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静聴雨読

歴史文化を読み解く

左手で輪をつくった・4

2010-03-04 08:37:39 | Weblog
兄の生活は極めてシンプルだった。文明の利器に頼らない。

薄型テレビは持たない、ケイタイは持たない、PCも持たない、インターネットもやらない。
電気クリーナーも使わない。代わりに、どこでも水拭きする。

テーブル・クロスが嫌い、じゅうたんやフロア・マットが嫌い、スリッパを履かない。

ある時、介護のため訪れていた母の自宅のフロア・マットを取り外してしまったことがある。「母の自宅では母の流儀を尊重すべきだ。」と兄を諌めたことがある。

クレジット・カードを作らない。銀行のキャッシュ・カードを作らない。さすがに、「たんす預金」ではなかったようだけれど。



若いころの兄は、酒を飲む、煙草を吸う、ゴルフに興じる、囲碁を打つ、マージャンを打つ、競馬をやる、パチンコをやる、というサラリーマンの誰もが手に染めることに手を染めていた。私は、競馬とパチンコを兄から手ほどきを受けた。

歳をとるに従って、ゴルフを止め、パチンコをやめ、という風に、生活をシンプルにしていった。最近では、競馬も止めていたかもしれない。 (2010/3)

左手で輪をつくった・3

2010-03-02 06:14:00 | Weblog
兄は、病院における検査や手術を信用していなかった。検査や手術は医師のモルモットになるだけだ、という信念からだった。20歳代に胃かいようで入院した際も、薬だけで治したという。

人間ドックは受けていたようだが、がんの兆候を見つけられなかったのが不運だった。「検査嫌い」・「手術嫌い」ががんの発見を遅らせたとしても、それをもって兄の信念を責めることはできない。 (2010/3)

左手で輪をつくった・2

2010-02-28 08:43:01 | Weblog
2月1日。

兄は、再び、腹水を抜いてもらうために、入院した。奥さんから電話があり、「医師から、『会わせておきたい人にはできるだけ早く会ってもらいなさい。』とアドバイスされた」、とのこと。

2月2日。

もう一人の兄と連れ立って、午後3時半、病院へ。
兄はベッドの上に起きて、迎える。顔が細くなり、亡くなった父の相貌に瓜二つなのに驚いた。

それから、これまでの経緯を話し始めた。その話しぶりはしっかりしていた。
その後、もう一人の兄に向かって、「お前は大丈夫か?」と聞く。
「前立腺を患ったが、検査の結果、(がんは)陰性だった。でも、2週間入院して、前立腺を削る手術をしたよ。今は、何ともない。」
「それは、よかった。」

私に向かっても、「お前は大丈夫か?」と聞く。
「高血圧と高脂血症の生活習慣病で薬を飲んでいるが、それ以外は何ともないよ。」
「それは、よかった。」

「ところで、母はその後どうしている?」
昨年9月まで、交代で母を見舞っていたのだが、その後の様子を気にしていたのだ。
「きょう、母を見舞ったが、とても元気だった。食欲も十分にあったよ。」
「それは、よかった。」

その後、「息子の先行きだけが心配で、それがなければ、俺は、いつ死んでもいいと思っている。」と兄はいう。それを聞いて、はっとした。これほど、死の覚悟ができているとは。

1時間ほどの面会時間の前半は起き上がった状態で、後半は臥せった状態で会話したが、思った以上にことばがしっかりとしていた。
午後4時半、退出。

2月6日。

確定申告のことが気になって、午後2時、病院へ。
「確定申告を手伝おうか?」
兄はうなずいて、「一昨年の・・・」という。つまり、「一昨年の控えを見れば大体わかるから。」ということをいったのだろう。
「xx万からxx万は戻るはずだ。」

「一昨年」を「おととし」ではなく「いっさくねん」といったのには驚いた。依然、ことばが丁寧だ。
時々、からだを起こすが、2月2日に比べると、衰弱の度合いが甚だしい。
午後6時、退出。

2月9日。

午前10時半、奥さんが医師に呼ばれ、「危ない」といわれる。
午前11時半、病院。
時々、起きたがる。
私を認めて、「悪いねえ。」という。二時間後には「ありがとう。」という。これが、兄から聞いた最後のことばになった。
午後6時、退出。

2月10日。

午前11時半、病院。酸素吸入器を装着。のどがぜいぜいと鳴る。10秒ほど無呼吸状態を続け、やがてふっと息を吸い込む。それの繰り返し。
午後1時、退出。

午後6時半、再び病院。状態は変わらず。
午後8時半、退出することにし、兄に「帰るよ。」というと、うなずく。
「帰っていいか?」と再び聞くと、左手の親指と人差し指で「○」を作る。「OK」のサインだ。そのユーモラスなしぐさに一同歓声を上げた。ふだんは、ユーモアの少ない兄だったのだけれど。結局、これが私の目撃した兄の最後の反応になった。

