適当」という判断を下していたことからも、この病児の状況はかなり深刻で、本人の強い意志と周りのサポートによって、公立小学校への通学が可能になっているものと想像されます。ですから、元委員が「養護学校の方が適切なのではないか」と考えた事も、ある意味では理解ができる状況なのだろうと思われます。問題なのは、一旦公立小学校への入学が認められ、実際に通学している状況下で、このような声を当事者にかけたことで、その場で言うべきことでは無かったかも知れません。元委員は、文科省の打ち出している「インクルーシブ教育」には、疑問を呈する考え方の持ち主だった訳で、その私見を病児の保護者などにそのまま披露してしまう事は、やはり配慮に欠けた行動だったと思います。

「誰もが違うこと」を前提とし、障害を持つ子どもの視点に立つわけでもなく、障害を持たない子どもの視点に立つわけでもなく、すべての子どものための教育を実践して行こうとするのが「インクルーシブ教育」の根幹だろうと思います。それが「理想」であることは分かりますが、実践する現場ではそれなりの課題や苦労がおそらくはあるわけで、元委員のような考え方に立った提案も、あながち人を蔑んだとんでもない意図があるわけではなく、すべての子どもの事を考えての違う視点からの別意見だったのではないかと思います。

発言の場所や相手を考慮すべきであることは間違いないにしても、この手の発言を一方的に「差別」だと断罪して、口を封じるような対処では、本当の意味での「差別のない社会」は目指せないのではないかと思った次第。

以前、ある種の会議に出席した際、ある委員が、会の根幹にかかわるような発言をされたことに出くわした事があります。(具体的に書けない事が多少もどかしいのですが)その委員の発言は、少なからず一般の人たちの素直な感想を代弁したものでもありました。たまたまその日は年度末最後の会議で、場所を変えて懇親会が催されました。懇親会場に到着し、会が始まるや否や、先ほどの委員が「先ほどは戯れ言を言ってしまい…」といった発言をされました。会場移動中に、なにがしかの「指導」が入ったのは明らかで、その時、私自身はその会議に未来を感じる事ができなくなった記憶があります。

理想を高く掲げて進むことは大切な事ですが、考え方を異にする人たちの誠実な疑問や提案を「封じて」はいけないと思います。反対論にも十二分に耳を傾け(場所を選んで)誠実な議論も戦わせ、より良い形を求めていく姿勢は失ってはいけないと思います。

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はだ色

2018年08月30日 | 雑談
子ども達が使うクレヨンや色鉛筆の中から「はだ色」が無くなっています。「うすだいだい」「ペールオレンジ」といった別の名前担っているのだそうです。こういう問題は、一旦「差別」だと言われると、各社乗り遅れるわけには行かず、競って名前を変える事になったのでしょう。要するに肌の色が「はだ色」の人ばかりでは無いのに、特定の一色を「肌の色」だと決めてしまう事への抵抗感です。

日本の色の名前にはとても美しい言葉が並びます。萌黄(もえぎ)や鶯(うぐいす)、若葉、紺碧、茜…。その昔、人や獣の肉の色を表す「しし色」という言葉があったそうですが、明治時代以降外国の人と接するようになって、肌の色の違いを意識する事になり「はだ色」という名になったのだそうです。つまり「はだ色」の人しかいないという発想から使われた言葉でなく、色々な肌の色の持ち主が世界中には存在することが分かったからこその「はだ色」というネーミングだったようです。

まぁ、嫌がる人がいるのなら、わざわざそのような名で呼ばなくても良いかとは思いますが、「差別用語だから使ってはいけない」とする言葉狩りには意味は無いと思います。差別というのは、言葉があるから差別なのではなく、差別する気持ちがあるから差別なのだと思います。そんなことを繰り返していると「地に足がつく」とか「腕を振るう」などといった表現も「差別」だと言われてしまいそうです。

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障害者雇用

2018年08月28日 | 社会派らぼ
中央省庁の8割で、障害者雇用を水増し報告していたことが判明しています。障害者雇用促進法では、民間及び行政機関に、一定の割合以上の障害者雇用を義務付けています。民間企業では2.2%、行政機関では2.5%と定められています。この数値はこの4月に改訂されたもので、それ以前は民間企業が2.0%、行政機関は2.3%でした。中央省庁ではこの2.3%の時代に、基準を上回る2.49%に当たる障害者6900人が雇用されている事になっていましたが、障害者手帳を持たないなど、指定されている条件を満たしていない職員を障害者として計算していたようで、その数6900人の半数にも上ると言われています。警察庁、金融庁や原子力規制委など水増し雇用数が全く0であるところはほんの僅かで、雇用率が1%を割り込むところも少なくありません。

