ぱそらぼ (ぱぁと1)

パソコン講座を、まじめに愛するブログです

手間

2021年04月30日 | 社会派らぼ
ユーミンこと松任谷由実さんは、言わずと知れた日本のシンガーソングライターで、今なお第一線で活躍されています。彼女がパーソナリティーを務めるラジオ番組で、ダイニングテーブルを取り上げ、この場所を充実させればきっと幸せな気分になる…といった事を話されていました。…で、充実させるためには面倒な事が必要なのだといった趣旨の事を言っておられたようです。(聞くともなく聞いていた…のでニュアンスは少し違うかもしれません。)

面倒でも手間暇をかけることが、幸せに繋がるのだという事でしょうか。ダイニングテーブル周りの花も、プリザーブドフラワーだと手間もかからず、本物と見間違うくらいなのだけれど、本物の花にはかなわない。お惣菜も買ってきたパッケージのまま食卓に並べるなどという事はしないでくださいといった事を話されていました。

現代が目指すものは、いかにして「手間」を省くか…というところに尽きるような気がします。如何に人の手を煩わせずに、クオリティの高いものを実現できるか…に力が注がれて来たと言っても過言ではないかもしれません。そしてそれは一歩ずつ進化して来て、昔は人がすることが当たり前であったものが、今では当たり前のように機械がとって代わる時代になりました。洗濯機、掃除機、炊飯器、食洗機…昔の人が見れば口あんぐり…といったところでしょうけれど、現代人は昔の重労働だった家事から解放されました。駅の切符売り場や、改札口、言うならば水道だって電気だってみんなそうで、それが文明というもので、現代人の私たちはそうしたものの恩恵をフルに享受して、豊かな生活を送っています。人類の進化…というものは、今や宇宙にまでロケットを飛ばし、この先まだまだもっと未来へ向けて進化しようとしています。それは違っているとは思いません。それこそが、文明なのだと思います。

ただ一方で、手間をかけずに良いものが作れると思いこんでしまっているのは、それはユーミンの指摘を待つまでも無く、少し違うのではないかと思います。パソコンで言うなら、例えば…写真の加工のような場面で良く思います。パソコンなのだから、ボタンを一つ押せばあっという間に芸術的な写真に早変わりするのではといった感覚に知らないうちに陥ってしまいます。ポスターデザインも、テンプレートのようなものを落として、題名だけチャチャッと書き換えれば、見場の良いものがあっという間に出来上がるという感覚です。でもそうして手間をかけずに作ったものが、本当に良いものかというとそれは違います。他人の眼はごまかせても、自分の感性はごまかせません。文だって、書だって、苦も無くスラスラ書けるわけではないのです。

本当に、良いと思えるものにするには、地道な試行錯誤がどうしても必要だという事を、一方で分かっているはずなのですが、現場ではツイチャチャッとと思ってしまいがちです。一部の特殊な才能の人はともかく、本当に良いものに仕上げるために人が払っている目に見えない時間と努力の積み重ね。それを感じる力が必要です。それを知っていれば、自分ごときがチャチャッと良いものを手にすることなどできないことも、当然の事として分かるはずだと思います。良いものにする…には、面倒な手間暇がどうしても要るのだという事を、忘れてしまわないようにしたいと思います。

説明

2021年04月29日 | 社会派らぼ
コロナワクチン接種が、65歳以上の高齢者から始まっており、該当者の手元には手続の書類が届きました。予約は、電話もしくはネットで可能ですが、電話はなかなか繋がりにくく、ネット操作に不慣れな人も多いとかで、家族が代理で手続をしているという話を良く聞きます。説明そのものが難解で…、若い世代に助けを求めたと話す方も何人もおられました。