2月11日。

午後2時、病院。昨日とは変わって、規則正しい呼吸音。1分間に13回。眠ったまま。
午後2時半、血圧90-61。
午後3時半、清拭。
午後4時半、呼吸が10秒から15秒ほど止まる事象が起こる。それを繰り返した後、午後4時47分、呼吸停止。 (2010/2)

左手で輪をつくった・1

2010-02-26 05:46:03 | Weblog
兄が亡くなった。享年69。あっという間のことだった。

昨年9月下旬、兄から電話をもらったのが始まりだった。
「最近、体調がよくないので、病院で検査してもらう。尿が黄色くなるのと、嚥下(えんげ)障害がある。」ということだった。

10日後の10月上旬、再び兄から電話があり、「検査の結果、胃がんが見つかった。」とのこと。医師と相談の結果、抗がん剤を飲みながら治療することにした、という。発見が遅くて手遅れだということが推察できた。

以後は自宅で治療を続けたが、大変な痛みに襲われ、兄は、抗がん剤の投与を断ったようだ。やがて、腹水がたまるようになり、それを抜いてもらうために入院を繰り返した。
(2010/2)

定年後の過ごし方

2010-02-23 08:05:04 | Weblog
サラリーマンの多くが60歳で定年を迎える。その後、どのような生活を営むか、人それぞれで、興味深い。何人かの知人の例を挙げてみる。

Aさんは、定年を待っていたかのように、国際協力機構(JICA)の主催するシニア海外ボランティアに飛び出した。技術や技能を持つシニアを募って、主として、発展途上国に派遣する。彼は、コロンビアと中国に派遣された。現役時にメキシコや韓国に駐在した経験のある彼には海外生活は何ら違和感ないらしい。

奥さんは自分の好きなことを持っているが、彼の任地に旅行するのが楽しみになっているという。南米の小国や中国の内陸部はなかなか行く機会はなかろうから、彼の招待を進んで受けている。

Bさんは、首都圏に自宅と奥さんを置いたまま、京都に部屋を構えた。そこに隠棲してしまったわけではなく、首都圏と京都を行ったり来たりしている。
奥さんと仲が悪くなったのかと思ったが、そうではないらしい。京都の別宅に奥さんを招待したりしている。
奥さんはやはり、自分の趣味を持っていて、それで忙しくしている。

Cさんは、定年前に早期退職して、大学の教養学部に再入学して、勉強している。彼も、亡くなったお母さんの住宅を「隠れ家」と称して、時々勉強や研究のために、そこに籠もるらしい。
奥さんと仲が悪いわけではないが、一人になりたくなる時があるらしい。

Dさんは、定年後、両親の介護をするために、早々に首都圏の自宅を畳んで、故郷の九州に帰った。奥さんも行を共にした。
その後、お母さんを看取り、今は、お父さんの介護にあたっているという。

Eさんはまもなく定年を迎えるが、会社の嘱託再雇用に応じて、あと5年働くという。年金制度が変わり、60歳から64歳の間、老齢年金の基礎部分が給付されないので、厚生年金を補うため、低い給料に我慢して嘱託として働くのだという。私の世代にはなかった悩みだ。

その後は故郷に帰るかどうかは決めかねているという。首都圏で40年も生活すれば、首都圏に根付いてしまう。奥さんを同行させるのも難しい課題だという。これは、地方から首都圏に出て、そこで結婚した人が直面する共通の悩みのようだ。

こう見てくると、定年後の過ぎし方には、いくつかの判断基準があることが認められる。(カッコ内は私の場合)

その1 それまで考えていたことに飛び込む。研究、ボランティアなど。(研究)
その2 奥さんとの距離をどのように保つか? 付かず離れずか、同行か。(単身)
その3 親の介護が必要か否か。(必要)
その4 故郷に戻るか否か。(東京が故郷)
その5 さらに働くかどうか。(働かない)

このように、小さな悩みではあるが、人それぞれ悩みを抱えながら定年後を生きる。 (2010/2)



「事業仕分け」と「シーリング」・1

2009-12-16 05:08:18 | Weblog
鳩山内閣になって初めての予算編成作業が進んでいる。その第一弾となる「事業仕分け」は新鮮な驚きを与えるものであった。従来通りの要求方式で臨んだ省庁の予算は、その必要性に多くの疑問が投げかけられた。それはそれで良かったのだが、「事業仕分け」の結果、民主党が先の総選挙でマニュフェストに謳った諸政策を実現するための7兆円は捻出できなかった。

