静聴雨読

歴史文化を読み解く

渡辺茂夫と渡辺季彦(1-5)薔薇の記憶

2013-03-16 07:52:32 | 音楽の慰め


(1) テレビ・ドキュメンタリーを探して

ここ数年、あるテレビ・ドキュメンタリーを探していた。
一人の天才ヴァイオリニストを記録したもので、戦後まもなく国内で「神童」のように活躍し、周りの期待を担ってアメリカに留学し、師匠との軋轢や失恋が原因で自殺を企て、脳に障害を残して失意の帰国をし、以後パトロンの介護を受けながら生活する彼を見つめたドキュメンタリーは、私の琴線を揺さぶるものを持っていた。

彼とは誰か? ところが、彼の名前が私の記憶から欠落してしまっているのだ。
今から10年か15年前、年代でいえば、1990年から95年の間に、確か週末、土曜日か日曜日の午前に、NHKで放映されたはずである。
なんとしても彼の名前を知りたい。できたら、このテレビ・ドキュメンタリーをもう一度見てみたい。こう願っていた。

一通りの探索は試みた。まず、インターネットで、「ヴァイオリニスト 留学 自殺」をキーにして検索したが、ヒットしなかった。
東京・愛宕山にあるNHK放送博物館の図書室で、過去のNHKの番組を調べてみたこともある。少し幅広に、1985年から2000年までチェックしたが、それらしい番組は見当たらなかった。
また、埼玉・川口にあるNHKアーカイブスを訪れて、過去の番組を調べようとしたが、係員のありきたりの応対に、「これはダメだ」とあきらめて早々に退散した。

私の探索は頓挫した。

ところが、2005年秋、偶然にも、私の願いが叶うことになる。 

(2) 放送ライブラリーにて

2005年11月、横浜・中華街から関内・伊勢佐木町に向かう途中で、「放送ライブラリー」という看板のあるビルに出くわした。初めて見る建物だ。「ひょっとしたら」という念が頭をよぎった。一人の天才ヴァイオリニストを記録したテレビ・ドキュメンタリーを探していた私は、ライブラリーの学芸員に私の探し物を伝えて、調査を依頼した。「ダメでもともと」に近い気分だった。15分ほど経った時、学芸員が一枚の紙切れを持って戻って来た。・・・「映像90 よみがえる調べ 天才バイオリニスト渡辺茂夫 1996.10.13 毎日放送」

学芸員:「お話を伺い、検索してみたところ、候補の一つとして、この番組がヒットしました。こちらで視聴することができます。」
渡辺茂夫という名に心当たりはないものの、この番組が私の探していたものに違いない、と思った。私は学芸員に丁重にお礼を述べ、番組の視聴を申し込んだ。

放送ライブラリーは「財団法人 放送番組センター」が運営する施設で、NHK、民間放送、横浜市が資金を拠出し、加えて宝くじなどからの賛助金により成り立っているらしい。初めて知った施設であるが、ずいぶん有益な事業を営んでいるものだ、と感心した。放送された番組・コマーシャルから収集・保存する価値のあるものを選び出し、編集を施した上で、希望者に公開しているという。パンフレットで場所を確認すると、みなとみらい線の日本大通り駅の前だ。 (2006/4)
 
(3)「よみがえる調べ 天才バイオリニスト渡辺茂夫」

毎日放送が1996年に放映した54分のテレビ・ドキュメンタリーを再び見た感動は筆舌に尽くしがたい。その感動はしばらく措いて、まず、以下に、番組から分かった事実を並べてみる:

a.渡辺茂夫は伯父・季彦夫妻の養子である。
b.昭和23年、7歳でリサイタルを開く。
c.ヤッシャ・ハイフェッツに紹介される。
d.ハイフェッツから、ジュリアード音楽院のイヴァン・ガラミアン教授に就いて勉強するように勧められる。
e.自宅は東京・白金。

f.昭和30年(14歳か?)、渡米。初めは、カリフォルニア州サンタ・バーバラにあるミュージック・アカデミー・オブ・ウェストで2ヶ月過ごす。
g.その後、ニューヨークに移り、ジュリアード音楽院に学ぶ。
h.そこで、師事したガラミアン教授と衝突したらしい。
茂夫は、ハイフェッツ流のアウアー奏法(目方のかけ方が「深い」ボウイング法)を信奉しているのに対して、ガラミアン教授は目方のかけ方が「浅い」奏法を強烈に教え込もうとしたようだ。
i.次第に、日本嫌い・孤独が募ってくる。
j.昭和32年、転地療養に向かい、精神科にかかる。カウンセラーの所見は、「権威に対する態度が頑なで、自己制御が効かない」
k.昭和32年9月、ニューヨークに戻る。
l.昭和32年11月、自殺を図るが、未遂に終わる。

m.昭和33年(1958年)、帰国。
n.以後、モノレールの走る郊外の養父宅で、養父の介護を受ける。養父宅には、見事な薔薇が咲き誇っている。現在、養父は80歳代、茂夫55歳。 