民間企業においては、雇用が達成できないと納付金が徴収されることになっており、こうした省庁の水増しに呆れると共に、怒りが寄せられています。こうした障害者雇用率制度を促進する立場にあるはずの厚生労働省でも水増しが行われていたようで、弁明のしようがありません。

こっそり雇った体にしておけば分からないと言った、安易なルーズさが、いつの間にか当たり前となってしまっていた実態はあまりにもお粗末ですが、それをなじってみても、事態は何一つ解決はしません。要は、なぜそのような水増しが当たり前だったのか…と言うところです。結局障害者を雇用するより、障害を持たない人を雇用した方が、役所的には効率が良いというのが現実だという事になるのでしょうか。

という事は、逆に言うならば、障害者が働ける環境が足りないのだという事になるのではないでしょうか。うまく言えないのですが、障害者と言っても百人百様で、それぞれどういう働き方であればその能力が発揮できるかは異なっているはずなのです。それをリサーチして、あてはまる職場を探し当てるという仕事が欠けているのではないでしょうか。ただこれだけの人数を雇っておけ…と言われても、してもらえる仕事自体がなければ、雇う意味がありません。

更に、障害者の方々にも、自分に可能な仕事が増やせる研修場所がもっとあれば良いのではないでしょうか。私は日頃、パソコンに関わることが多いのですが、パソコンこそ障害者にもっと使っていただきたいと強く思っています。例えば、自筆で字がうまく書けなくても、印字文字なら読み易いですし、車いすなどを利用していても、パソコンに向かっての作業であれば、問題もありません。技術さえ磨けば、健常者に優る力を手にすることも可能になります。ずっと以前、障害者の方々のためのパソコン講座…に関わったことがあるのですが、健常者に対して行われる講習と全く同じ時間数で組まれていたために、到達度合いは大きく後れを取るような内容でしかありませんでした。もっと準備に時間を費やせば、更に実りのある技術研修も可能になるような気がします。私はパソコンの事しか分からないのですが、他の分野でも同様の事があるのではないでしょうか。

守らねばならないとされているルールをごまかして、あたかも規定通りの人数の障害者を雇っている…と、虚偽の報告をすることは間違っています。ですが、障害のある人々が、それぞれの力を活かせる方法を模索する事が抜け落ちているような気がします。

生きていく強さ

2018年08月27日 | 命の生き方
米国フロリダ州で、銃乱射事件が発生し、2人が死亡しました。銃乱射事件は、アメリカで今年232件目になるのだそうです。報道によれば、容疑者は自殺したようです。eスポーツは「エレクトロニックスポーツ」の略で、電子機器を用いて行う娯楽・競技・スポーツ全般を指すのだそうです。コンピューターゲーム、ビデオゲームと言えば良いでしょうか。要するにゲーム大会の会場で、銃を乱射したわけです。容疑者はeスポーツの大会に出場して負けたことがあり、それが乱射の動機になったとも報じられています。

日本では幸い、銃の所持が認められていませんので、時折報じられる無差別通り魔事件などでは刃物が武器として使われることが圧倒的に多いわけです。アメリカの中でも銃規制を求める声もあるようですが、なかなか実現には至りません。

子どもに人気の無料オンラインゲームサイトに「モモ自殺チャレンジ(Momo suicide challenge)」という名のゲームが現れました。「モモ自殺チャレンジ」は、ロシア製の「ブルーホエール」に追随する恐れがあるとして、絶対に手を出さないようにと呼びかけられています。ブルーホエールは「自傷する」「ホラー映画を観る」といったタスクが次々要求され、最後には自殺を勧めるというゲームで、ロシア全土で130人以上の死亡者が出たというものです。開発者は若者に対する自殺教唆の罪で有罪判決を受けました。

生きていくのに注意しなければならない事が、確実に変わってしまいつつあります。日本では昨日「24時間テレビ『愛は地球を救う』」が放映されました。これは1978年から生放送で実施されるチャリティー番組で、障害者や被災者、難病患者などにスポットを当てつつ、寄付金を募るといったものです。チャリティー番組と言いつつ出演者にはギャラが支払われているとか、「感動もの」に仕立てられた障害者ドラマの放映、チャリティーマラソンなど、一方で視聴者の不評を買いつつ、41回続いてきました。