一方、来年度予算の概算要求を各省庁に諮るにあたって、政府は、敢えて上限を設けなかった。
そうしたら、各省庁の概算要求を積算したところ、95兆円を超える概算要求が積み上がった。各省庁は、従来通りの予算要求に加え、民主党のマニュフェストに掲げられている新規政策に伴う費用を上積みして要求予算を提出したのだという。

政府は、これから、それを削減していくという。しかし、その過程に困難が伴うことは予想に難くない。

官僚は政府からの明確な指示があれば、それに従う。しかし、政府からの指示があいまいだと、自らの都合のいいようにそれを解釈する。今回の概算要求の策定過程で、民主党のマニュフェストに掲げられた政策を実現するためにはこれだけ必要です、その他の政策については従来通りです、というのが各省庁の本音なのではないか。これでは、概算要求は積み上がる一方だ。

「事業仕分け」はそこに無駄が潜んでいるとして切り込んだわけだが、短期間で大きな無駄の削減まで指摘するには無理があった。「事業仕分け」の最中に、政府か民主党の幹部が、「このような事業仕分けは今年限りです。」と発言していたが、事態の認識の薄さにあきれる思いだ。来年も再来年も続けてこそ「事業仕分け」の効果が出てくるもので、一回、短期間に終えるような類のものではない。後、鳩山首相が「次年度以降も事業仕分けは継続して実施する。」と発言するのを聞いて安堵した。

素人が見ていて感じたことの一つは次のようなものだ。
似たような施策をA省でもB省でもC省でも予算要求しているが、これらは一本化できないのか、というもの。
各省庁の回答は「各省の政策の対象が違います。」というのがほとんどだ。
「他省庁と政策のすり合わせはしたのですか?」
「いや、していません。」

このような施策については、A省・B省・C省とも、すべて「ゼロ査定」にすればいいのではないか?
「本当に必要な施策なら、A省・B省・C省が合議の上、予算要求してください。」

財務省の主計官は、各省ごとに担当がいるという。各省担当の主計官を減らして、省庁横串で見る主計官を設置すべきではないだろうか? (2009/12)


好奇心の掘り起こし

2009-11-28 08:24:11 | Weblog
加齢のせいか、このところ、知的好奇心の減退に著しいものがあります。読書の量はめっきり少なくなりましたし、街に出て、音楽や映画を楽しむこともあまりありません。
その一方、家で、テレビを見る時間が増えています。ケーブル・テレビの「囲碁・将棋チャンネル」や「旅チャンネル」で時間を潰すことが多くなっています。

私の日常は、このブログ「歴史文化を読み解く」に載せるコラムを書くことと、インターネット古書店「BIBLOSの本棚」を運営することとで成り立っています。コラムの執筆とインターネット古書店の運営とは互いに関連がないように思えますが、実は、両者が相互に影響し合っていることが最近わかりました。

「BIBLOSの本棚」からお客様が求めていかれた本がきっかけとなって、その本にまつわることをブログ「歴史文化を読み解く」に書くことが時々あります。

画家ハインリッヒ・フォーゲラーに関するコラムをまとめるきっかけは、彼の図録を求めるお客様がいらしたことです。この図録が手元になくなったら、彼について書く機会が永遠に失われてしまうかもしれない、と思い、急いで、筆を執りました。
ハインリッヒ・フォーゲラー http://blog.goo.ne.jp/ozekia/d/20081025
がそれです。

また、長い間、本棚に沈んでいた『森有正全集』を「BIBLOSの本棚」から求めるお客様が出現し、それも一人にとどまらなかったため、森 有正への関心が復活し、
 森 有正のこと http://blog.goo.ne.jp/ozekia/d/20091023
           http://blog.goo.ne.jp/ozekia/d/20091025
            http://blog.goo.ne.jp/ozekia/d/20091118
をコラムにまとめました。

森 有正への関心は、同世代の加藤周一への関心も呼び起こしています。これは、海老坂武『戦後思想の模索 森有正、加藤周一を読む』(1981年、みすず書房)を読んだことによるものです。

折りしも、『加藤周一自選集』が新たに岩波書店から発刊され始めました。この自選集は、加藤が生前、企画に係わったもので、彼の著作を年代順に収録するものです。加藤周一の思想の変遷をたどるのに好適なものです。これから、一年間かけて、この自選集を読んでいくことにしました。加藤周一を読み込むことは私にとって長年の懸案でした。ここでそれを果たそうと思います。

以上、二例は、いずれも、「BIBLOSの本棚」でのお客様との交流が刺激となって、私の好奇心の掘り起こしにつながっていったものです。
インターネット古書店「BIBLOSの本棚」の運営とブログ「歴史文化を読み解く」の運営とが両々相俟って、私の日常が成り立っていることを実感しています。  (2009/11)


