日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

銀行の審査はアナログであるべき

2012-09-12 | ビジネス
銀行の現場力が落ちているのではないか、という記事を日経新聞の連載「金融ニツポン」で読みました。オリンパスの粉飾を見抜けなかったことやら、エルピーダメモリの会社更生法適用申請に気付かなかったことやらを、銀行現場力低下の“落ち度”の実例として挙げられているのですが、まぁ確信犯相手のそのあたりは多少同情の余地はありそうかなと。しかしながら、その後のくだりに登場する「決算書を読めない銀行員が増えている」という話には、もしそれが本当なら大変なことだと、他人事ながら元この業界にいた人間としてただならぬ危機感を感じた次第です。

記事によれば若い担当者世代は、「コンピュータに財務データを打ち込み基準を満たせば機械的に貸し出す仕組みに慣れ、『ゲーム感覚で目標の達成だけを競っている』」と。私が銀行にいた時代にも、決算書データを登録すると自動で財務分析をしてくれるシステムは存在しましたが、この話はひどすぎると思わされます。これではもはや銀行ではないなとさえ。銀行の審査たるもの、数字はあくまでひとつの目安であって数字に現れない部分をいかに評価するのか、それこそが産業発展の血液たる金融の大切な役割であるべきであり、それが数字オンリーの“イエス・ノー・ゲーム”になってしまうのなら、サラ金の“無人クン”となんら変わらないわけですから。

そもそも「決算書が読める」とはどういうことか。単に財務分析ができるということをもって「決算書が読める」とは言わないのです。バンカーが乞われて企業トップに座ることが多いのも、財務分析が得意だからではないのです。バンカーに必要なことは、決算書に込められた経営者の思いや数字の陰にあるマネジメントをしっかりと読み取ることであって、私らの時代は数字的な材料だけで判断しようものなら、「バカヤロー、決算書の数字だけで審査ができるんなら、お前さんに高い給料払う必要ねーだろ!(全然高い給料をもらっていたわけじゃないですが)」なんて上司にドヤされたものです。私が若い頃、決算書は「行間を読む」部分が大切であることを教わったのも上司たる課長から。そんな指導があってはじめて、経験を積む中でお客様との至ってアナログなやりとりから様々な“行間”の存在を実感することができ、多くの貴重な経験もさせてもらえたわけなのです。

銀行を巡るこの問題、決算書が読めないと言われる若い世代と、それを指導する立場の上司世代それぞれに、その責任があるのではないかと考えます。まず担当者である若い世代は、いわゆる「ゆとり世代」。彼らの特徴としてよく言われているのは、「楽して成果を上げたい」とか「年長者とのコミュニケーションを軽視する」とか「深く考える習慣がない」とか。この特徴からすれば、経営者とのコミュニケーションを駆使して決算書の行間を読むなどおよそ不適であり、コンピュータの結果をそのままを結論付けたがる姿が見て取れます。一方、若手行員たちの直属の上司たる課長世代は30代半ばが中心。ウインドウズ95によってパソコンの普及率が爆発的に上昇した時代に多感な高校~大学時代を送った「初代IT世代」と言える年代であり、彼らもまたアナログ的要素の積極排除はお得意芸のように思えます。部下が「ゆとり世代」で上司が「IT世代」、コンピュータが弾きだした機械的な結論がそのまま通ってしまうのも、悲しいかなうなずける状況なのかもしれません。

銀行だけでなく他の産業でも、似たような現象はそこここで見られているようで、クライアント先でもIT世代・ゆとり世代のアナログ感覚に欠けた形式主義的扱いにくさはよく耳にするところでもあります。しかし他産業はともかく、銀行という資金供給を司ることで産業の血液役を担う仕事において、アナログ感に欠く機械的な判断に傾倒したやり方では、いささか困るのではないかと思うわけです。長期にわたり不景気が続く今のような時代は、ただでさえ一見不確実に思えるアナログな判断材料は目をつぶってやりすごされ、機械的な判断が優先されがちであります。こんな時代であるからこそ、数字には表れない“決算書の行間”にあるアナログな判断材料をもって企業を育てる意識が、“産業の血液役”には求められると思うのです。

今銀行の経営層に鎮座するのは、昭和に育ったアナログどっぷりの我々世代です。彼らが“偉く”なりすぎることなく、実態を見て若い世代をいかに指導し正しいバンカー道へ導いていけるのか。日本経済浮上のカギは、我々世代のアナログ・バンカーたちの肩にかかっているのかもしれません。