日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

オリンパス事件調査報告とサラリーマンの「勇気」今昔模様

2011-12-07 | 経営
オリンパスの巨額損失隠し事件で、第三者委員会が調査報告書を発表しました。
◆ロイターによる報告骨子
http://jp.reuters.com/article/businessNews/idJPTJE7B500C20111206

問題の焦点は、当然“飛ばし”のスキームではなく管理の実態。98年当時に飛ばしを主導した幹部をその後重用し、トップとごく一部の経営幹部で問題をひたすら隠蔽し続けてきたといいます。その“飛ばし”主導の幹部は事件発覚時に一人が副支社長、もう一人が常勤監査役であった訳で、トップ了解の下この二人が隠ぺい役を務めてきたという、まさしくガバナンス不全の管理体制を絵に描いたような状況であったのです。

報告書はこの隠ぺいを堅持できた管理実態を称して「悪い意味でのサラリーマン根性の集大成」と表現し、「トップがワンマン体制を敷き、異論を唱えるのがはばかられる雰囲気が醸成されていた」と、その原因に言及しています。大王製紙のトップによる特別背任事件も構図は全く同じですが、この種の企業事件の根底には「悪事を悪事として進言できない、日本のサラリーマン体質」が根深く横たわっているように思います。

オーナー会社は言うに及ばずサラリーマントップの企業においても、代表取締役が前任の指名を受け形式互選で“選出”され、取締役は基本的にトップの指名。監査役までもが実質同じ方式で選任され、取締役の延長のような位置付けて末席に名を連ねる・・・。古くから日本企業はこのような体制で企業運営をしてきました。もちろん、バブル崩壊後グローバルスタンダードの旗印の下、大企業に対する数々の新たな約束事の縛りが施され、コンプライアンス、ガバナンス等の考え方が表面上は浸透したかのように見えていたのですが、実態は大きくは変わっていなかった、この事件からはそんな印象を強く持たされます。

言ってみれば、形式がいくら整っていても「トップや前任が登用を指名する方式では、指名された者はその指名者に恩義を感じて逆らえない」「逆らえば自分のクビが危ない」という、江戸時代で言うなら「謀反」にあたるものは道を外れるかのような理解があり、「企業の正義」よりも「個人的な恩義」を優先してしまう日本的モノの考え方があるのではないかと思います(実際に、「恩義」で判断しなかった英国人ウッドフォード前社長はクビになりました)。このような文化は多かれ少なかれどの日本企業にも未だに存在するでしょう。もちろん、この日本的文化は良い面もあり全否定するつもりはありませんが、上司だけでなく株主や市場からの信頼をも考えバランスのとれた正しい判断こそが、企業経営者はじめ経営を担う人たちには求められていると思います。

ちょうどオリンパス事件の発端となった後の「常勤監査役-副社長ライン」による財テク運用の始まりが、プラザ合意後の80年代後半といいます。この時期に流行したCMソングに「リゲイン~勇気のしるし」というのがありました。「♪24時間戦えますか?ビジネスマ~ン、ビジネスマ~ン、ジャパニーズ・ビジネスマ~ン!」という、組織に絶対服従の「戦う企業戦士」を歌ったものです。このCMシリーズでは時任三郎演じるサラリーマンが、「会社=上司のために24時間戦う“勇気”」をあるべき企業戦士の姿としてカッコ良く描かれていましたが、20余年の時を経てサラリーマンは別の「勇気」を持つべき時代が来たのでしょう。

調査報告書にある「悪い意味でのサラリーマン根性」とはまさに古い意味での「勇気」であり、これを捨てて今の時代の「勇気」を持つべきであると報告書は社会に訴えているように思えます。大企業を中心とした多くの企業とそこで働く企業戦士たちにとって、オリンパスの事件は自社や自己に無縁な“彼岸の火事”ではなく、自社や自己の「勇気」を省みる“他山の石”なのだと思います。