奇妙な行き違い

2009-08-22 09:02:38 | Weblog
知人の一人が、60歳を過ぎていますが、まだ働きたいといいます。

シニア世代向けのメール・マガジンを発行している人たちがいて、そのメール・マガジンに、ある会社の求人告知があったのを思い出しました。それでメールで問い合わせました。
メール・マガジンはAさんとBさんの二人が運営していますので、問い合わせはメール・マガジン事務局宛てにしました。

すぐにAさんから返信がありました。「その会社はBさんの知り合いの会社です。Bさんに電話してください。」

なぜ、メールで回答してくれないのか。
問い合わせ内容は簡単なことで、
(1) この会社はどのような事業を営んでいますか?(これに対しては、Aさんがこの会社のホームページのURLを知らせてくださったので、解決しました。)
(2) この会社はシニアを受け入れているのですか?
(3) この会社にアプローチするにはどうしたらいいですか?

これだけのことです。電話を寄越さなければ回答しない、というのは、「上から目線」の表われではないか?

再び、同じ内容の問い合わせをメール・マガジン事務局宛てにメールで行いました。
再び、Aさんから、「委細はBさんに電話で聞いてください。」という返信がありました。
新聞の募集広告では「委細面談」という決まり文句がありますが、メールでのやりとりで「委細電話」というのは、その理由がわかりません。

やがて、Aさんから再度のメールが入り、「Bさんがこの会社に問い合わせたところ、『シニアお断り』だということがわかりました。」

さて、シニア世代向けのメール・マガジンに、「シニアお断り」の求人告知を出すことはいかがなものか?

これを、Aさんにメールすると、「確かに広告効果は疑わしいですね。」という返信が来ました。
ずれています。広告効果の有無ではなく、シニア世代向けのメール・マガジンに、「シニアお断り」の求人告知を出すことは矛盾を孕んでいるだけでなく、シニア世代を侮辱することにつながるでしょう。

このAさんとのやりとりの間、当事者のBさんからは一度も連絡がありませんでした。

知的レベルが高く、常識もわきまえている人たちの間に、秘かに「モラルの融解」が浸透しつつあるのでしょうか? (2009/8)


わが街

2009-08-08 01:00:00 | Weblog
この街に越してきて2年8ヵ月が過ぎた。それまで、短い期間で各地を転々としていたので、一ヶ所に長く住まうのは久しぶりのこと。
この街は、私鉄沿線の各駅停車駅から拡がる街で、どこにでもある街の一つだ。しばらく、この街を描写してみよう。

まず、飲食店について。
そば屋は3軒あったが、1軒が廃業して、2軒が残っている。2軒ともまずまずの味だ。
中華料理屋が1軒、味はいただけない。ほかに、ラーメン屋が2軒。
スパゲッティ屋があったが、つぶれた。
とんかつ屋が1軒、ほかに「新宿 さぼてん」の惣菜屋がある。
うなぎ屋はない。
焼肉店と寿司屋が数軒ずつあるが、入ったことはない。
レストランが1軒、ファミリーレストランが1軒。
24時間営業の「オリジン東秀」があったが、最近店を閉じた。この種の店を維持するには街が小さすぎるのだろう。

駅の後背地に、大きな新開住宅地とマンション群がある割りには、なんとも貧しい飲食店の分布だ。この住宅地とマンションの住人は、街に出て食事をする習慣がないのだろうか? 食材や惣菜を買って家で食事をしている毎日なのだろうか? よくわからない。

駅から私の住む団地に向かう途中に大規模なスーパーマーケットがある。IY堂だ。このお店があるので救われている。大きな食品売り場のほか、衣料、生活用品など何でも揃っている。クリーニング屋、靴修理屋、銀行ATMなど、便利な施設もある。 
このスーパーは、週末など大変なにぎわいで、買いだめしている客も多い。まるで、アメリカかオーストラリアのスーパーのような光景だ。 

シンクレア・ルイスに『本町通り』という小説がある(*)。岩波文庫に収録されている。
本町通りとは、英語で The Main Street のことで、アメリカの田舎町の中心をただ一本走る通りのことを指す。ルイスの小説では、この通りに散在する地元のお店やそのお客である後背地の住宅地の住人たちが織り成す日常のドラマをヴィヴィッドに活写している。

さて、ルイスの小説を思い出したのは、わが街にも、メイン・ストリートがあって、それがルイスの小説を彷彿とさせるからだ。
わが街のメイン・ストリートは駅前から始まり、丘陵地の坂道を上り下りし、後背地の住宅地に吸い込まれていく。両側の店舗は、新興地らしく、改廃や転変が多い。ルイスの小説のメイン・ストリートとの違いは、「お店と住人たちが織り成す日常のドラマ」が比較的薄いところだ。

