ぱそらぼ (ぱぁと1)

パソコン講座を、まじめに愛するブログです

話す

2012年06月29日 | 雑談
自分の意見を持つことは大切な事だと思いますし、自分の意見を堂々と話せることも、また大切な事です。ともすれば、「自分の意見」など無くて、ただ大きな流れに合わせて「うん、うん、」とうなずいてばかりの人が多いことを考え合わせると、ハッキリとものが言える事というのは、それはそれで長所です。

但し、とても偏ったことを、そうとも知らずに、一方的に決めつけて話している方を見ていると、少し立ち止まってみた方が良いのではないかと思う事があります。明らかに、会話がキャッチボールになっていなくて、誰も受け答えをしていないのに、一方的な発言で一人で溜飲を下げていたりする様は、少し滑稽でもあります。

「話す」には、「相手が聞く」ことが必要です。一方的に、自分の言いたい事だけを言いっぱなすのは、選挙運動と国会答弁くらいのものです。どうも、私たちは、物事を順序立てて、理屈立てて「話す」ということが苦手です。説得力のある話し方は「言葉選び」や「論理的思考」「要約力」、そして何よりも相手の話すことを「聞く力」が不可欠です。




2枚目のスライド番号を「1」から始めたい

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解約しにくい理由

2012年06月28日 | 社会派らぼ
1か月ほど前に、携帯の機種変をしました。世の中、何でもそうなのですが、仕組みがとても複雑でややこしい(笑)。携帯の金額プランも、何とかサービスに入れば○○円安くなるといった事が、非常に多くて、安くなるのなら…と、利用もしないサービスに1か月だけ入ったりするようにできています。

ところが、今度はそのサービスを停止しようとすると、またややこしい(笑)。解約手続きのところに入って行くと、やたらIDやパスワードが出てきて、正直定めているパスワードがコードが多すぎて、何をどこに書くのかも怪しかったりします。挙句に、解約をする場所というのがとても見つけにくく、加入サービスを解約するのに、結構手間取ってしまいました。

多少はこうした機器に対するアレルギーは少ない方かと思いますから、自分で苦手だとおっしゃる方は、自分でやる気が起きないでしょう。わざわざややこしくしてある気がします。

会社は慈善事業をしているわけではありませんから、利益を追求するのは当たり前のことです。が、最初から、1か月だけでいいから」とサービス加入を誘導するやり方は、如何なものでしょうか。あわよくば、面倒な解約を放置させて、その分の収益を狙っているとしか思えません。それなら、最初から多少の上積みした金額にしておく方が、よほど紳士的です。




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やさしい時間

2012年06月27日 | ぱそこん道
パソコンの講座は好きです。基礎段階は終了した方々との、中級レベルの講座は、パソコンというのは実のところ、どんな風に使うものだろうか?といった部分を、心置きなくお話しできたりするので、大好きです。が、なぜかそれにも増して、初級レベルの講座には魅力があります。

インストには、中級レベルの講座は好きなのだけれど、初級レベルは嫌いという人、意外と多かったりします。いいえ、「意外」でもないのでしょうね。「パソコンを教えること」自体に主眼をおけば、より高度な内容の方がやりがいがある…と感じてしまうのも、分かるような気もします。

個人的には、初級レベル講座も大好きです。初めてのことにワクワクしながら、一生懸命キーボードと格闘されている姿、一つ一つ上手になっていかれる姿を見ているのが好きです。「パソコンを上達していただく」ことに主眼を置くと、これほど楽しい講座はありません。

その時間は、私にとっては、とても「優しく流れる」時間なのです。



壁紙スライドショーの切り替えにゆっくりフェードをかけたい

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授業の無駄

2012年06月26日 | 社会派らぼ
教育現場には、「電子黒板」というものが導入されているようです。聞くところによると、ここ滋賀県草津市は結構、導入が進んでいるのだそうです。確かに、電子黒板には様々なメリットがあるだろうことは、簡単に想像できます。画像や映像を見せるのにはうってつけですし、板書する時間も要らず、字の乱れもあり得ません。

時代が進んでしまえば、キットこの電子黒板は当たり前のツールとなるでしょうし、加えてデジタル教科書なども必須のアイテムになることは間違いありません。タブレットを一つ持っておけば、それがどんな科目の教科書にでもなるわけですから、とても便利です。そんなものに反論を唱えていると、いまどきの冷蔵庫や洗濯機を否定するのと同様、言っても相手になどされない時代になるのだろうと思われます。

それでも、電子黒板を現場に導入することに、どれほどの意味があるのだろうか?は、疑問です。要するに、教員の負担軽減(過渡期の今は、かえって不慣れな先生方の負担を増やす側面もあるでしょうけれど…)、教師力の補強といった効果が大きいのではないでしょうか。

