ぱそらぼ (ぱぁと1)

パソコン講座を、まじめに愛するブログです

脳力

2021年05月17日 | 社会派らぼ
「脳トレ」と言う言葉をよく聞きます。超・高齢化社会の現代、老いて若い人たちに必要以上の世話をかけてしまう事をできるだけ避けたい…との思いから、脳を活性化させるような活動を楽しみながら行おうと考える人が増えているのだと思います。

ただ、クロスワードパズルやナンバープレースなどのゲームの評価は一転二転したようです。かつて、こうしたゲームは記憶力や思考力の改善に役立つと考えられましたが、2018年には「そうした効果はない」という研究が発表されました。イギリスで行われた研究結果では、子どもの頃知能テストを受けた事のある500人を対象に、64歳から15年間、5回の記憶力処理能力テストを行った結果だそうです。が、更に2019年、こうしたゲームを定期的に行う50歳以上の人が、行わない人に比べ、注意力、推論力、記憶力などが優れていた…と発表されました。こうしたゲームは、決して認知症のリスクを減らすわけではないが、脳の機能維持を助ける働きはあるという事でしょうか。

人間の高次認知機能は、20代後半をピークに低下すると言われており、脳のトレーニングを行えば学習能力は再び上がり始めると言われます。道理で「脳年齢を知りたいですか?」といったフレーズと共を、ゲームの宣伝でよく見かけます。

何となく「脳年齢」は若い方が良い…といった刷り込みがあって、どんなゲームでも快調にクリアすると脳年齢は若く表示、もたつくことで年齢が増えるようです。瞬発性や記憶力が必要なものばかりでなく、知識を問うようなものでも同様の触れ込みになっているので、何となく若い方が脳力は高いのだろうかと不思議に感じてしまいます。上述のように20代後半をピークで、その後下降線を描くのだと考えると、脳年齢は若い方が「やったぜ」になるのでしょうね。

脳年齢なる言葉は、単にゲーム会社などが使っているだけなのか、医学界でも使われるものなのか知りません。でも、いつも何となくひっかかっているのです。世の中には年齢を重ねる方が、増す能力もたくさんあるのではないでしょうか。知識量や経験値が増え、更に対人関係能力が磨かれる事で、ヒューマンスキルが高められる事などを考え合わせると、「若い方が良い」という認識を改めても良いのではないだろうかと思ってしまいます。結局、「脳力」と「能力」の言葉の違いなのかも知れませんが、何となく混同してしまっています。

もっと違う尺度で測れる言葉を使いたいなぁ…と、若くなくなった脳で考えてみています。

インスタ

2021年05月16日 | 社会派らぼ
女優の杉咲花さんが、インスタグラムのアカウントを閉じると報告されています。「お芝居を通して何かを伝えるということに、より一層集中していきたい」とその理由を説明しておられます。個人的には「拍手」です。

俳優という仕事は、人気商売ですから、ファンサービスはとても大切な仕事の一環なのだろうと想像します。世の中、SNS流行りで、Facebook、Twitterに始まり、Instagram、YouTube…と、一人でいくつものSNSを利用している人も少なくありません。以前は宣伝…というと、所属会社などにプロデュースしてもらわなければならなかったものが、自宅で手軽にどんどん自由にできるわけですから、人気に頼る職業の方には本当に魅力的なツールだと思います。

一方で、それらにかけている時間と言うものも、恐らく半端では無く、題材を探す作業もなかなか気をつかったりするのでしょうから、今回の杉咲さんんの決断は、賢明なのではないかと思います。

数あるSNSの中でも、Instagramはまだ手間がかからない方ではないかと思います。それですら、杉咲さんには「本職である女優業に集中したい」と思わせる手間がかかっていたのでしょう。ある意味では、インスタなどで人気を稼ぐのでなく、本職で人を感動させる芝居をして見せる…という決意なのかも知れません。

