goo

No387『不知火海』~土本監督追悼企画報告その2

午後からは『不知火海』(1975年)の上映と
土本監督の奥さんと撮影監督、大津幸四郎さんとのトーク。
大津さんいわく、
そもそも、水俣シリーズでは
水俣の患者さんたちがどう生きていくのかが
一番の目的。
それを一人一人に当たっていく。
映画自体は闘争ではないし、
裁判のシーンも、いわば「グリコのおまけ」のようなもの。

水俣病も、認定を受けた患者さんもいれば
受けていない患者さんもいる。
でも、水銀の入った魚を食べれば、皆、水俣病患者。
そういう意識から、
認定患者は少ないけれど、
水俣病にかかっている人のいる
水俣の対岸部の御所浦島等に取材を行い、
『不知火海』の作品となったそうです。

奥さんは、
監督が残した貴重な仕事として、
アフガニスタンのカーブル博物館にあった仏像を
撮影した記録映画を紹介。
(『在りし日のカーブル博物館1988年』、2003年)
1988年に撮影した後、仏像はタリバンによって
破壊されてしまったため、
監督は、作品に仕上げてユネスコにフィルムを寄付。
アフガニスタンの子供達をはじめ、
世界の人たちにみてもらえるはず。

監督は、
アフガニスタンの4月革命で
銃口に花をさして行進したというのを知って以来、
アフガニスタンが大好きだったそうで、
『よみがえれカレーズ』ほか、
何本か作品もつくっておられます。

司会の景山さんから、
土本監督はどんな人だったのか、と最後に聞かれ、
大津さんいわく、優しい人。
撮影の対象となる人々に惚れ込んでいた。
水俣では、海と共存していく人たちの優しさ、
漁業としてではなく、漁師としてみていたとコメント。

奥さんからは、
土本監督は、昭和3年に生まれ
天皇が神さまだと教えられて育ったのに
終戦で、全てがひっくりかえった。
だから、それからは、何でも自分で考えていこうとしていた人で
映画づくりでもそうだったとのこと。

『不知火海』では、
いかの皮をむき墨を出し、下ごしらえする漁師の老夫婦の姿や
汚染されている可能性もある魚料理を食べながら
魚なしでは生きていけないと言う漁師たちの姿が描かれている。
胎児性水俣病患者の子供達の懸命な姿と声が、
いつまでも脳裏から離れない傑作でした。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« No386「ある機... No388「海とお... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。