丁度、パワーポイントの講座の最中です。パワーポイント講座の時には、必ず話させていただいている事があります。それは、パワーポイントというのは、あくまで良いプレゼンテーションをするための補助的な役割しか持たないということです。良いプレゼンテーションには、話し手がどれだけ熱い思いを語れるか…にあるのであって、プレゼンテーションの見場の好いスライドショーを作成することとは、別次元の話のはずなのです。

黒板に、癖のある字で、時間をかけて板書をする先生の誤字を見つけて、得意そうに指摘する子ども。子ども達に背を向けて板書をしているのに、なぜか後ろで遊んでいる子どもたちの様子がお見通しで把握されている先生。何もかもが手軽でリアルであればそれで良いのか…というと、私はそうは思いません。リアルで無いからこそ、想像力が必要とされるのであって、想像力が欠如していくと、人の痛みもわからなくなっていきます。

「時代の流れ」というものの中であっても、忘れてはならなに「何か」を忘れないようにしたいと思います。その大切な「何か」は、結構「無駄」な事の中に隠れていたりします。



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五体不満足

2012年06月25日 | 命の生き方
啓発ポスターで、「五体満足に生まれてくれて…」といった言いようは慎まなければならない、といった内容のものを見かけました。大変文字の多いポスターでしたので、キチンと内容を読み込む暇はありませんでしたから、私が勘違いをしたのかも知れません。

「五体満足」という言葉は、不幸にして障害を負って生まれた人たちを「不満足」だとすることだから、安易に使ってはいけない…といった内容だったと思います。至極当たり前のことを言っているようですが、皆さんに違和感はないのでしょうか。

不幸にして、生まれながらに障害を負って生まれたこと自体を「満足」だと思っている人はいないと思います。それは「不便」なだけであって、「不幸」なのではない…と、乙武氏も言われていたような気がします。当のご本人からしたら、まぎれもなく「不便」には違いがないのです。確か、乙武氏の初著書は「五体不満足」というタイトルの本だったように思います。

障害自体を蔑んだり、からかったり、忌み嫌ったり…することが間違っているのです。健常に生まれたことに感謝すること自体には、何の問題もないのではないだろうかと私は思います。世の中というものは、すぐに「言葉狩り」を始めます。「言葉」自体を狩る事には、何の意味もありません。その「言葉」に、籠める「意識」そのものが問題なのだと思います。


辞書に学習させたものを消したい

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社会

2012年06月23日 | 命の生き方
人間は、時として「社会」と戦わなければならない場合もあります。社会としての立場が正しいのか、個人の主張することの方が正しいのか、「今」という時間軸で切ってみたところで、答はありません。それは、100年先にしか分からない事かも知れないのです。

…かと言って、人間は「社会」を拒絶したまま生きることは、多分できません。人は社会の関わりの中で暮らしているわけで、その中で自分だけが特別な存在でいることは多分できません。一方で、社会にもたれかかろうとする人達がいると思えば、他方、社会を拒絶して敵対視しかできない人もいます。どちらも多分、不幸です。



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無題

2012年06月22日 | 雑談
あたふたと、日々を過ごしています。自分一人の力ではどうにもならない事も、これはこれで仕方がないことだと諦めてはいます。けれど、どうにか自分のリズムを取り戻したい…と、そんな風に思っています。


テーマボタンが消えていて使えない

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2012年06月18日 | 命の生き方
人は一人では生きていけない。よく言われることです。「人」という漢字は、左の払いと右の払いが寄り添いあってできている…という事もよく指摘されます。人はだれかと寄り添いあって生きているもので、度々歌詞などにも出てくる「周知の」事実です。

但しそれは、誰かが誰かを個人的に支えるといった場面でよく使われます。特定の相手として理解すると、結婚式で厳かに取り交わされる誓いは、まさにそれです。「健やかなる時も、病める時も…」が出発点で、それはいつしか小さなファミリーになり、私たちは愛する家族を守ることを厭いません。

でも究極に、人は自分の好もしい家族だけで、完結することはできはしません。他人がいて、ある意味では、自分と利害が対立し、背を向けて自分を守ってみても、そうではない大きな宇宙に背を向けて生きるという事は結局はできはしません。それは小さな頃の子どもの喧嘩で気づいておかなければいけなかったことなのだと思います。



PDFが勝手に2ページになる

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迷う

2012年06月17日 | 命の生き方
人間というのは、ちっぽけで浅はかでみっともなくて、取るに足らない存在ではあったりします。が、長く生を重ねる間に、人智を超えた何かを知り、取るに足らぬ自分がそのどこに位置しているのかが分かり、様々なものと折り合いをつけていける…。そんなものかも知れないと思います。

そして、それが叶わない時に、そのよりどころを、宗教といったものに昇華させて、そこに救いを求めていくのですが、それでも心の平安を得られない生は、どう迷えば良いのでしょうね。


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