このように、わが街では、店舗の数が異常に少なく、小ざっぱりした公園が多いなど、いかにも新興地らしく、生活の歴史を感じることが少ない。それでも、私はわが街に愛着を持っている。それはなぜかといえば、静かで落ち着いたたたずまいが、住んで安心を誘うからだと思う。

街の猥雑さを求めたり、ショッピングをしたりするのであれば、近くの特急停車駅か都心まで出かければいい。仕事を退役しているから、通勤で分秒を争う必要もない。代わりに郊外の静かな環境が手に入る。それが何よりだ。

なお、イギリスでは、メイン・ストリートのことを High Street と呼ぶようだ。ロンドンのウィンブルドンの駅前から延びている道が High Street であったことを思い出した。この通りはくねくね曲がっていて、すぐに、商店街をぬけて、住宅と畑が広がる場所に出てしまった。でも、これがメイン・ストリートに間違いない。これ一本しか通りはないのだから。 (2007/12)


季節の移ろい

2009-07-21 05:26:04 | Weblog
首都圏では7月14日に梅雨が明けた。例年に比べ、一週間から10日ほど早い梅雨明けだ。
それに合わせるかのように、ニイニイゼミの初鳴きを7月14日に、アブラゼミの初鳴きを7月16日に、ミンミンゼミの初鳴きを7月17に観測した。ニイニイゼミの初鳴きは平年並みだが、アブラゼミとミンミンゼミの初鳴きは平年より一週間から10日ほど早いようだ。季節の移ろいが早まっているように感じる。

そういえば、5月26日に、満開になっているアジサイの株を発見したことが思い出される。平年であれば、6月初旬に見られる光景だ。

そればかりではない。近くで定点観測しているチョウセンアサガオが、今年は、やはり5月26日に開花した。例年だと、6月初旬がチョウセンアサガオの最初の開花期なので、平年より10日ばかり早く開花しているようなのだ。このチョウセンアサガオは5月下旬から6月初旬にかけて第一波の50輪が開花し、続いて、6月下旬から7月初旬にかけて第二波の80輪が開花した。明らかに、例年に比べ、開花の時期が早く、開花の勢いも強まっている。

なぜだろうか?

今年は、冬から春にかけて、温かい陽気が続いたので、そのせいではないか? おそらく、そうであろう。

だが、それだけではないものも感じる。それは何かというと、季節の移ろいと暦が合っていないように思えるのだ。つまり、季節の移ろいのスピードが暦のスピードを上回っているのではないか? つまり、1年が365日ではなく、363日ぐらいで回っているのではないか、という思いが離れない。

おそらく、今年の夏の終わるのも早く、秋の訪れも早いという予感がするのだが、どうだろう?
(2009/7)


奇人変人比べ

2009-04-15 08:21:26 | Weblog
世の中には、変なものや奇妙なことに情熱を燃やす人がいて、昔から「奇人変人」として気味悪がられてきました。それが、今では、「マニア」とか「オタク」とか称されて、「そういう人がいてもいいんじゃない?」という気分が世の中にいきわたっています。「山彦おじさん」は、各地の山彦発生地点を探して歩き、山彦を録音し、家に帰ってそれを再生して悦に入っています。「ブックカバー収集狂」は、丸善とか紀伊国屋とかの本屋のブックカバーを集め回っています。「それにどういう意味があるの?」と聞いてもしょうがありません。無意味なことに情熱を傾けるのが、「マニア」とか「オタク」の本領だからです。

私自身もかなりの奇人変人と自覚しています。

今年の夏、只見に行った時のこと。
その目的が、「たもかぶ本の街」という古本村を訪ねるというのが、他人から見れば、尋常でないしょう。

只見に行く前の日に柳津温泉に泊まるというアイディアはインターネットで旅程を調べていて思いつきました。
日程上、夕方に止宿できる場所は柳津温泉以外にありえない、と思われました。実際には、只見線沿線にも小さな温泉地が多数ありましたが、これは現地に行って初めてわかったことで、インターネットでチェックしているだけではわかりません。

これだけ綿密に旅程を考えるのは私だけだと鼻高々だったのですが、同じことを考えた人がいたようなのです。柳津温泉で同宿した30歳代の母と小学生の男の子がそうでした。

この母子は私と同じ列車で会津柳津駅に降り、柳津温泉の同じ宿に泊まりました。翌朝、下り一番列車で只見方面に向かう時も同じ行程でした。この列車が豪雨のため会津川口駅で運転中止になったことは既に述べました。この母子は小出行きの代行タクシーを求めていました。

