噛みつき評論 ブログ版

マスメディア批評を中心にしたページです。  姉妹ページ 『噛みつき評論』 もどうぞ(左下のBOOKMARKから)。

地獄への道は善意で敷き詰められている

2018-12-23 22:53:25 | マスメディア
 1891年に起きた大津事件は日本を訪れていたロシアのニコライ皇太子が、大津で警備にあたっていた津田三蔵巡査に突然斬りつけられ負傷した事件である。強国ロシアの圧力やロシアに配慮する政府内の死刑論に対し、大審院は一般人に対する謀殺未遂罪を適用して津田巡査に無期徒刑(無期懲役)の判決を下した。後年、司法の独立を守ったとして高く評価される事例である。

 事件後の反応について、Wikipediaには「小国であった日本が大国ロシアの皇太子を負傷させたとして、「事件の報復にロシアが日本に攻めてくる」、と日本国中に大激震が走り、さながら「恐露病」の様相を呈した。学校は謹慎の意を表して休校となり、神社や寺院や教会では、皇太子平癒の祈祷が行われた。ニコライの元に届けられた見舞い電報は1万通を超え、山形県最上郡金山村(現金山町)では「津田」姓および「三蔵」の命名を禁じる条例を決議した。5月20日には、天皇の謝罪もむなしく皇太子が日本を立ち去ったことを知り、死を以って詫びるとし京都府庁の前で剃刀で喉を突いて自殺し、後に「房州の烈女」と呼ばれた畠山勇子のような女性も出現した」とある。

 世界には決して謝罪しない国もあるようだが、日本は謝罪のために命を投げ出す人まで現れるお国柄のようだ。それはともかく、この事件では司法の独立が実現され、ロシアとの関係にも致命的な結果をもたらすことはなかった。しかしそれは諸々の事情によりたまたまそういう結果が得られたということであり、最悪の場合、武力による報復や戦争の危険まであった。

 この事件では国益か司法の独立かの選択を迫られたわけである。もし司法の独立を優先させた結果、戦争になり、多数の犠牲者が出たとしてもなお司法の独立を称賛できるであろうか。司法の独立よりもっと大切なことがある。またうがった見方をすれば、司法の側は理念のためだけでなく、自分たちの権力の強化をも狙ったのかもしれない。

 三権の独立は重要な原則であることに違いない。けれどそれは絶対ではない。司法の独立を守ったために戦争なんかになればたまったものではない。主客転倒である。原則や理念はその程度の扱いでよい。社会は複雑であり、単純な原則や理念を無条件で適用できるものではない。より具体的に規定する法も不完全である以上、厳格に適用すればいいというものではない。

 ゴーン氏は逮捕されたが、その逮捕・拘留が適切かどうかで議論が分かれている。報道によると、事件の主な原因は日産内部の私的な権力争いにあるようだ。反ゴーン側がひそかに数か月かけて資料を集め、検察にチクったようである。ゴーン氏は突然、部下に背中を刺されたというわけである。西川氏は明智光秀である。決してフェアなやり方ではない。日産車の販売が大きく落ち込んでいるそうだが、こうした手法に対する反発があるのかもしれない。私企業の内紛に利用された検察もどうかと思う。反ゴーン側の汚い手口に加担する検察も決していい印象は持たれまい。もし無罪ともなれば見るも無残な結果になるだろう。

 最近導入された司法取引であるが、これは「仲間を売る」という行為が前提となる。司法取引は「裏切り」を奨励する制度なのだ。日本が長い間、司法取引の導入に消極的であったのはそれが日本の風土に馴染まないと考えられてきたのではないか。つまり司法取引はモラルに反する部分があるため、それが正当化されるためには余程の社会的な利益が必要となる。少なくとも私企業の権力争いにはなじまない。

 一方、拘留を次々と延長するという強引な手法は日本の司法の後進性を世界に宣伝してしまった。海外では日本を中国のようだとする論調もある。これが国益にプラスであるわけはない。逮捕を決めたのはおそらく法を厳格に解釈するまじめな人たちなのだと思う。国際問題に発展しようが、日本の評価が下がろうが意に介せず、我々は外部からの圧力に屈しない、と胸を張るのだろう。そこには悪を許さないという「信念」や「善意」があるのかもしれない。

 また、広島高裁は伊方原発から約130キロ離れた阿蘇山の危険について「約9万年前の過去最大の噴火規模を想定した場合、火砕流が伊方原発敷地に到達する可能性が小さいとはいえず、立地は認められない」として運転を差し止める決定をした。9万年前の例を出すなど、裁判官として見識のなさ、無知を天下に曝け出したと思うが、火砕流が130キロも届くのであれば九州の大半、四国の一部は全滅、原発どころの騒ぎではなくなる。こんな非常識な人物に大きな影響を与える決定をさせる仕組みに驚く。これは司法全体の信頼性にも傷をつける。しかしこの判決も原発事故を憂慮する「善意」ゆえのものであったのだろう。

 法を厳格に運用するのは大事なことだが、視野の狭いクソまじめな人々がやれば弊害を生じることもある。まさに「地獄への道は善意で敷き詰められている*」である。狭い視野での正義や信念、善意が禍をもたらすことは少なくない。つまり余計なお節介なのである。

(* 欧州のことわざ)