ぱそらぼ (ぱぁと1)

パソコン講座を、まじめに愛するブログです

願い

2023年02月24日 | 雑談
子どもさんが大好きなキャラクターが描かれたクッキーを買って来て、大喜びで食べたご一家。お兄ちゃんは食べる前に写真を撮ってから食べたのに、弟さんは食べてしまい、後になって写真が無いと大泣きしたとか。機転を利かせたお母さんが、プレーンクッキーを弟に持たせて写真を撮り、ネットでキャラクターの描かれたクッキーを探し、写真を合成したら、弟さんはたちまち笑顔に。

そんな微笑ましいご家庭の話を聞きました。温かいご家族の雰囲気がこちらにも伝わってくるようなそんな気がしました。

けれど、何か引っかかるものがあります。写真を撮らずに食べてしまったから写真が無い。お兄ちゃんは写真があるのに僕は無い。だから大泣きをする。子どもなら「あるある」の経緯なのですが、だからと言って合成写真を作って、その場で泣き止ませる必要は多分無いのでは…という思いです。

望めば何でも手に入るわけではない…ということは、子どもが成長していく過程の中で、いやでも学ばねばならない事のはずです。こんな些細な一コマからでも、きっと子どもは世の中は思い通りにはならないんだということを学んで行くと思うから、合成写真などという現代の魔法を使う必要などなかったのではないでしょうか。

小林一茶の俳句集「おらが春」には「名月をとってくれろと泣く子かな」という句が収められています。子は美しい名月を取って欲しいと言って泣く。月など取ってやれるものではないことはわかってはいるけれど、きっと取ってやれるものなら取ってやりたいと親は願っているのでしょう。望めばなんでも手に入るわけではないことを学ぶのは、実は子ではなく、親なのだと思い至ります。

できないことをしたいと望むことはきっと悪い事ではなく、できないからこそ何とかできればいいのに…が、世の中の様々を変えて来たのかもしれません。「目の前にいない人とも瞬時に話が出来たら良いのに」。そんなこと、できるはずもなかったのでしょうけれど、今では当たり前に、それこそ相手が仕事中だろうが忙しくしているかもしれない時だろうが、お構いなしに電話をかけることができるようになりました。そんなことが叶うはずもなかった時代の人からすると、信じられないような話です。

やれもしないことをやりたいと望むこと、願うことは、新しい次の扉を開くことにつながります。それは、ただ「泣いて」いるだけでなく、心に刻んで忘れずに、いつかそれが何かのきっかけになるように、きちんと蓋をして整理しておくことからしか始まりません。ちなみに、夢や願いと妄想はどこで線を引いたら良いのでしょう…。

戯言

2023年02月16日 | 雑談
6日、トルコ南部シリア国境近くで、マグニチュード7.8の大地震が発生しました。両国の犠牲者は合わせて4万人以上にも上り、72時間が勝負とも言われる時期を大きく超えた今、現地では懸命な救助活動が続いていますが、犠牲者はさらに増えるかと思われています。

と同時に、広範囲にわたって町が破壊され、何百万人もの子どもたちが緊急の人道支援を必要としていると報じられています。冬の寒さの中で路上で寝泊まりしている子もおり、ユニセフは多くの子どもが「絶望的な状況」にあると表現しています。既に、各国から医療支援チームが駆け付け、被災者の治療に当たるほか、支援活動なども行われてはいますが、現地が平穏を取り戻すまでには、相当な時間が必要であり、その間継続的な支援が必要であると思われます。

自然災害は人間には抗うことができないもので、仕方がないといえば仕方がないのですが、ロシアの侵攻以降、1万3000人にも上るウクライナ兵士が死亡したとも報道されています。戦争状態の中ではロシア兵・ウクライナ兵・民間人のいずれにも死傷者が出ており、おそらく正確な数は測りようが無いのではないかと思われます。自然災害とは異なり、人の意思によってもたらされている悲劇であり、人間の無能さを示しているといっても過言ではないかもしれません。

またロシアは、生後4か月から17歳までの子どもを、少なくとも6000人連れ去り、組織的な再教育をしているとの疑いが発表されています。教育というのは恐ろしいもので、偏った見方を刷り込まれると、偏っているということ自体に気づくことが困難になります。