予定した人数分の薬剤が届かなかったようで、必ず希望者全員が接種を受けられます…と繰り返されていますが、遅々として進まない現状に変わりはありません。それ以前に、ワクチンがどれほど感染を食い止められるのかも、未知数です。当局の発表によれば、感染の源となった中国では現在ほぼ制圧したとされていますが、発表が真実だとしても、偏に独裁政治の強みの賜物であり、個々の権利や感情が優先される自由主義の国々では難局が続きます。ワクチン接種先進国の状況を見る限り、最後の切り札として威力を発揮するのは、まだ遠い先のようでもあります。

が…、第4波と言われ、一部地域に再び緊急事態宣言が発令されている現状、ワクチン接種以外に為す術も無く、昨年春より既に1年以上経っても進展が見られないことに、社会が疲弊してきています。ですから「ワクチンさえ効果を発揮すれば…」という希みは、今の社会に必要な糧でもあるはずです。

そんな中、届いた手続書類が難解だという指摘は、それが当たっているか否かは別として、全ての書類において言える事のような気がします。作成側は「分かり易く」を心がけているはずですが、説明をしようとすればするほど、言葉は難解になって伝わりにくくなっていきます。行政の仕組みそのものが、二重にも三重にも書類を要求する事にもその責任の端があるような気がします。

先日、複数の施設でお世話になる機会があったのですが、人のミスを防ごうとしているせいか、手続に何段階ものステップがあって、都度あちらへ行ったりこちらへ行ったり…、同じ種類の質問や書類が何度も繰り返されて…と、無駄を非常に感じました。挙句に帰宅してから後で、支払った金額が間違っていたから…と、訂正電話がかかり再度出向く羽目に。たまたま…だと言えばたまたまなのでしょうけれど、同じことを複数の施設で経験すると、これは社会の仕組みのひずみなのでは無いかと考えてしまいます。

AIという事が言われ出し、効率を上げる・人手を省く・合理的にといった良い事ずくめの方向が模索された結果、結局人は人の能力を低下させたのではないかと思えて来ます。学校で「作文」は書かされたと思いますが、通り一遍の説明以外「書き方」というのは教えてもらいませんでした。人に分かり易く、明確に説明する仕方を知らないのは、そんなところからも来ているのかも知れません。説明というのは、説明する側の事情を押し付けるものではなく、相手に理解させるためのもので、相手が理解できていない以上その「説明」は無価値なのです。

書類ばかりを求めるのも、結局それが、仕事のフォームを埋めるデータであるからで、各部署別個のフォームを別個で埋めているのではないかと想像します。データはデータとしてしか意味が無く、それを取り扱う人たちは、データの向こうに個性や息遣いを感じることをしません。ゆえに「機械のミス」が生じても、それを事前にカバーする「人間力」を持ち合わせません。イエ正確に言うと「無くしました」。だから、違う金額を請求する事になり、それは担当者からすると自分の責任ではなく、機械の落ち度にしかすぎません。

人に分かってもらうために「説明をしてはいけない」と私は密かに思っています。説明をしようとする人は「だから…、要は…、つまり…」と、自らの説明を補う言葉を何度も何度も重ねがちです。分かってもらおうと思う思いがそうさせるのですから、あながち悪い事ではないのでしょうけれど、説明が繰り返される度、人は更に混迷を深めていくことになります。本当に伝えたいことは、説明をせずに「〇〇は、〇〇です」と短く言い切る事だと思っています。

根底にあるのは「教育」だというのも、これもいつもの自論です。人はどんどん「文章」から離れ、「言葉」へ「単語」へ「画像」へ「ムービー」へと手軽なものに飛びついて行きます。短い的確な刺激に慣れて行くことで、論理的に物事を展開する力…というのが逆に削がれていきます。論理的な力は「プログラミング」で学ばせる??? それはチョット違いませんか。プログラミングを構成するのはステートメントと呼ばれる単純化されたいくつもの操作命令の1つずつです。それは、機械と話すためのツールであって、決して人と話すためのツールにはなり得ません。

