ぱそらぼ (ぱぁと1)

パソコン講座を、まじめに愛するブログです

冷静に

2020年03月29日 | 社会派らぼ
コロナウィルスの猛威が収まりません。首都圏や大阪では、週末の不要不急の外出自粛が呼びかけられ、爆発的な感染拡大の阻止に戦いが続きます。ともかく人と人が接触して感染が広がる事を、何とか食い止めたい…という事ですが、時節は花見、更には新入・進学・異動の季節とあって、人々の我慢も限界ギリギリに来ているかに見えます。

「追い詰められた時に、人の本性が分かる」とはよく言われる事ですが、追い詰められた自分を守るための防御行動…というのは、分からなくもありません。ですから、「マスクが手に入らない」「トイレットペーパーが買えない」となった時に、パニックを起こすのはある程度仕方がない事なのかも知れません。

但し、身を護る事と他人を攻撃する事とは違っていなければなりません。コロナウィルス陽性の患者を受け容れた病院で、職員の子ども達が「いじめに遭っている」などという報道を見ると、日本人の品性を嘆かざるを得ません。もしかすると、出口の見えないトンネルの中にいる不安や焦りが、形を変えて噴出するのかも知れませんが、自分は「人としてどうありたいか」といったお題目のようなテーマを、私たちはやはり自分のテーマとして認識しなければならないのではないかと思います。それがたとえ子どもであっても。「いじめをなくそう」「命を大切に」など当たり前の事をいくら学習しても、いじめはなくなりません。自分の品性を高めるための努力が必要なのだろうと思います。それを「修身」と呼ぼうが「道徳」と呼ぼうが「生き方」と呼ぼうが、呼び方は関係ないと思います。

ノーベル賞の山中伸弥先生が「山中伸弥による新型コロナウィルス情報発信」というホームページを開設されました。世のマスコミは習っていただきたい…と思うような、冷静で分かりやすいホームページです。マスコミの報道は、受ける側に選択肢が無く、報道されている事だけを受信するに過ぎず、マスコミの姿勢をただ押し付けられる感が否めません。いつ見に行っても必要な客観情報が得られたり、常にリアルタイムで更新されるような情報が欲しいと感じていました。

山中先生のホームページは、言葉が難しくなく、証拠(エビデンス)があり正しい可能性が高い情報、正しい可能性があるが更なる証拠が必要な情報、正しいかもしれないが更なる証拠が必要な情報、証拠の乏しい情報…などと、情報が分けてあるところが斬新です。何より、「制圧することはもはや困難で、受け入れるしかない」という言葉に、他の報道とは全く異なる真摯な姿勢を感じます。そして「マスクは感染予防にある程度、効果がある」とし、「私の家にある残り少ないマスクは、医療関係者の家族に使ってもらっています。」とされたコメントが印象的です。

奢るでなく、諦めるでなく、「長いマラソンをそれぞれの状況に応じた最速ペースで走る続ける必要がある」とする山中先生のメッセージを、心に留めておきたいと思います。

2020年03月15日 | 社会派らぼ
寒かったり暑かったり、晴れたかと思えば雨に降られたり、春の気候は「三寒四温」と昔から言われますが、こんなに不安定でしたっけ。ここに来て、昨日東京・靖国神社のソメイヨシノの開花が発表されました。平均より12日早いとのことで、観測史上最も早い開花なのだそうです。春の訪れが足を速め、同時に気温が上がると(気温とコロナウィルスの活動の関係性は分かりませんが)、ウィルスが活動を弱めてくれると良いのに…と僅かな期待がありますが、何となく気候の不安定さの方に気持ちが晴れません。

アメリカが国家緊急事態宣言をしました。500億ドルともいわれる財政拠出の道を開くもののようではありますが、お金さえあれば何とか抑えられるものなのだろうかという疑問は消えません。勿論、検査費用や隔離費用、停滞する経済へのテコ入れ、待機を強いられている人々への補償…、お金はいくらあっても足りないくらいだと思いますが、根本的な解決法に早く至って欲しいと願うばかりです。

そんな中、日本も「自粛」の期限が少しずつ延ばされていく…といった感じで、どこに終わりがあるのかなかなか出口が見えません。ディズニーランドは休園期間を4月上旬まで延長すると発表し、USJも休園期間を3月22日まで延長する、サンリオのピューロランドは20日まで休園等々。あちこちの施設も休園を止む無くされていますが、一応定めている再開がそのまま再開できるのか?は、限りなく疑問です。

患者が爆発的に増える事を防ぐ効果は、今のところ実現されているのかとは思いますが、問題はこれをいつまで続けられるのか?と言った事で、長引くほどに次はどうやって次のステージに移行するのかの方法を探る事にあると思います。新学期もそうですが、遅らせる事には限界があります。どのように安全を確保して、どのような形で少しでも日常に近い形を取り戻すのか…が急務です。