推測すると、男の子が鉄道マニアで、夏休みの最後の思い出作りに、母親の肝いりで、只見線を下る旅をしているのでしょう。会津柳津駅前に展示してあるSLの前で男の子は喜々としてスナップ写真に納まっていました。只見線を堪能するには、朝の下り一番列車を使うのが最善なので、そこから逆算して、前夜、柳津温泉に泊まることにしたのだと思います。何と、私と同じ発想をする人が他にもいたことになります。この母子にとっては、途中駅での運転中止は残念なことだったと思います。

単に、鉄道に乗るために旅行に出る人も「奇人変人」の類ですが、これがずいぶん多くいるようです。「乗り鉄」ということばを最近覚えました。「鉄道乗車マニア」のことで、たどり着くことが困難な秘境駅を訪ねたり、全路線乗り尽くしを企画したり、鉄道廃線跡を訪ねたり、と、「乗り鉄」の対象は拡がっています。最近は女性も多いそうです。そういえば、只見線の朝の下り一番列車の乗客の半数は「乗り鉄」だったことを思い出しました。

「何でそんなことを考えるの?」と聞くのは野暮なことでしょう。「そこに鉄道があるから。」という返事が返ってくることは間違いありませんから。 (2007/11)


記憶のよみがえり現象・2

2009-03-18 07:07:48 | Weblog
(2)記憶の「よみがえり」

「圧縮」されて「仮死状態」になった過去の経験・体験は、別の例でいえば、考古学でいう「古層」のようなものだ。年代を刻みながら、幾重にも、薄い薄い層の重なりとなって堆積している。過去の経験・体験が決して死んでいないことは、ひょんなきっかけで、そのような過去の経験・体験が再びよみがえることがあることから、証明される。

完全に「忘却」された記憶はよみがえることはない。
一方、「圧縮」されて「仮死状態」に置かれた記憶は、何かの拍子によみがえることがあるのだ。
この現象が不思議だ。

形状記憶合金は変形圧力を受けた後も、元の形に戻る。水に落とした乾燥花は水の中で花開く。
同じようなことが、「圧縮」されて「仮死状態」に置かれた記憶にも起こるらしい。

問題は、記憶の「よみがえり」のきっかけは何か、ということだ。
大脳への何らかの刺激が記憶をよみがえらせることは間違いないだろうが、その刺激がどのように生まれるのかはわからない。

私たちのありふれた経験によると、「あれ? 以前似たようなことがあったな。」とか「ヨーロッパのキリスト教国だけじゃなく、日本にも見られるじゃないか。」とかいう形で、過去(あるいは、身近な環境の)の経験・体験の記憶が現前によみがえることがしばしばある。つまり、現前の経験・体験が刺激剤となって、過去の経験・体験が掘り起こされると見るのが正しい。

過去の経験・体験を掘り起こす営みは、個人においても、国家・国民レベルにおいても行われる。
個人の場合は「文学」などの形で、国家・国民の場合は「歴史学」「民俗学」などの形で、過去の経験・体験を掘り起こす営みが行われる。

以上が、「記憶」の構造とその「よみがえりに」ついての概観だが、以下、いくつかの事例に当たってみよう。  (つづく。2009/3)


三都市巡回

2009-03-12 08:37:44 | Weblog
日本は四季がはっきりしていることで知られています。私の住む首都圏では、一日の最高気温が、冬には2℃程度、夏には35℃程度になります。最低気温は、冬には-2℃程度、夏には28℃程度。いずれも、冬と夏で30℃も違います。

一方、日本は南北に細長い地形になっています。札幌の最低気温が-10℃の日に、那覇の最低気温が15℃、という具合に、北と南では、温度差が25℃もあります。

そこで考えるのですが、一年をいくつかに分割して、首都圏・札幌・那覇の三都市を巡回することができれば、快適ではないでしょうか。

 4月-5月 首都圏
 6月-8月 札幌
 9月-11月 首都圏
 12月-3月 那覇

これが一案です。

首都圏の梅雨と暑さが耐え難いので、これから避難するには札幌が適しているでしょう。

冬は温暖な那覇が快適です。もう一つ、2月から3月にかけての花粉を避けたいのですが、那覇で花粉が飛ぶかどうか、まだ調べていません。もし、飛ぶようであれば、もう一地点、花粉避けの地を探す必要がありそうです。

こう考えてきましたが、このアイディアは「夢のまた夢」で、実現する見込みはありません。  

インターネットで調べると、沖縄には花粉症がないらしい。元となる杉が植わっていないそうです。2月から3月にかけての2ヶ月間だけでも沖縄に滞在することを本気に考えようか、とも思います。 (2009/3)


新逗子発羽田空港行

2009-02-10 16:55:13 | Weblog
京浜急行電鉄には、泉岳寺から三崎口までの本線・久里浜線のほかに、いくつかの支線がある。京急蒲田からの空港線、京急川崎からの大師線、金沢八景からの逗子線、堀ノ内から浦賀までの本線(の残り)、がそれである。

逗子線新逗子発・空港線羽田空港行の編成がある。支線-本線-支線と結んで走る不思議な列車だ。

新逗子-(各駅停車)-金沢文庫-(快速特急)-京急川崎-(特急)-京急蒲田―(各駅停車)-羽田空港

性格を次々と変えて、支線の末端から別の支線の末端まで運行している。どうしてだろう?