福祉に充てられる予算には限りがあります。こうした番組を通じ、芸能人の人気を利用して、広く寄付金を集める事は悪いことではありません。…が、計算され尽くした「感動」には興ざめする部分も無いわけではなく、こんな経験を繰り返しても、若者が「生きていく強さ」には繋がって行かない気がしてしまいます。人は、その人生を賭けるに足るものを見出すことができずにいます。様々な分野での研究・発展が、世界をここまで発展させたことは確かですが、人の心は今やかつて無いほどに、荒んでいるのではないでしょうか。おあつらえ向きに作られた場面では、涙も流すし、気の利いたコメントも出すけれど、それと自分の生きざまとは、全く別のところにあるような、空疎な思いが消えません。

有意

2018年08月25日 | 命の生き方
ソフトテニス部の中学2年生が、プレーでサーブミスが多いと、顧問教師から校舎80周の罰走を指示されました。生徒は途中で熱中症を起こして倒れ、救急搬送されました。4周以降、教師は走っている生徒の状況を確認していなかったとの事です。最近の夏の暑さは異常とも言われており、熱中症による死亡者数はかなりの数に上っています。生徒が倒れたのは9周目、距離にして2㎞弱。教師が一緒に走るとか、走らないまでも見ているべきでした。

これに関し、市教委が「指導の範囲を逸脱した体罰」と認定し、県教委が教諭を処分する方針だと報じられています。80周というその指示は、明らかに日常の練習を超えており、夏の異常な暑さの下で、不適切であったことは一目瞭然なのに、何を回りくどく今更市教委の「体罰認定」をいただかないといけないのか…多少の疑問を感じました。が、学校教育法では「教育上必要があると認めるとき…懲戒を加えることができる」と規定していますが、「体罰」は禁止されています。そのため今回の「罰走」が、「教育上必要な懲戒」なのか「体罰」なのかをハッキリさせる必要があったのだと想像できます。

定められた法律の下で、一つひとつ規則に照らし合わせて、遂行しなければならない事はよくわかります。が、こうした「ルール」を明確に定めて、そのルールにのみ従って、物事を遂行していくことは、正しい事のように見えて、実は私たちの判断力を奪っているのではないか気にかかります。「体罰」は禁止されているからしてはならない…のではなく、「体罰」を与えて当人をひどく委縮させ傷つけても、教育効果が上がるわけではない…という事が理解できなければなりません。更に生徒を「人」として尊重するという基本姿勢を揺るがす行為は、教師としての品格を失う行為である事を、認識すべきであり、もっと言うならば、自身の「品格」を失う行為は、自分自身が「避け」るべきである…という事を、教師自身が感じていなければなりません。

法に規制されるのではなく、人はもっと有意に生きるべきなのだと思います。

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守破離

2018年08月24日 | 社会派らぼ
かの有名な千利休が「規矩作法 守りつくして 破るとも 離るるとても 本を忘るな」という和歌を残しています。この句の中に「守」「破」「離」という3文字が含まれており、これが日本の伝統的な考え方として「守破離」という概念が生まれたと言われています。「守破離」は剣道や茶道などでの修行における段階を示したものだそうです。「守」は、教えを守り、基本を確実に身につける段階。「破」はこれまでの教えを基礎として、他の師の教えなどについても考え、良いものを取り入れ、心技を発展させる段階。「離」は一つの流派から離れ、独自の新しいものを生み出し確立させる段階。と言った風に説明されています。

人は誰しも最初からスゴイ事ができるわけではなく、最初は素直に学ぶところから始める…と言うのが基本だという訳です。例えばミュージシャンといった人達も、最初は「コピーバンド」といったところから始まります。お気に入りのアーティストの曲を、目標とするアーティスト並みに演奏することを目指して練習を繰り返します。ただ、それが少しできるようになって来ると、今度はアーティストの曲に多少の自分らしいアレンジを加えて演奏するようになります。更には、自分で作詞作曲をするようになり、オリジナル曲を引っ提げて演奏するミュージシャンになる…といったところでしょうか。

