映画の感想をざっくばらんに、パラパラ読めるよう綴っています。最近は映画だけでなく音楽などなど、心に印象に残ったことも。
パラパラ映画手帖
No478『脳内ニューヨーク』~迷路の中をさまよい…~
2009-12-02 / 映画
1回目。中盤眠くなり、
終盤、主人公の劇作家ケイデンの役を
別の役者が舞台で演じることになるあたりから、おもしろくなった。
ケイデン自身も他者(掃除婦不エレン)を演じることになり、
イヤホンで演出者の声を聞きながら、
それにしたがって行動していくあたりの荘厳さ。
荒廃したNYの街の光景と、セリフの響きにひきこまれた。
自分って何だろう?
2回目。迷宮の徹底ぶりに驚いた。
これは、読解の映画かもしれない。
まず、時間経過を明確にしていないし、
人間関係も、かなり説明を省いている。
新聞やカレンダーの日付に注意していると、
同じシーンだと思っていたら、新聞の日付は数ヶ月も先になっていたり、
歯医者に治療してもらうシーンも、
歯垢の深さの数値変化と、歯茎の悪化の映像を重ねることで、
実は、歯周病がどんどん悪化し、
数ヶ月もの時の経過を表しているような気がした。
そもそも、主人公の時間感覚も狂っていて
4歳の娘があっという間に11歳になっており、
舞台を始めてから、17年が経過していたりする。
冒頭の時計が7時44分、45分となり
ラストにもう一度、この時の経過がイヤホンで語られる。
そして、最初のラジオ。
「始まりは終わり」というアナウンサーの言葉。
すべては7時45分に息絶えたある一人の人間の
頭の中の想像の世界??。
ケイデンと唯一、互いに理解しあっているヘイデンという女性の家では
いつも何かが燃えていて、
ひょっとしたら、ヘイデンは死者なのかもと思ったり。
いろいろ解釈できるお話。
そこは読解のおもしろさとして、おいておくとして、
この映画の魅力は、生と死の描き方と、
ケイデンを演じるフィリップ・シーモア・ホフマンの演技。
人間誰もが、いずれ死ぬもの、というペシミズム。
だからこそ、何か劇を書きたい、というケイデン。
しかし、なかなか書き上げることもできず、
ちっぽけな自分、ちっぽけな自分の人生に絶望する。
でも、人間、今という瞬間は生き続けようとしていても
根本的には死んでいく存在。
緑の便も、血尿も、病気の印というのは、
死を気付かせるサイン。
死を見つめる目から、自分自身の人生をみつめたら、
一体、何を思うだろう。
あるいは、
それぞれが人生の主役でもある、というポジティブさと希望。
1回きりの人生。
自分自身のほかに、もう一人の人物が自分の中に同居しており、
自分自身についても、何が一体自分自身なのか、
迷路の中にはまっていく。
終盤のその迷い具合がよいし、
フィリップ・シーモアの肉体は、迷宮の迷い手としてぴったり。
自分は自分であり、自分は他者であり、
他者は自分であり、皆、同じ水の中に浸っている。
ひょっとしたら、ケイデンの最もよき理解者、愛するヘイゼルさえも、
実は、ケイデン自身の空想上の人物かもしれない。
今、やっていることが、
夢の中でも体験していたかのような
デジャヴの感覚に襲われることが時折ある。
この作品を観て、少しそんな不思議な感覚を思い起こした。
長くなったが、ケイデンの苦悩、疲労ぶりが
しっかりと伝わるからこそ、
ケイデンの苦しみに、しっかりと観客も寄り添っていける気がして
やはり、フィリップ・シーモアあっての映画だし、
心やさしき女性たちもよかった。
終盤、主人公の劇作家ケイデンの役を
別の役者が舞台で演じることになるあたりから、おもしろくなった。
ケイデン自身も他者(掃除婦不エレン)を演じることになり、
イヤホンで演出者の声を聞きながら、
それにしたがって行動していくあたりの荘厳さ。
荒廃したNYの街の光景と、セリフの響きにひきこまれた。
自分って何だろう?
2回目。迷宮の徹底ぶりに驚いた。
これは、読解の映画かもしれない。
まず、時間経過を明確にしていないし、
人間関係も、かなり説明を省いている。
新聞やカレンダーの日付に注意していると、
同じシーンだと思っていたら、新聞の日付は数ヶ月も先になっていたり、
歯医者に治療してもらうシーンも、
歯垢の深さの数値変化と、歯茎の悪化の映像を重ねることで、
実は、歯周病がどんどん悪化し、
数ヶ月もの時の経過を表しているような気がした。
そもそも、主人公の時間感覚も狂っていて
4歳の娘があっという間に11歳になっており、
舞台を始めてから、17年が経過していたりする。
冒頭の時計が7時44分、45分となり
ラストにもう一度、この時の経過がイヤホンで語られる。
そして、最初のラジオ。
「始まりは終わり」というアナウンサーの言葉。
すべては7時45分に息絶えたある一人の人間の
頭の中の想像の世界??。
ケイデンと唯一、互いに理解しあっているヘイデンという女性の家では
いつも何かが燃えていて、
ひょっとしたら、ヘイデンは死者なのかもと思ったり。
いろいろ解釈できるお話。
そこは読解のおもしろさとして、おいておくとして、
この映画の魅力は、生と死の描き方と、
ケイデンを演じるフィリップ・シーモア・ホフマンの演技。
人間誰もが、いずれ死ぬもの、というペシミズム。
だからこそ、何か劇を書きたい、というケイデン。
しかし、なかなか書き上げることもできず、
ちっぽけな自分、ちっぽけな自分の人生に絶望する。
でも、人間、今という瞬間は生き続けようとしていても
根本的には死んでいく存在。
緑の便も、血尿も、病気の印というのは、
死を気付かせるサイン。
死を見つめる目から、自分自身の人生をみつめたら、
一体、何を思うだろう。
あるいは、
それぞれが人生の主役でもある、というポジティブさと希望。
1回きりの人生。
自分自身のほかに、もう一人の人物が自分の中に同居しており、
自分自身についても、何が一体自分自身なのか、
迷路の中にはまっていく。
終盤のその迷い具合がよいし、
フィリップ・シーモアの肉体は、迷宮の迷い手としてぴったり。
自分は自分であり、自分は他者であり、
他者は自分であり、皆、同じ水の中に浸っている。
ひょっとしたら、ケイデンの最もよき理解者、愛するヘイゼルさえも、
実は、ケイデン自身の空想上の人物かもしれない。
今、やっていることが、
夢の中でも体験していたかのような
デジャヴの感覚に襲われることが時折ある。
この作品を観て、少しそんな不思議な感覚を思い起こした。
長くなったが、ケイデンの苦悩、疲労ぶりが
しっかりと伝わるからこそ、
ケイデンの苦しみに、しっかりと観客も寄り添っていける気がして
やはり、フィリップ・シーモアあっての映画だし、
心やさしき女性たちもよかった。
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