この列車は、新逗子を出て金沢文庫の手前の金沢八景で、本線の上り各駅停車と泉岳寺行き快速特急をやり過ごし、その後金沢文庫で、先にやり過ごした泉岳寺行き快速特急の後に連結して、「快速特急 羽田空港行」に変身する。次に、京急川崎で、泉岳寺行き快速特急から分離して、「特急 羽田空港行」に再度変身する。なぜ「特急」に呼称変更するのかがわからない。快速特急も特急も、京急川崎の次の停車駅は京急蒲田で、変わりない。ここは鉄道の専門家を煩わさないと解明できない。

京急蒲田の手前で、下り線をまたいで空港線京急蒲田に入る。そこから、逆方向にスイッチバックして、羽田空港まで行くのだ。

何とも複雑な行程をたどる編成だが、その発生のわけは、羽田空港への旅客の取り込みにあることは明らかだ。羽田空港へは、都営地下鉄浅草線から泉岳寺・品川を経由する列車が直通運転している。それに加えて、横浜方面からの直通運転を実現することで、横浜方面からの旅客を取り込んだのだろう。各駅停車-快速特急-特急-各駅停車と性格を変えるのも、線路をまたいだスイッチバックも、横浜方面から羽田空港への直通運転を実現させるための苦肉の策なのだ。

新逗子発羽田空港行のほかにも、浦賀発羽田空港行という編成もあるようだ。いずれも、時間はかかるにしても、乗り換えなしで羽田空港まで行けるところがうれしい。
ただ一つ心配なのは、事故のリスクはないのだろうか、という点だ。  (2007/10)

鉄道の専門家に聞いてみた。
「京浜急行では、快速特急(京急蒲田-羽田空港間はノンストップ)のほかは、特急も急行も京急蒲田-羽田空港間は各駅に止まる規則になっています。したがって、この編成の京急川崎-羽田空港間は『特急』でおかしくありません。」
なるほど、規則はわかったが、実際には「ウーン。」とうなりたくなる。  (2009/2)


「ローテク」の逆襲

2008-07-21 00:04:45 | Weblog
これまで分載した「『ローテク』の逆襲」をまとめて再掲載します。

(1)ITの世界

PCとインターネットに関して、私は「先生」についています。
「先生」はPCのハードウェアと Windows について何でも知っていて、聞けば答えてくれます。とてもありがたい存在です。
また、「先生」は、HTMLやJavaのプログラミングに精通しています。私の「BIBLOSの本棚」のホームページは、「先生」がHTMLやJavaを駆使して制作してくださったものです。

さて、「先生」とのやりとりで、奇妙な経験をしました。
「先生」の説明がわからないのです。「先生」は説明の中でIT用語などがふんだんに盛り込まれますが、そのうちの多くがわからないことばです。「先生」は私がその種のIT用語を当然わかっているものとして使うのでしょうが、残念ながら、そうではありません。結局、「先生」の説明の30%ほどしか理解していないのではないか、というのが現状です。しかし、それでも、「先生」の説明は貴重です。

「先生」はITの専門家です。専門家としてのレベルを落とさずに、私に説明します。話をかみくだいて、私に説明するということはあまり得意としていないようです。ITの専門家にしばしば見られる類型といっていいかもしれません。

一方、私はITの専門家ではありません。IT用語などはほんの一部しかわかりません。それで、「先生」の説明にとまどうことになります。 

(2)PC初心者

さて、私と同年代の人で、最近PCを購入した人がいます。その人から、PCの使用法について質問を受けたとき、その人が、私の説明を聞いて、初めて、PCとは、ファイルの構造とは、というようなことが理解できるようになった、といわれたことがあります。

ディジタル・カメラで撮影した映像をPCに取り込むことがテーマでした。
「ディジタル・カメラで撮影した映像は、このSDカードに蓄えられます。」
「今までのカメラのフィルムのことね。」
「そう、カメラのメーカーによって、メモリー・スティック(ソニー)とか、コンパクト・フラッシュ(キャノン)とか、呼び名はいろいろですが、ニコンはSDカードと呼んでいるようです。」

「ディジタル・カメラとPCはこのケーブルでつながります。ほら、PCのUSBケーブルのジャックにつなぎます。すると、PCから見て、ディジタル・カメラ(実際は、SDカードですが)が周辺装置の一つとして認識されるようになります。」
「『マイ・コンピュータ』をクリックすると、ほら、『リムーバブル記憶域があるデバイス』に『NIKON(SDカード)』が入っているでしょう。」