それは「~道」と言った名のついた芸道や武道に限らず、人の成長にも当てはまる事のようです。最初は「学ぶ」ことから始めます。「学ぶ」は「真似ぶ」という言葉が語源だとも言われています。そしてこの段階は「如何に学ぶ」か「誰に学ぶ」か…といった事も重要になってきます。時々「天才〇〇」といった触れ込みで、最初からプロ並みの活動をさせようとする親御さんもいなくはありませんが、きっと「学ぶ」段階はトテモ大切なのだろうと想像します。最初から奇をてらって、オリジナルに走る…のも、現代にはありがちのパターンですが、それでは本当の「心」は育たないとも思います。

但し、現代は「学ぶ」に値する「師」がどれほど居るのか?が、はなはだ疑問かも知れません。小学校における学習などは、一見誰でも教えられそうですが、この段階でキチンとした基礎とそれを支える精神を学ぶことができる子どもたちは(そうした器量を備えた教師は)ごく限られた人たちでは無いかと思います。「教育」が目指すところは、決してそれぞれの知識だけであってはならないと思います。「離」の段階に至った(と自負している)人達が、イマイチ「本を忘るる」ような振る舞いになっていた場合、これを諫める人はもういません。勘違いを起こさないようにしたいと思います。


渦中

2018年08月23日 | 社会派らぼ
「阿波踊り」が何やらもめています。つまるところ、トラブルの原因は慢性的な累積赤字にあるようです。多くの観光客が集まる徳島県屈指のイベントであるにも関わらず、これまでから赤字で巨額の借金が積みあがっていると言います。先輩格(?)の祇園まつりも、年々諸経費が増加しており、基本的に山鉾町・山鉾連合会の負担だそうですが、今年はクラウドファンディングで費用の支援を募り、あっという間に目標金額を達成していました。ともあれ、阿波踊りの場合は、主催団体が徳島新聞社と徳島市観光協会になるのだそうです。報道によると、慢性的な赤字であるにも関わらず、主催団体である徳島新聞社は資金を負担せず、むしろチケットや広告看板、踊り手のアルバイトなど、多額の費用を観光協会に請求している…とされています。

今年、徳島市は「総踊り」を中止すると発表していました。「総踊り」は祭りの締めとしての大きな見せ場ではあるのですが、会場が一か所に限定されているため、入場者はこの会場に集中してしまっていたのだそうです。入場者を各会場に分散させて、入場料収入の底上げを図ると共に、人の集中を回避して安全面を確保しようとしたにもも関わらず、阿波踊り振興協会つまり躍り手たちが「総踊り」を強行させました。

結局のところ、「阿波踊り」は何ら解決法を探ることなく、今年も無事に終了し、全てはそのまま次年度に持ち越されています。結局「誰が」お金を出すのか、「誰が」主催するのか…といった根本的な利権の奪い合いが解決されなければならないのでしょうが、想像すると「喉元過ぎた」今、次年度への解決を探るリーダーがいない…感があります。

そこへきて、阿波踊りの人出「108万人」に水増し疑惑が起こっています。昨年度主催者が発表した人出は「123万人」。それが今年は「少なかった」として「108万人」が発表されています。…が、その数字は実のところ「20万人」を割り込むとも言われています。

こうした「参加者人数」の発表は大体がいい加減です。考えればすぐにわかる事ですが、バードウォッチングのようにカウンターで人数を数えているわけではありません。主催者発表と警察発表の人数が違っている事など日常茶飯事です。それこそ、報道時に「昨年を上回る人出」などと書くので、参加者の人数は「昨年の記事が2000人だから、2500人に」的な決め方だったりもするのです。この頃はスマホや携帯電話の位置情報を使って、人数を把握するとも言われていますが、そこまでしていない主催者も多いに違いありません。この人数を元に経済効果などが算出されているわけですから、いい加減なものです。

先日の障害者雇用の水増しと言い、入試の点数操作と言い、まさに「いい加減」としか言いようのない現実に愕然とする向きは多いのかも知れません。が、それが自分とは異なる「誰か」が積み重ねた別世界だと思うのはキット間違っています。自身はその渦中にあります。

イヤイヤ期

2018年08月22日 | 社会派らぼ
子育てには特別な言葉があります。2歳前後になって、自我が芽生えてくると、何に対しても「イヤ」と言う時期があって「イヤイヤ期」などと呼ばれています。が、この「イヤイヤ期」という言葉を、もっと子どもの気持ちに添った呼び方、前向きに捉えられる新しい呼び方に変えてはといった提案に、多くの反応が寄せられたようです。