いずれにしても、現代人はこうしたSNS発信の魅力に取りつかれ、さした目的も無く、大量の時間をそれに費やしているのは、無駄なような気がします。お金を稼ぐ…と言うのは、立派な目的だろうと思いますが、いわゆるYouTuberなどが社会に必要な仕事だと、未だ思えないのは、偏に人間が旧いせいでもあります。

一刀両断で、すべてのSNSが無駄だとも思っていません。そこに「目的」があって、真摯に自分の想いを社会に届けようとしている人たちも、実に多いのだという事も分かっています。社会の中で、それらが何らかの「力」になっていく可能性も十二分にあります。要は、それを通して一体何をしようとしているのか…を、一度振り返ってみる事が大切なのだと思います。

翻って、「ぱそらぼ ぱぁと1」が何なのか?と問い直すと、私の天職は「パソコンの使い方を正しく分かり易く人に伝えること」だと思っています。ただ、パソコンは単に「使えさえしたらそれで良い」ものでは無い…とも思っています。使い方と共に伝えたいのは、ある意味「人の生き方」でもあると考えるところがあります。講座を通して、パソコンを通して、私は実に多くの「出会い」をいただき、本当に魅力的な生き方をたくさん知りました。それを伝えたい…と思っているだけです。技術は単に技術であると同時に、そこには魂があるとでも言えば良いでしょうか。自分の中に渦巻く想いを、残しておければ良いかなぁ…というのが、当ブログの動機です。

予約

2021年05月12日 | 社会派らぼ
各地でコロナウイルスワクチン接種予約が始まり、本格的に接種を進める動きが本格化し始めています。同時に、予約を巡るトラブルも目立って来ました。

茨木市では、17日までに6日間の予約受付日を設定しました。福祉文化会館に設けた窓口、インターネット、電話でと3つの予約手段があったようです。そのうちの予約窓口には、初日、2日目と多くの高齢者が殺到し、定められた予約人数分はすぐに埋まり、予約ができない人が続出。そこで…、3日目の受付日に対し、前日から開館前で順番待ちをする人が現れました。徹夜で順番待ちをする人たちへの対処として、市が整理券を配ったところ、前日の夜のうちに翌日受付120人分の整理券を配り終えてしまいました。その後も予約希望者は集まり続け、120人分の整理券を既に配り終えたとして受付終了を告げると、前日に整理券を配るのはおかしいと猛抗議、一時は警察署員が警戒に当たったと報じられています。

命にかかわる大事な接種だから、ルールを勝手に変えないで…という怒りも尤もです。が、整理券を配らなかったとすると、会館前に延々長蛇の列ができたはず…で、徹夜明けの受付開始時間になると、列の先頭から120人だけが予約可能となり、それ以降に並んだ人には「受付終了です」と告げられ、帰っていただくという事になったはず。となると、121人目から後ろに並んでいた人は、「それならそれで、人数枠分かっているのだから、早めに言ってよね!」という事になったのではないかと思います。市は窓口を設けたことを申し訳ない…として、以降の予約をインターネットと電話で応対するとしています。

かと思えば、愛知県西尾市では、副市長が指示を出して、スギ薬局を経営する「杉ホールディングス」会長夫妻の接種予約を優先的に確保したとして問題になっています。予約は既に取り消されているようですが、上級国民になるとワクチンも優先的に接種できるようになるのかと、反発を招いているようです。地域の顔に頼まれると、イヤと言えないところがあるかもしれません。実は、ニュースにならないものの、実質優先予約と言わざるを得ないケースも、日本中では相当の数に上るのではないかと予測したりしますが、今さら誰も驚かないかもしれません。

大半の事は予測できたことかと思われます。これでも世界の中で、ワクチン接種開始が遅く、準備に時間がかかっていたのですが、薬が入手できないと焦っていただけで、予約のシュミレーションは足りなかったのかも知れません。例えば予約の際にもっとビジュアル的に見易い画面も作る事は可能だろうと思うし、会場を定める代わりに接種地域を定めるとか、今後の薬の入手を見込んで希望者全員先々の予約まで入れてしまうとか…方法をもっと探るべきだったでしょうか(言うは易し、行うは難し)。ネット予約ボランティアのような制度があっても良かったかも知れません。