上述の娯楽施設が、経営の問題が切実なのは分かりますが、必要不可欠なところから考えて行かざるを得ませんので、休園期間が延びることは想定内のような気はします。日本の懸案は7月のオリンピック開催です。トランプ大統領の延期止む無し発言にも関わらず、日本は何とかコロナウィルスを抑え込んで、開催に持ち込みたいと考えています。様々の問題が立ちはだかっている事は容易に想像がつきます。延期することで、膨らむ経費もあるでしょうし、出場選手たちにとっては非常にナイーブな問題も含みます。ですが、開催国である日本は「開催できるか否か」という選択肢でなく、世界中の全ての国が「参加できるか否か」の判断をしなくてはならないのではないかと思います。「日本はやれるからやる」という議論では、浅すぎるような気がしてなりません。

災い転じて

2020年03月09日 | 社会派らぼ
2週間が瀬戸際と言われて、2週間が経ちました。2週間の我慢…だと思って、自粛していたという面はあるでしょうから、更に長引くことになれば、社会が(個々人の我慢ではなくて、)どれだけ我慢できるか、限界が来そうな気がします。職場で一人でも感染者が出ると全面閉鎖といった措置が、暗黙の了解になりつつあります。

発表される日本の患者数は、氷山の一角であるとの見方は一般的です。要するに、発表されているよりかなり多くの患者が、既に日本には散在しているという事。それらの軽症もしくは無症状の患者が、更に多くの人の感染を引き起こすという事。現実、保健所等に連絡を入れて、前問機関で感染の有無を検査している人は、ごくごく一握りに過ぎないという事です。だからと言って、手当たり次第に患者を発掘(?)して、入院させるとなると、医療機関は崩壊するのではないかと思われます。感染症対策も、個々人レベルで行うのか、国レベルで行うかによって、そのやり方は自ずと違ってくるのだと思います。

時期が3学期末であったこともあり、小中学校の一斉休校に踏み切りやすい時期だったかとは思われます。いつもなら、春休み返上といった事になるのでしょうが、今回は春休みはそのまま春休みとして実施されるため、休耕期間がかなり長期にわたって確保できました。春休み中に収束に向かえば良いのですが、状況はそう簡単に好転するとも思えません。3学期末の授業は仕方ないとしても、このまま4月以降もいつまでも…というわけにはいきません。但し、その時点で感染が収束している保証はありません。

「災い転じて福となす」 不公平感なく、全国一斉に完璧な授業を目指すならば、数年先の事になりかねません。最近の驚くばかりのネットの普及を逆手にとって、授業の一斉配信などを考えても良いかもしれません。小学校単位でやるとなると大変ですが、全国で1人の〇年〇組担当の先生がいれば良いとなれば、可能な気がしてきます。何をしても「反対」の声が起こらない事はありません。まして、学校の授業には勉学以上のものがあります。が、それはいずれ後に補う事も出来るのではないでしょうか。

併せて、仕事の在宅勤務も可能な限り実現させればよいのではないでしょうか。全てというわけにはいきませんが、デスクワークの中には場所を選ばない仕事も少なからずあるのではないかと想像します。平時であれば、論議はなかなかまとまりません。ものには必ず表と裏があって、一面的なやり方が絶対であるはずがありません。反対意見が必ず声高に主張され、まとまらなくなるのは目に見えています。が、今は違っています。少しでも人同士の接触が減って、感染拡大に歯止めがかかれば…の側面からであれば、実施できるものも多いのではないでしょうか。

人と人が顔を合わせて行うところに、仕事の妙と機が隠れています。それでも、今は変わるべき時ではないのだろうかと思います。


コロナ禍

2020年03月08日 | 社会派らぼ
コロナウィルス騒動が続いています。子ども達の学校は休校になり、人が多く集まるスポーツ大会などは中止、もしくは無観客試合となり、観光地はがら空き。マスクやトイレットペーパーの売場が空になって、途方に暮れる人も。なかなか出口が見えません。というかそもそも出口なんてあるんだろうか…状態です。

終わりが見えない騒動で「コロナ疲れ」「コロナ鬱」が見え始めていると言います。何らかの我慢を強いられた状態で不安ばかりが先に立ち、先行きが見えないのでは、仕方がないのかも知れません。一時走った緊張感は、長くは続くものではなく、やがて倦怠感・厭世観に繋がっていくことが予想できます。