置き勉

2021年04月15日 | 社会派らぼ
毎晩、明日の時間割を見て、ランドセルに必要な教科書やノートを入れ、鉛筆を削って準備する。言われなくても、自分からできるお子さんの場合はともかく、何かと忘れ物をしがちなお子さんのご両親は、毎日のように声をかけられていると思います。「時間割、済ませたの?」 それでも「〇〇忘れました」は、教室からは無くならないのではないかと思います。

…だから…?、算数と国語以外は、教室のロッカーに置いておくように…と指導されている話を聞きました。子ども達は毎晩「時間割、済ませたの?」から解放されます。学年にもよるでしょうけれど、算数と国語は結構毎日授業がある場合が多く、要するにランドセルに入れっぱなしで済むをいうわけです。宿題を済ませて、そのままランドセルにしまい込むだけ。「〇〇忘れました」と先生に言う必要が無くなります。先生も、必要なものを持たずに登校した生徒への配慮をする必要が無くなります。これを「合理的」と呼ぶのでしょうか。

多分、多くの方が、私と同様に疑問を感じられるのではないかと想像します。小学校という場は、もちろん勉強を教わる場ですが、教わる勉強というのが教科の勉強に限られているとは思いません。今どきのモンペと呼ばれる(モンスターペアレンツ)親御さんたちの中には、しつけも学校にしてもらうものだと思っている人も少なくはありませんが、本来基本的生活習慣などの確立は、家庭の指導にゆだねられている部分かと思われます。「明日の時間割をキチンとする」は、家庭で親が声をかけて、子どもに習得させるものの一つでしょう。が、学校がその機会を奪ってどうする? 毎日の時間割をする必要がない状態を作る…のが、根本的な解決法だとは思えません。

「置き勉」などという言葉は、昔からあったのでしょうか。基本、教科書やノートは、毎日ランドセルで持ち運ぶもの…というのが、大前提でした。持ち帰らなければ、家で勉強するという事ができませんから。それを敢えて、学校に置いて帰り、家で勉強できないというリスクを冒すのは、実は子どもの裁量ではないでしょうか。学校が「置き勉」はいけませんとか、「置き勉」をしなさいとか言う代物ではないような気がします。工夫をしながら、失敗をしながら、基本的な生活習慣を取得していくべき大切な時期です。

ある小学校の高学年で、辞典を学校に置いておくように…という指導をしているところがありました。児童が、家で使いたいから持ち帰りたい…と言っているのに、許可してもらえなかったとか。何でも、一律公平に、皆同じというのが、基本にあるのでしょうけれど、知的興味を持たせてそれを満足させるという大切な根本が抜けているような気がします。管理教育では、豊かな才能は育ちません。

時刻表

2021年04月12日 | 社会派らぼ
先日、メンテナンスを手伝っているホームページ中の、JR時刻表やバス停の時刻表へのリンクが繋がらないとご指摘いただきました。慌てて、確認したところ、リンク先のアドレスが見つからないらしくエラーになってしまいます。勿論、改めて最寄りの駅やバス停の時刻表を検索し、リンクを繋ぎ直せば良いだけの話なのですが、これが意外と時間がかかってしまいました。

時刻表サイトも進化しています。駅で検索した後「〇〇方面」などを選ぶと「平日」「土曜日」「日曜祝日」の時刻表が並んで出て来る…といった一昔前の(?)アナログ時刻表になかなか行き当りません。「検索」ウィンドウが出て来て、日付・乗車駅・降車駅などの条件を設定して、該当車両の運行情報を詳しく知る…といった便利なページに変わっているのです。リンクをたどれば、一発で昔ながらの時刻表が見られると思っておられる向きには、総スカンを食いそうです。

便利になって行くことは、有難い事ではありますが、今向かっている方向が果たして本当に便利な方向であるのかは疑問です。フィルムカメラはいつしかデジタルカメラに押されて姿を消そうとしていますし、アナログ音源も今や貴重品扱いになりました。ページをめくる紙の辞書よりも、キー入力一発で調べることのできる電子辞書が重宝がられます。当然、そろばんは電卓にその座を奪われました。便利ですから。