ただワクチン接種は緒についたばかりです。入手ワクチン数が増えるとの情報ですから状況は緩和されるでしょう。が、65歳以上枠から更に基礎疾患のある人・年齢が更に下の世代へと対象枠が広がっていくわけで、手をこまねいていずに今の間に、予約方法の更なる検討を行うべきです。受ける側にも都合があります。ですが、茨木市の整理券がもらえなかった市民が「命に係わる大事な接種なのだから」と言われるように、市民の側もイライラばかりをぶつけるのでなく、協力の姿勢が必要だと思います。

善意

2021年05月11日 | 社会派らぼ
オリンピック中止を呼びかけるオンライン署名に30万近い賛同が集まった…ことがニュースになっています(数字は9日午前11時まで)。同じサイトには3日遅れで、開催支持を呼びかける動きも登場し、こちらは約1万8000人の賛同を集めたようです。

このような騒動になっているのは、元はと言えば7日付けで、水泳の池江璃花子選手に「五輪を辞退して欲しい」というメッセージを送りつけた人がおり、それに対して池江選手が丁寧に「選手個人にメッセージを当てるのはとても苦しい」と投稿した事に端を発していると思われます。池江選手は、身体能力が優れているだけでなく、非常に頭の良い方だという印象を受けました。「やるなら全力で ないなら次に向けて」頑張るだけだという答えは、非常に真摯で、アスリートの想いを十二分にくみ取る事ができる言葉遣いだったように思います。

が、元々の辞退を求めた投稿者への批判が相次いでいます。タレントさんなどがこぞって、選手に声をぶつけるのは「卑劣」だと声を上げ始めています。問われて仕方なしに答えた方もおられるでしょうし、自ら進んで非常識だとなじっている人もいると思います。今のところ、投稿者を特定してどうのこうのになっていないのは、メッセージが池江選手個人に充てられたダイレクトメッセージ(だろうと想像しているだけですが)だったためで、池江選手がそうした意思を持っておられないからなのだと思われます。単なるツイートなどであれば、とおに発信元が捜し当てられて、いわゆる「晒す」状況になっているやも知れません。

池江選手にそのような事を求めても、彼女の白血病との戦いを知っているなら尚のこと、そのような呼びかけに当人が困惑されるであろうことは想像できます。そんな事はすべきでない…と言うのは正論ですが、いわゆる「よってたかって」「人をあげつらう」無責任さが十二分に発揮されている場面では無いかとも思います。池江選手にメッセージを送った人がどういう意図で送ったのかは別とし、それが池江選手をどう苦しめるかも別とし、送信者本人に配慮が足りなかった事実も敢えて別とし、その行為を何人もが何重にも非難するという事が、正しい行為だとは思いません。

ネット上で自由にものが言える世の中は、一昔前までは考えられなかった世界です。フルに活用する事は悪くはありません。ですが、人の思いを叩くだけ叩くというネットの悪習慣は自重したいものだと思います。彼(もしくは彼女)の、言わんとしたかった真意を一旦は善意に解釈してみるという想像力や配慮を忘れてはならないのだと思います。

著作権

2021年05月10日 | 社会派らぼ
近年「著作権」が話題に上ることがしばしばあります。自分の考えや気持ちを作品に表現したものを「著作物」、これを創った人の権利を「著作権」と呼んで、産み出すための労力や感性を他人が横取りしてはならない…と定められているものです。著作権は申請して主張するものでもなく、例えば幼稚園児が描いた絵にも著作権が存在します。他人の作品やアイデアを模倣して、あたかも自分のアイデアであるかのように、そこから収益を得るのはルール違反だということで、創作者の想いを考えれば、心して守るべき権利です。