我が家にはテレビがありません(笑)。何度かここでも書いているのでご存知かも知れませんが、地デジ移行の際に、不便を感じるまで取り敢えず撤去してみたら、以来不便を感じません。ですから、ワイドショー的なニュースを見ることもありません。昨年10月の台風19合襲来の時、テレビのある場所に居たのですが、テレビニュースが声を張り上げて恐怖感を煽るのに「?」を感じたことがありました。危険を伝えるのは、報道の大切な役割です。川が今にも氾濫しそうな動画は、それだけでインパクトが強く、視聴者の危機意識に強く訴えます。更に、テレビは誰しもが見る時間が定まっているわけではありませんから、「今スイッチを入れた人」のために繰り返しニュースを伝えなくてはなりません。

恐らく、コロナ報道も同じように、終日これでもか…と不安を煽る報道が繰り返されているのではないかと思います。短期で収拾するニュースであればそれでも構わないのかもしれませんが、長期化が懸念される今回は、ニュースの報道の仕方にも一思案必要なのではないかと思います。

…というより、報道の在り方そのものを根本的に見直すべきなのではないだろうかと思います。コメンテーターとやらを揃えて、あぁでもないこぅでもないという蘊蓄を、私たちは聞きたいわけではありません。会社がニュースをチョイスして、その報道の軽重も会社が定め、シナリオ通りのトーンで提供されるニュースではないカタチにできないものでしょうか。

テレビなどのニュースが一方向的だった時代から、双方向性のものに変わりつつあります。ニュースの解説は不要ですから、いつでも安定したニュースソースを提供してもらえないものでしょうか。例えば新たに〇人発症!と報じるのでなく、患者人数を見れば、日にちの経過と患者数の増加を各都道府県ごとに見ることができる、もしくは世界の患者数分布を見ることができる…と言った風に。私たちは、テレビやネットに流された情報だけを受け取るのでなく、安定した「事実」の報道を入手したいのです。そうした人数表が載せられた時だけ目にする…というのでなく、見たい時に見られる事が必要だと感じます。専門家の意見も、ただ受け身で流れて来るものを見聞きするのでなく、並べられた肩書と名前を見て、その人の意見を見に行く…といった風に。ですから、一旦コメンテーターとして登録?された方は、時間の経過とともに、一日単位くらいでコメントを撮り直していただきたい。情勢が変われば、対処なども変わらねばなりませんから。

新聞記事は、その冒頭部分を読んだだけで、後ろを読まなくても内容が分からないといけない…と聞いた事があります。ニュースの冒頭部には、「〇〇が、いつ、どこで、何をした」が書かれなければならないというものです。ニュースの在り方の原点だと思います。

転んでもただでは起きない…という言葉があります。コロナ騒動はあって欲しくはありませんでしたが、これを機に「物品の国産化の大切さ」や「報道あり方」「人の上げ足ばかり取るのでなく、ともかく協力して事に当たる大切さ」…etc.が見直されることを願います。



何のために

2020年03月07日 | 社会派らぼ
SNS流行りの世の中です。ネットの世界では顔も性別も職業も隠して、現実ではない何かになり切ってふるまう事ができてしまいます。それをストレス発散の方法とする人がいる反面、リア充アピールに使う人もいるようです。幸せを演じるのでなく、本当の実生活がこんなに充実しているのだとする「認められたい」欲でしょうか。但し、リア充だと見せている画像が、実は「インスタ映え」するだけの虚構の世界だったりするわけで、ネット民達の心の中というのは、複雑怪奇だとしか言いようがないかも知れません。

そんな良くも悪くも現代人が逃れようのないリア充アピールが、実は多くの危険を孕んでいる…といった事はこれまでも散々指摘されてきている事です。ピース写真の自撮り画像をアップすると、その写真から指紋が採取できて、実際の認証に使えてしまうとい実験を試みた研究者もいるようです。あるいは着用している制服から学校を割り出すとか、風景から駅を割り出すといった事がいとも簡単にできてしまいますす。瞳の中に映った風景から場所を特定することができるなどとなると、科捜研のドラマかと思ってしまいますが、素人でも簡単にやれてしまうのが現代のようです。

Exif情報を削除したから大丈夫だとか、子どもの目元にスタンプを押したから大丈夫、車のナンバープレートをぼかしたら大丈夫…という時代はもう過ぎ去ってしまったと言えるのかも知れません。

だから、一体何のための発信なのか?という原点に戻ることが必要ではないでしょうか。発信には危険が伴うのだという前提に立つと、では危険を冒してまで、あなたは何がしたいのですか?という事なのだろうと思います。リア充アピールは、多分すればするほど空しいのではないだろうかと想像します。本人が気づいていないだけで、本当にないものをあるように見せていること自体が、更に自分から何かを奪って言っているのだという事に、気づいていないだけなのかもしれません。