「イヤイヤ期」で苦労している親の話を聞くたびに、子どもの成長の証なのに、もっと前向きの言葉を使って、親の悩みを軽くできないだろうか…と言うのが、提案者の趣旨だったようです。代わって呼び方を募集した紙面に、「めばえ期」「自分で期」「やるやる期」…などの言葉が寄せられたと言います。

恐らく、こうしたネーミングの変更は定着しないのではないかと想像しています。「オレオレ詐欺」がそうだったように、その手口が変わって来たから…と、ネーミングをいろいろに変えてみたものの、一番シックリ来る呼び名は今でも「オレオレ詐欺」かも知れません。今では特殊詐欺と呼ぶのでしょうか。「ぼけ老人」を「認知症」と呼び替えたのは定着したようですが、根本的に「認知症」と「ぼけ」は異なっていると思います。

言葉はあくまで言葉であって、その言葉を使う人の主観とは異なります。「イヤイヤ期」という言葉が悪いのではなく、「イヤイヤ期」を楽しむ心の余裕が持てないだけなのでしょう。そしてそれは、その当時、あまりに一生懸命であるが故の辛さであって、過ぎてしまえば、その時期が本当にキラキラしていた時期なのだと改めてかみしめるものなのだと思います。

ちなみに英語では「the terrible twos」、魔の二歳ってところです。あるいは「the "no" phase」まさにイヤ期ですか。「イヤイヤ期」っていう言葉もあるくらいだから、うちの子が「あれもイヤ」「これもイヤ」というのも、仕方ないよね…くらいで切り抜けましょう!

入学試験

2018年08月21日 | 社会派らぼ
東京医科大学を舞台にした裏口入学事件は、以前から慣習的に行われていた…という女子学生入学試験点数操作にまでたどり着いてしまいました。同時に、そうした慣習は、他大学でも行われていた…との現実を暴くことになり、追加合格などの措置では取り戻すことの不可能なレベルの社会問題に発展しました。(追加合格者などの発表も、本当にそうした追いかけ作業が後から可能なのか、個人的には疑念を抱いています。)

関係者は、女子合格者数抑制について、系列病院の医師不足を避ける目的があったと説明しているようです。また3浪以上の受験生については、浪人を重ねている者は国家試験の結果も良くないとの相関関係があったと、その理由を説明しています。

こうした現実には、正論をかざしたバッシングが相次ぎます。女医が結婚や出産によって辞める率が高いのであれば、結婚や出産後も医師の仕事を継続できるような体制を整えるべきだ。多浪生の国家試験結果が良くないのであれば、入試の時点で、浪人の年数が試験結果を左右すると明示すべきだ、もしくは面接で人材を見抜くべきだ。といった理論です。当然だと思います。過去に、そうした点数操作で、自分が落ちていたのかも知れないと思うと、寝覚めは良くありませんよね。

(但し、女性の結婚や出産がネックになるのは、医者に限らず、どんな仕事であっても同じで、そうした人生経験が仕事を制約しない方法…を模索するのは、男女共同参画がこれだけ叫ばれるようになった現在でも、更に今後の課題かと思います。)

2020年度から、大学入学共通テストが、リスタートします。これについては、これまでのマークシート方式を反省し、記述式の出題も課せられることになっており、手間はかかるけれど、受験者の学力を正確に把握することができる…から、今後はこの新しい入試方式を使って、優秀な人材を見抜く目を大学に求めるといった声も聞かれます。

が、果たしてそうなのでしょうか。私は個人的に、受験者の能力を偏りなく公平に測る方法など存在しないのではないかと思っています。もっと人数規模の少ない場合はともかく、5000人規模に近い受験者の能力を、公平に順序を付けることなど不可能に近いものがあります。記述式になれば特に、採点者によって、判断は大きく違って来ます。面接試験に至っては、公平な判断基準など存在しないに等しいようなものです。いずれも、目安にしか過ぎず、基本的には入試であろうと、就職試験であろうと、採用する側は「好きな者を採る」としか言えないのではないでしょうか。

ならば…雲をつかむような募集要項でも構わないのではないかとすら思えてきます。「僻地医療に10年間従事する者」とか「寄付金を何千万円払える者」とか(笑)。もしかすると、その方がよほど分かりやすいのかも知れません。「当校の入試では、当校が求めている才能の学生を選別させていただきます。」本当は、そうしか表明できないのではないでしょうか。