但し、最近のJASRACなどの活動を見ていると、時に必要な主張なのだろうかと思う事もあったりします。数年前の京大の入学式式辞で、当時の総長が歌手のボブ・ディランさんの「風に吹かれて」を取り上げたところ、著作物使用料が必要だと求めたことも記憶に残っています。要は、答というものは、本に載っていたりテレビから得られたりするものでなく、「風に吹かれて」いるもので、自らそれに気づく必要があるというような事を言われたのだと思います。この式辞がWebサイトに掲載されたところ、JASRACが著作権云々を持ち出したというものです。最終的には、請求しないという事で決着を見たはずです。

歌声喫茶的な場所での歌詞配布や、店のディスプレイでのキャラクター使用。どこまでが著作権法違反で、どこからが使用料が発生するのか…といった事について、いくら該当の説明を読んでも腑に落ちない場面が多くあります。「触らぬ神に祟りなし」的に取り敢えず止めておこう…の判断か、「このくらい見つかるとも思えない」的な居直り…かで、誰もがスッキリと「ここまで」と線が引けているようにも思えません。

例えば、上述の京大の入学式式辞でも、サイトに活字で掲載する事が著作権に違反すると考えられたようで、総長の式辞そのものは誰も咎めてはいません。ボブ・ディランさんのお考えは分かりませんが、作った歌詞が深い真髄を語っているのだと評価されたと考えると、制作者としてはむしろ誇らしく思う場合もあるのではないかと思います。

他人のアイディアを使って、根拠のない収入を得る事は窃盗行為に当たると思いますが、リスペクトを込めて、その恩恵の一端を楽しませていただくことは、咎めるべきものとも思えません。デジタルな世の中になったため、複製物が非常に簡単に制作できるようになりました。根本的な考え方から掘り起こして、もっと分かり易いルールであるべきでしょう。

逆を言うなら、全てが金銭がらみで理解されており、制作者が得るべき収入を他者が得てはならない…的な発想がその根幹にあると言うべきでしょうか。翻って制作者は自分の創作物でどこまでの収入が補償されるべきなのかというあたりから考え直さなければならないのかも知れません。実は、人類がたどり着く終点としての体制が資本主義なのかという点には大きな疑問があります。

無力

2021年05月09日 | 社会派らぼ
茨城の一軒家で家族4人が殺傷された事件の容疑者が逮捕された…というニュースが駆け巡りました。火災予防条例違反、警察手帳の偽造販売などの別件容疑で続けて逮捕されていた…と言いますが、容疑者の自室はさながら実験室並みに様々な薬物や刃物類などであふれていたと報道されています。少年当時、ネコの首を切断したり放火を繰り返すなど「第二の酒鬼薔薇聖斗」などとも呼ばれ、通り魔のように人を刺して逮捕された事もあったとか。本人の認否は明らかにされていない…との事で、事件の解明にはまだまだ時間を要するようです。

仮に、彼が犯人だったとして…、第二の酒鬼薔薇聖斗の存在を許した社会のありようが問われるのだと思います。肝心の元少年Aは、社会復帰して「絶歌」を出版、HPも開設し「社会の中」で生きているようですが、見聞きする限り、彼がこの社会に適応できる範囲に矯正されたとは考えにくいものがあります。

多分、彼らを現行の社会が理解する事はできないし、彼らもまた「世の秩序」なるもの「人の尊厳」なるもの「生きる」ことの意味なるものを理解できないのだと思います。それはいわゆる「能力」とは別のところが司るもののようです。いわゆる「人格障害」は、例えばコロナのようにPCR検査を行って陰性だからウイルスは存在しない、陽性だからウイルスが存在するといった風に、基準の一線を引いて分けることができません。正常な社会生活を送る私たちの中にも、いわゆる「性格破綻者」と陰口をたたかれるような人はいるし、かといってその方たちは一方的にいびつなのかと言えば、見方によって見解が異なるような場面も多く、世の「正義」なるものが当てにならないと私が考える大きな理由です。要するに正常と異常が明らかに断層を作るのでなく、なだらかな斜面で連なった先に数名の「酒鬼薔薇聖斗」が居るのです。おそらく人智を以てするだけでは、彼らに自らが歪んでいるのだと認識させることは不可能です。