そんなこんなの世の中を見渡せば、日本の「今」がいかに恵まれているかは歴然としているのですが、その日本の子どもたちは、果たして正しい感性を持ち合わせているのかと考えると…。教育は恐ろしいものです。何を学び、何を吸収するかによって、価値観や人生観が異なってしまうはずなのに、現在の教育は「人が人としてどうあるべきか」という根幹を放棄しているような気がすることがあります。

戦時下での偏った教育への反省から、自由と自主性を重んじるとする今の教育に切り替わりました。自分の可能性を最大限に発揮し、幸福な人生を自ら創りだしていくことが大切だとされていますし、きっとそれは正しい事だと思うのですが、世界のあちこちで人が苦しんでいるような社会の中で、自らの生き方をどう襟を正さねばならないか的な視点が、そこには欠けているような気がします。

自分の可能性を生かすこと。自らが輝ける生き方であること。光り輝いている字面を追えば、それは素晴らしい理念であると思いますが、そのために自らをどう律していくべきか、自分がどうありたいかではなくどうあるべきなのか…といった、生きる根幹に関わることがそっくり欠如しているような感覚に陥るのはなぜでしょうか。

ウクライナの悲劇はどうすることもできません。トルコで苦しんでいる人たちに手を差し伸べる方法は、寄付をするくらいしか思いつきません。撃ち落さなければならないのは、空中を飛んでくる気球ではなく、自分たちの中に巣くっている「お金が手に入ればいい」「楽して生きていければそれでいい」とする退廃なのかもしれません。「お国のため」と洗脳したかつての教育は間違っていると思いますが、自らが人間的な高みを目指して、自分自身の「在り方」を模索する必要はあるのではないかと。

言葉

2023年02月05日 | 社会派らぼ
LGBTQなど性的少数者や同性婚のあり方について、差別的な発言があったとの理由で、首相秘書官が更迭されました。これまでからも、政治家の不用意な発言は何かと世の中を賑わせて来ています。政治家なのだから、少しは…気を付ければ良いのにと思いますが、日常の中ではつい…なのでしょうか。

かいつまんで読んでみると「隣に住んでいるのもちょっと嫌だ」的な発言までされたようで、それはチョットダメだろうなとは思います。ただ、こうした事がある度に、身内はともかく、他党からも「言語道断だ」との批判はもちろん、徹底追及するとの構えで肝心の審議がどこかに行って国会が空転します。

考え違いの発言をした人がいたとすれば、その発言自体で、すでにその人となりは他者から判断されています。「この人はこういう人なんだ」と、多くの人に理解されてしまいます。「一言既に出ずれば駟馬も追い難し」いったん口から出た言葉は取り返しがつかず、四頭立ての馬車で追いかけても追いつけない(なぜか子どもの頃、三頭立ての馬車でも追いつけない…と聞いた記憶が)と言われます。それほどまでに、言葉は慎むべきだとの戒めです。言った人が相応の処遇を受けることは仕方がないことなのかもしれません。

…が、発言の重さやその影響はこの際、横に置いておいて、一度何かがあると、かさにきてヤイノヤイノ…と、すぐに辞めさせる、責任追及と声を荒げるのはどうかと思ってしまうところがあります。本人がそれなりのペナルティを負った時点で、「それだけの人なのね」と切って捨てることはできないものなのでしょうか。政治家であろうとなかろうと、日本国憲法は「思想の自由」を侵してはならないものと謳っています。表現の自由も保障されているはずです。

子ども達が小学校の時、PTA代表がそのまま地域の役職に充たると言われて地域の会議に出たことがあります。世の中を賑わせている事案をめぐって、一人の方が非常に素朴な疑問を口にされました。その日はちょうど、懇親会の席が予定されており、場所移動の後にその方が「先ほどは座興で少しあらぬことを言いましたが…」的な釈明をされました。移動途中に、何らかの圧力があったのは確かです。疑問を封じ込めるようなやり方には、あまり未来は無いと感じたものでした。

「言葉」には大きな力があると私は思っています。失言をする人も、その失言をかさにかかって咎める人も、もっと美しい言葉の使い方ができないものでしょうか。言葉の持つ力…というのは、弾丸や刃のように人を直接組み伏せるものではありません。ですが、弾丸や刃にもできない「傷つけ方」もまた「救い方」もできるものであることも確かです。差別用語と言われる言葉があって、使ってはならないとされています。言葉を制限すれば、心が制限されるわけではないことを忘れてはいけないと思います。