(4)天才ヴァイオリニストと養父

毎日放送が1996年に放映した54分のテレビ・ドキュメンタリー「よみがえる調べ 天才バイオリニスト渡辺茂夫」から受けた感動を分析してみたい。

このドキュメンタリーでは、渡辺茂夫と養父・渡辺季彦との関係が様々に描写されている。
季彦もヴァイオリニストであったが、習い始めたのが遅くて大成しなかった。その経験から、茂夫には幼い時から英才教育を施す。茂夫は期待に応えて「神童」と呼ばれるほどに成長する。まるで、モーツァルト父子の20世紀版である。

アメリカ留学もおそらく季彦のプランを実現させたものだろう。しかし、茂夫の自我は季彦の手の上に収まらないほど大きかった。ヴァイオリン奏法についてはもはや誰の指導も必要と感じていない。音楽以外にもしたいことが多々ある。おっと、これはモーツアルトからの連想だが。季彦の期待との間に徐々にズレが拡がっていった。

自殺を図り未遂に終わるものの、脳に重い障害を残して帰国した茂夫を受け入れた季彦は、それまでの茂夫への過度の期待を悔いつつ、茂夫の介護に自らの余生を捧げる決心をしたのであろう。茂夫17歳、季彦40歳代、新しい二人三脚の始まりだ。

以後、この番組の放映時の1996年(茂夫55歳、季彦80歳代)までの38年は気の遠くなるほどの長い時だ。舞台はモノレールの走る郊外の町の季彦宅だ。
すでに老年の季彦が、老けが目立つもののまだ壮年の茂夫を後ろ抱きにして階段を下りるシーン。茂夫の歯磨きを介助する季彦。奇妙な共生が印象深い。季彦は老人らしい穏やかな表情で、黙々と作業を続ける。一方の茂夫も穏やかな表情で介護を受ける。何年もかかって築いた一種の「調和」なのだろう。

季彦が飾り棚からヴァイオリンを何棹か取り出す。茂夫のヴァイオリンを取り出した時だけ、茂夫がニコニコと笑みを返す。茂夫の数少ない反応だ。
季彦宅に咲く見事な薔薇のアーチが番組を締めくくっている。薔薇は何を意味しているのだろう?

このドキュメンタリーは茂夫だけでなく、茂夫と季彦との関係に照明をあてたために、奥行きのある仕上がりになったといえる。 
   

(5)薔薇の記憶

毎日放送が1996年に放映したドキュメンタリー「よみがえる調べ 天才バイオリニスト渡辺茂夫」を2005年に再度視聴したところ、記憶に合致する部分と記憶とは異なる部分があることが分かった。ここで、記憶の確かさと記憶のあいまいさについて検証してみよう。

(a)まず、記憶に完全に合致する部分を記すと、それは渡辺家の表を飾る薔薇のアーチである。
これは、素人のたしなみを超えた立派な造りで、その印象も含めて正確に記憶に残っていた。この薔薇によって、このテレビ・ドキュメンタリーが鮮明に脳裏に残った、といって過言ではない。

(b)次に、このドキュメンタリーはNHKが放映したものだと記憶していたが、実際は毎日放送(首都圏ではTBS)が放映していた。ドキュメンタリーではNHKの実績が抜群なので、ドキュメンタリー=NHKの先入観念が出来上がっていたのかもしれない。この記憶違いは私だけのものではなく、このブログの読者にも同じ取り違えがあることから、よく起こる現象だといえるかもしれない。

(c)次は、茂夫の自宅について。私の記憶では、東京・白金であった。実際は、留学前の自宅は白金だったが、現在(放映時の1996年)はモノレールの走る郊外の街なのだ。ところが、モノレールの映像の記憶が全く欠落して、現在でも自宅が白金だと誤解していた。

(d)次は、養父・渡辺季彦について。私の記憶では、季彦は保護者(パトロン)であって、養父であるとは記憶していなかった。これは記憶違いというよりも記憶の抽象化作用が記憶過程で起こったのだと思う。

(e)次は、茂夫の自殺の原因について。私の記憶では、自殺の原因の一つが彼の失恋にあった、というものだが、実際には、このドキュメンタリーでは彼の失恋については全く触れていないことがわかった。どこでこの失恋話が紛れ込んだのか? おそらく、放映以降に別のソースからの情報を取り込んで記憶したものだろう。そういえば、茂夫のCDが出ていることや、茂夫が亡くなったことも、私の記憶に刷り込まれていた。ドキュメンタリーで得た情報とその後別のソースで得た情報を合成して私の記憶が形成されていったに違いない。

(f)それにしても、これほど関心を抱き続けてきた渡辺茂夫の名を忘れたのはどうしてだろう?
依然として謎のままだ。

薔薇はそれ自体豪華であるが、それを丹精に育てる人をも映す鏡のようである。近くにも、門に薔薇を植えているお宅がある。薄いピンクの花が今6月満開で、道行く人にも優しさを振りまいている。 (2006/3-6)