そうした個に為す術がない社会であることが、多分問題なのでしょう。おそらくは小さい頃から攻撃性であったり反社会性であったりする部分を、周りが察知していたにも関わらず、社会はひたすら息を殺し彼らの逆鱗に触れないよう、見ないよう、気づかいないように振舞って来たに違いありません。彼らには「悪い」という感覚が無いのですから、自分自身で歯止めをかけるという事が恐らく不可能なのだと思います。家庭だけに押し付けるのでなく、社会が監視していなければならなかったのだろうと思います。

神戸の介護老人保健施設で、入所者と職員133人がコロナに感染、25人が死亡したと報じられました。施設には医師3人と看護師16人が常駐する恵まれた環境であったため、施設内での療養が求められたようですが、人工呼吸器などの設備が整わず、救急搬送を要請しても「病床に空きがない」という理由で、入院させることができなかったと言います。為す術も無くご遺体を納体袋に納めることしかできなかった職員は「見殺し」ではないかと感じたと。

どこかで、私たちの築いた社会は完璧で、その和を乱す者が悪いという意識で眺めがちですが、実は未成熟な社会であることを心しておかなければなりません。すぐに誰が悪いと犯人を探し出し、辛辣に犯人を責めるだけでは、解決しない事が山とあるのです。現代は「教育」と称して学力や倫理を教えようとはしていますが、人間的に自らをより高める…といった導き方はしなくなりました。ありのままに生きるといった事が尊重され、自分らしさを大切にするようにと言われますが、いわゆる「修行」といった観念は排除されつつあります。もう一度、私たちはどう生きるべきなのか、生きる事の意義から問い直さなければならないし、それでも尚無力である事を認識し直さなければならないのかも知れません。

学び直し

2021年05月08日 | 講座案内
2桁同士の足し算や引き算、九九などの演習問題が並ぶ「数学Ⅰ」の教科書が、検定に合格し、来春から使われるということです。「数学Ⅰ」の教科書には4種類の難易度が異なるものがあるそうで、うち一番易しいものに盛り込まれていると言います。これは基礎学力がつかないまま高校に進学した生徒の為…ということで「学び直し」のニーズに応えたもののようです。170ページのうちの冒頭30ページが復習に充てられているとか。小中学校を休みがちだった生徒も含め、多様な学力層が在籍する通信制高校などでの採用が見込まれています。

「いつでもやり直せる社会にする」事が大切で、こうした学び直しをサポートする動きが広がっていると言います。教科書に載っているということで、正当な高校の学びとみなされ、生徒が学び直すことを恥ずかしく思わなくなることがポイントだと指摘する向きもあるようです。

小中学校は義務教育であり、自ら学ぶ意思を放棄する者であっても、何とかその器の中に居場所を作り、世の中を生きて行く最低限の基礎学力が備わる事を目指しています。ですから、その中でつまずいている者にはあらゆるサポートが差し伸べられて然るべきだと思います。

一方で高等学校は義務教育ではありません。学びたい意思のある者が、必要最低限の学力を備えて挑むべき場所です。そのために「高校入試」なるものが存在します。いつでもやり直せる社会であることは必要です。がそれは、必要最低限の学力を備えずに「高校に行きたい」と夢見る者の場では無いと思います。一念発起、高校で学ぼうと思うのであれば、学校の授業でフォローをしてもらうのでなく、自ら学ぶ意思を持って復習の場を求めて欲しい気がします。それに対して差し伸べられる手は、厚くあって欲しい。この論理で行けば、大学の授業で更に九九のひっ算から教え直す…といった事が起きそうです。でなければ、いっそ高校も義務教育にしてしまえば良いのかも。