当然、アナログなものにはアナログな良さがあります。が、それは一部のマニアックな人間たちのノスタルジーだと理解されがちです。電卓で叩く数字には個性はありません。ただ正確に叩けば、瞬時に正確な答が出るだけで、計算にそれ以上やそれ以下を求める余地など無いという風に理解されがちです。そろばんの梁を挟んで上にある五珠と、下に並ぶ一珠は、1つ1つの数字の個性を表現してくれます。「8」が「5」と「3」の組み合わせで構成されているという事実は、電卓の世界では得られない数字の個性に他なりません。それは必ずしもそろばんでしか得られない世界では無く、工夫次第では私たちは、数字の個性を感じながら計算する事だってできるのですが、便利なデジタルはそうした可能性を一瞬で押し流してしまう強引さがあります。

前後も事情も一切関係なく、該当箇所に瞬間移動してしまう物の考え方…が、果たして世の中を生きていく知恵を育てて行くのかと問われると…幅の狭い考え方しか育てないような気がしてきます。便利さと引き換えに、私たちは何を捨てているのでしょうか。




五輪

2021年04月11日 | 社会派らぼ
 今回ばかりは、北朝鮮の判断が正しいのかも知れないと一瞬思いました。

 平壌で開かれた朝鮮民主主義人民共和国オリンピック委員会総会で、コロナウイルス感染症のための世界的な保険危機の状況から選手を保護するため、東京オリンピックへの不参加を表明しました。勿論、画面通りに受け取ると、大きな本質を見誤ることになりますが、少なくとも、一国を貶めるような表現を使わずに、世界的なコロナの状況を憂えた表現にとどまっています。

 7月末の東京オリンピックの日程が、じわじわと近づいています。聖火ランナーの辞退が相次いだり、大阪府全域の公道で予定していた聖火リレーが中止されたり、異常を極める中、それでも聖火は粛々と日本中を巡っているようです。

 1月から続いた緊急事態宣言が解除されるや否や、再び患者数が増えています。経済への打撃を懸念する政府は、緊急事態宣言の再発令を避けたい意向で「蔓延防止等重点措置」の適用が発表されています。緊急事態宣言とは異なり、飲食店などへの休業要請はできず、対象地域も都道府県単位でなく、知事が指定する地域に限って発令されるようです。

 経済活動が弱りに弱っているのは確かで、経済的なダメージは今後も増すばかりかと想像されます。終わりの見えないコロナ禍に、皆が苛立ちながらも、諦め、無気力になっていきます。…だから、経済へのカンフル剤でもあるオリンピックは何としても実施したい…。のは分かり過ぎるほど分かります。

 が、緊急事態宣言を出さずに、蔓延防止等重点措置に留めるのは、偏にオリンピック開催が可能であることを内外に知らせるパフォーマンスなのではないだろうか…と勘繰りたくもなります。

 人権問題を巡って、米中の対立も深刻になって来ています。世界のイニシャチブを取りたい中国と、取らせたくないアメリカの対立でしょうか。そのアメリカが先日、来年2月に予定されている北京での冬季オリンピックに対し、同盟国や友好国との協議したい旨を述べていました。要は、ボイコットする可能性を示唆したわけで、1980年のモスクワオリンピックのボイコットを思い起こさせます。前年のソ連によるアフガニスタンへの軍事侵攻に対する抗議活動でした。「オリンピック」は既に、世界平和の象徴としての位置付けを失っている…とも言えなくもありません。(そんな時代だからこそ、一堂に会する事に大きな意義がある…とも言えますが。)

 池江選手に象徴される「それに向けて、諦めずに努力を重ねてきた世界中のアスリート達」の純粋な想いを想像すればするほどに、器がそれに見合う清い純粋なもので無い事に大きな失望を覚えています。このコロナ禍で実施する事の意義に自信が持てない、開催3ヶ月前です。