今年もあと1か月となりました。早かったのか、遅かったのか…という感慨さえなく過ぎた日々のように思います。
新聞やニュースは、望むと望まざるとにかかわらず、様々な「死」であふれています。命の灯が静かにぽったりと落ちるようなものから、非業の死に至るまで。どんなに科学が発達しても、この大きな大宇宙の中で、一つ一つの生命というものは、有限で、その大きな時の流れの中に飲み込まれていくようなものだという他ありません。そう言いつつ、それぞれの「死」には、主体であるべき当事者がいて、その個々人からすれば、天地がひっくり返るほどの「一大事」を私たちは生きています。
ある人が「人の晩年は、その人が『どう生きたか』で定まる」と言っていました。生きてきた集大成が「晩年」なのだと。ここでいう「晩年」は、決して病を患っているか否か…でなく、金銭に苦労しているか否か…でもなく、介護をする人がいるかいないか…でもなく、偏に心美しくいられるか否か…といったことを指しているのだと思います。
非業の死や理不尽な死が、そこここに散在する世の中ですから、彼の言っていることは半ば当たってはいませんが、それでもキット魂が救われるような高い見地から眺めると、そうなのかも知れません。狭い了見の中にしか価値観を見出せず汲々と生きて、良い人生だった、これはこれであり…だったと思う幸せは、きっと真のものではない…というのが、彼の言う正解でしょうか。
今年も多くの魂が鬼籍に入られました。それぞれの「人生」に敬意を表したいと思います。そしていささか遅きに失しているかも知れませんが、真摯に生きたいと思います。
新聞やニュースは、望むと望まざるとにかかわらず、様々な「死」であふれています。命の灯が静かにぽったりと落ちるようなものから、非業の死に至るまで。どんなに科学が発達しても、この大きな大宇宙の中で、一つ一つの生命というものは、有限で、その大きな時の流れの中に飲み込まれていくようなものだという他ありません。そう言いつつ、それぞれの「死」には、主体であるべき当事者がいて、その個々人からすれば、天地がひっくり返るほどの「一大事」を私たちは生きています。
ある人が「人の晩年は、その人が『どう生きたか』で定まる」と言っていました。生きてきた集大成が「晩年」なのだと。ここでいう「晩年」は、決して病を患っているか否か…でなく、金銭に苦労しているか否か…でもなく、介護をする人がいるかいないか…でもなく、偏に心美しくいられるか否か…といったことを指しているのだと思います。
非業の死や理不尽な死が、そこここに散在する世の中ですから、彼の言っていることは半ば当たってはいませんが、それでもキット魂が救われるような高い見地から眺めると、そうなのかも知れません。狭い了見の中にしか価値観を見出せず汲々と生きて、良い人生だった、これはこれであり…だったと思う幸せは、きっと真のものではない…というのが、彼の言う正解でしょうか。
今年も多くの魂が鬼籍に入られました。それぞれの「人生」に敬意を表したいと思います。そしていささか遅きに失しているかも知れませんが、真摯に生きたいと思います。