価値

2021年05月07日 | 社会派らぼ
各都道府県それぞれに、コロナに対する自粛を呼びかけています。沖縄県でも同様で、県民への要請として県内全域に広く呼びかけていました。不要不急の外出や移動の自粛に始まり、歓迎会、模合(気の合う仲間で毎月集まって飲み会などを行い、資金を積み立てて旅行や事業に役立てる沖縄独特の文化だそうです)、ビーチパーティなど飲食に繋がるイベント等の自粛、会食は同居家族等と少人数かつ短時間で実施などを呼びかけていたようです。

にも関わらず、ゴールデンウィーク中に沖縄県知事が自身と妻の実家でバーベキューをしたとツイッターに投稿し、批判が集中しています。知事と言えども、1個人であり、長く自粛を強いられた生活が続く中、せっかくの連休ですから、息を抜きたいとも思われるでしょう。が、県知事という立場にあって、広く県民に呼びかけている事を逸脱するのは、やはり軽率だったと言わざるを得ません。奥様のご実家という事で、同居家族では無かったところが、やはりね。

ただ、このニュースにチョット思ってしまったのは、なぜ知事が自身のプライベートをツイッターに投稿したのかというあたり。そもそもバレなければ良い問題ではありませんが、わざわざ知らせる必要もありません。SNS時代とでも呼べそうな時代です。ブログに端を発したSNS文化は、フェイスブック、ツイッター、インスタグラムなどとたくさんのツールが登場し、更にはYouTube、TikTok、クラブハウス…。意図を持った社会的な発信もありますが、実に多くの人たちが、日々せっせと自分のプライバシーをばらまいています。その大元にある動機は一体何なのでしょうか。

自己表現…でしょうか。誰かに見せたい、伝えたい、繋がりたい、認められたい。セルフブランディング、誰かに自分の価値を伝えたい。自分すら愛せない人は、他人も愛する事はできないでしょうし、自己アピールも大切だとは思いますが、人の本当の価値というものは、自分が知らないところで誰かが評価しているものではないでしょうか。

県知事と言う立場におられる方のSNSには、その日常を見せる事で、親しみやすさや人間臭さを表現したい…といったところなのかも知れませんが、そろそろこの無駄な(失礼)自己アピール文化、卒業しても良いかも知れません。

中止

2021年05月06日 | 社会派らぼ
4月25日に、東京、大阪、京都、兵庫の4都府県に緊急事態宣言が発令されました。当初の予定では5月11日までという事でしたが、緊急明けを来週に控え、東京と大阪は延長を要請しており、政府は明日にでも延長を決定する方針のようです。日本中の各都道府県のコロナ状況はそれぞれ異なっているでしょうし、地元の意向に沿って宣言が発令されるのは理想かも知れません。が、国の意向が見えてきません。

安倍元首相の急な退陣により、急きょ首相に就いた菅氏は、どちらかと言えば裏方志向の政治家なのか、強力なリーダーシップを発揮しておられる…と言う風には見えて来ません。パフォーマンス下手なのかも知れません。が、首相という職には、「そう見える」と言う事も大きな要素では無いかと思います。パフォーマンスばかり派手なリーダーより、実務型の方の方が安心感はあるかも知れませんが、1年以上もコロナ禍が続く今の日本には、もう少しパキッと明日を示せるリーダーシップが必要な気がします。(と言って、知る限り、首相職に相応しい人材は思い当たりません。)

当ブログは政治の話をしようとは思っていませんので、そうした事でなく、国民が「そうだよね」と感じる何かが、必要なのではないかと思えてなりません。7月に予定されている東京オリンピックが、どんどん近づいて来ています。種々のささやきが、だんだん大きく聞こえるようになって来た気がします。

3月時点で海外観客の受入れは断念が決まっていますが、オリンピックとなれば、出場する選手だけでおよそ1万5千人、加えて役員やスタッフ、報道関係者などを合わせれば最大で9万人もの人が集まると言います。それだけの人たちの中から、コロナ感染者を出さない…という事は、不可能ではないでしょうか。個別にバラバラと感染者が確認されてすぐに隔離措置…といった図式を描き、いわゆる大規模クラスターが発生しなければそれで良いという考え方でしょうか。