多少の危険があっても尚、世の中に発信していかねばならない…と感じられる何かが必要なのだろうと思います。

冷静に

2020年03月05日 | 社会派らぼ
コロナウィルス禍への不安が限りなく広がっています。市中感染の可能性が現実的なものになり、小中学校の休業やイベントの自粛など、早期に抑え込むための措置が次々と実行されているにも関わらず、感染が峠を越えた…という安心感にはほど遠いのが実情です。専門の医療機関以外でコロナウィルスの特定は難しく、目には見えない多くのキャリアが実は既に街中を闊歩しているのではないかという不安は誰しもが抱えています。幸い、重症者が爆発的に増える事態には至っていないので、この間に抑え込みたいとする英知の結集が実を結ぶことを祈るばかりです。

人の価値観…というのは千差万別で、思想や信条の自由が保障されている現代では、小中高の休業要請が出されても、現実に拘束力は持たないようで、各教育委員会や各校の判断に任されている部分は多いようです。その間の授業の遅れをどうカバーするのかといった問題や、卒業式や入試など悩ましい時期である事も事実です。更には卒業式シーズンで事が終わらず、入学式等への影響もささやかれ始めました。経験のない事態に突入しそうで、不安になるな…という方が難しい状況です。

マスクやトイレットペーパーが店頭から消え、ネット上で法外な価格で取引されるなど、生活そのものへの影響が出始めています。保存の効くお米などの食料品も品薄になったり、水道業者を装って「コロナウィルスが水道管についている」と除去費用が要求されたり…、コロナ禍はどんどん変異してその形を変えていく感があります。

人類はこれまでも、何度も未曽有の感染症流行に脅かされ、それに打ち克ってきた歴史を持ちます。天然痘やペストなど今では恐れるに足りない疾病も何度も猛威を奮ってきました。当時に比べると、格段に進化している医学が、いずれはコロナウィルスも抑え込んでくれるに違いないと、どこかで固く信じられる現代人は、それだけ幸せかも知れません。当時と確実に異なることは、人々の往来が格段に頻繁で広域にわたるという事とネットの進化でしょうか。

実は、愛機が昨夜からネットに繋がらなくなりました。10年前のマシンなのでもう旧い…と言われつつ、何とかならないかと焦りながら、ネットが繋がらない不便さを味わっています。私たちの生活は、今やネットが不可欠になってしまっているようです。

そんなネットを通じて、様々な情報が飛び交います。先般のトイレットペーパー騒動も情報の拡散にネットが一役かっていますし、どこまでが本当でどこからがデマなのか分からない情報が、まことしやかに流れています。トイレットペーパーなど紙製品が無くなる、コロナウィルス生物兵器説や、お湯を飲めば防げる…など。時には愉快犯の仕業さえ、いつしか善意の人たちの手も借りてあっという間に広がる時代です。トイレットペーパーの供給が危ういという事実はデマであっても、店頭で品切れが続出するというのは現実です。実際に店頭の商品が空になれば、買いに走らざるを得ないのが現実です。

普段でも実はそうだと思うのですが「正しく怖がる」事が必要で、「正しく」あるには「冷静」でなければならないのだと思います。早く「収束宣言」を聞きたいと思います。がんばれ、日本。

新型

2020年03月01日 | 社会派らぼ
新型コロナウィルスの猛威に、世界が右往左往しています。中国・武漢の遠いところの出来事であったにも関わらず、気づけば日本のあちらでもこちらでも…患者は増加し、それに伴って死亡に至るケースも出て来ています。恐らく、検査で発見されてはいない感染者の数というのは推して知るべしだと思われます。

これだけ医学が進化した時代にあっても、マスクの着用・うがいの励行・人混みには出ない…など、その対処法は100年も前とさした違いがあるわけではないようです。医学や科学の進歩の上に胡坐をかいてしまっている人類への警鐘なのでしょうか。人間が人間として、実ははかない存在であることを忘れてはならないという戒めだと受け取らざるを得ません。

ひたすら身をかがめて通り過ぎるのを待つしかない…状況にあって尚、病院のマスクを持ち出して売ってみたり、トイレットペーパーが無くなると売り場が空になるほど買い占めてみたり、がっかりさせられるような事ばかりが起こります。多分、人間の値打ちというモノは、幸せな時に測れるものでなく、一番切羽詰まった時にこそ滲み出るモノなのではないかと想像します。

未曽有のパンデミックが迫る中にあって、経験のない事への正答は誰にも分かりません。人が導き出す答など人によって千差万別で当たり前。何を言ったところで反対論もあれば、何をしても裏目に出る事もあり得ます。ですが、誰もが1つになって乗り切るべきときです。批難や批判は後回しにして、まずは協力してみるしかないような気がします。

生物兵器だという噂も絶えません。本当なのかも知れませんし、本当ではないかも知れません。分からないものを安易に信じ込むことほど、危険な事はありません。医学や科学が人を救うのは確かでしょうけれど、人はやはり人としての心を磨かなければならないのではないかと、唐突に思います。