国際世論は元より、国内世論も「オリンピック開催」に反対する声が広がりつつある感があります。いい加減、「オリンピックは中止」を決定しても良いのではないでしょうか。東京オリンピックを中止するのでなく、オリンピックそのものを中止する…という考え方です。開催国がどこであろうと、世界のコロナ情勢を見る限り開催は無理という判断があって良いのではありませんか。開催国の状況は勿論大切ですが、参加する世界中のアスリート達の状況がどうなのかを考える必要があります。もういい加減に、何が一番大切なのかをパキッと明確にしていただきたいと思います。

デジタル教科書

2021年05月04日 | 社会派らぼ
令和6年度、小中学校で使用する教科書にデジタル教科書が本格導入されると言います。紙の教科書全てがデジタルに置き換えられるのか、併用されるのか…、どのように導入されるのかは、今の時点では案に留められており、今後検討していくようです。導入の意義として、社会のデジタル化やオンライン化が進む中、ICTを自在に使いこなす能力は必須だとされています。

デジタル教科書と聞くと、メリットはいくつも考えられるかと思います。子ども達はあの重いランドセルを背負っていくことから解放されるのかもしれません。(ただし、前夜に時間割を済ませて、忘れ物をしないよう登校する…といった基本的習慣の育成には、一役買わなくなるということになります。)画面の拡大/縮小が自由自在であり読み上げ機能なども使えるでしょうから、障害を持つ子ども達にも朗報かも知れません。辞書やネット検索と連動させるなど、使い方には無限の可能性があるような気もします。

が、一方で紙教科書が廃止され、デジタルに置き換わってしまう事を想像すると、時代の流れとは言え、人が時代に合わせる必要は無いのではないかと思ってしまいます。時代こそが、人に合わせるべきなのであって、人が時代に合わせる必要は無い。だいたい、デジタルツールを自在に使いこなすという点で、若い世代は完全とは言えなくとも、充分な素地があるのではないでしょうか。高齢者がコロナ接種予約に戸惑う中、子ども達はいとも簡単に様々なウェブツールを使ってその世界を堪能しています。主にゲームやSNSがその入り口ではあるでしょうけれど、次世代がネットやオンラインに戸惑うとは考えにくいものがあります。電子技術の開発分野では、後塵を拝する部分があるやも知れませんので、そこは又別の入り口が必要でしょうか。(小学校で導入されるというプログラミング授業に、その力があるようには思えませんから。)

紙の本の読書と、スクリーンに表示された文字を読むことの違いについては、さまざまな研究がなされて来たと思います。当初、紙に比べて画面上の読みは、遅くて正確ではないと結論づけられたこともあるようですが、読解や理解度に大きな違いは見られないとする方向に落ち着いているようです。けれど、ある種の調査によれば、大学生の92%が紙の本を好むという結果があったり、16歳~24歳の若い世代でも3人に2人は紙の本を好むというレポートもあるようで、紙の本の人気には根強いものがあります。

紙媒体の本には「テキストを風景としてナビゲートする」ことができるという指摘があります。ページを開いた時の文字そのものの存在だけでなく、開いた本のどの個所にどのように文字が配置されているかを、五感が感じているのだと理解すべき言葉でしょうか。ペーパーレスの世界の文字たちは没個性で、ただ単にデータの羅列に過ぎませんが、紙上の文字たちは見開きの読みにくい箇所にあったり、ページとページの境目にあって読みにくかったり、本の端の方であったり…と、それぞれの境遇をフルに使って人に語りかけていると考えてみてはどうでしょうか。

デジタル教科書には、有用な使い道がたくさんあると思います。…が、日本人お得意の「公平に」「平等に」皆が足並みをそろえてデジタル教科書に切り替える事には、基本反対です。