「それで、『リムーバブル記憶域があるデバイス』の『NIKON(SDカード)』から、PC内のどこかのファイルにデータを移送すればよいわけです。」

「PC内のファイルは階層構造になっています。映像データは、『マイ・ドキュメント』の下位にある『マイ・ピクチャ』に格納するのがいいでしょう。したがって、『リムーバブル記憶域があるデバイス』の『NIKON(SDカード)』から『マイ・ピクチャ』にデータを移送します。」
「これで、PC内で、映像データをトリミングしたり、縮小したり、タイトルをふったり、する編集ができるようになりました。もう、USBケーブルははずしてかまいません。」

これだけの説明で、この人は、ディジタル・カメラの映像データをPCに取り込んで、編集することができるようになりました。実は、これは、10ヶ月前に、パソコン教室で私が学習したことをオウム返しに教えたに過ぎません。  

(3)メール・マガジン発行者

もう一つ、例を挙げます。
シニア層に情報提供する目的でメール・マガジンを発行している「先輩」がいます。「先輩」は「相棒」と二人で、この仕事に携わっています。

メール・マガジンの購読者は55歳から上のシニア層で、PCのモニターを見るのがつらい人やPCを持っていない人もいるので、同じ内容の冊子を印刷して配布する事業も行っています。素晴らしいことだと思います。

さて、このメール・マガジンのコンテンツを一覧してみると、書体が不統一なのに気がつきました。ゴシックと明朝が混在しているのです。
この点を問い合わせると、書体の混在は認識しているが、致命的な欠陥ではないので、そのままにしている、とのことでした。

折角の優れたコンテンツが、このメール・マガジンに収録されてほかのコンテンツと一緒に並べられた途端に、ギスギスした響きを生んでしまいます。この点を「先輩」と「相棒」は知ってほしいと思います。

それで、僭越だとは思いましたが、メール・マガジンの一つの号を採って、書体統一版を作ってみました。

PCモニターで閲覧する時には「MS P ゴシック」の書体が見やすいですし、印刷する時には「MS P 明朝」の方がなじみます。PCモニター閲覧版と印刷版の2種類を作成して、「先輩」と「相棒」のコメントを求めました。

数日経ちました。しかし、「先輩」からも「相棒」からも応答はありませんでした。
これ以上の「お節介」は慎むことにしましょう。  

(4)「ハイテク」・「ローテク」・「ノーテク」

さて、本題の入口に来ました。

「ハイテク・ローテク・ノーテク」ということばがあります。

テクノロジーに対する詳しさや親密度(テクノロジー・リテラシー、といいます)で人間を区分することばです。このことばにはやや疑問がありますが、とりあえず、このまま進めます。

「ハイテク」は、先端テクノロジーに詳しい人です。私の「先生」は「ハイテク」の代表といっていいでしょう。

「ローテク」は、先端テクノロジーに詳しくはないが、先端テクノロジーを組み込んだ機器などを一応使えるレベルの人です。私自身は「ローテク」と自認しています。私の「先輩」も「ローテク」といえますが、実際は、私よりテクノロジーに詳しく、メール・マガジンのホームページも自分でHTMLを使って書いているほどです。

「ノーテク」は、先端テクノロジーがまったくわからない人です。私にPCの使い方を尋ねる「PC初心者」がそうですし、「相棒」もそのようです。

これら3種の人間がいるとして、それぞれの間で、どのようにテクノロジーのノウハウが移転していくかを考えてみたいと思います。 

(5)「ハイテク」と「ノーテク」

テクノロジーの源は「ハイテク」にあります。したがって、その「ハイテク」からどのようにテクノロジーのノウハウが流れ出るかが焦点の一つです。

知人の「ハイテク」の一人が、ボランティアで、パソコン教室の講師を勤めています。「定年後」に自らのスキルを生かしてボランティア活動をするのは素晴らしいことです。

ただ一つ、気になることがあります。
パソコン教室の生徒はみな「ノーテク」です。「ハイテク」が「ノーテク」を教えているわけです。一般的に、「ハイテク」はテクノロジーに詳しいが、そのテクノロジーを噛み砕いて説明することは必ずしも得意としていません。パソコン教室の生徒にPCのテクノロジーがうまく伝えられるのか、気になります。

「ハイテク」・「ローテク」・「ノーテク」の人口分布をモデル的に、1:10:100としてみます。

すると、パソコン教室では、「1」が「100」を相手に教えなければなりません。「ハイテク」にとっては、大変な負担です。この問題を考えなければなりません。

結論をいえば、「ハイテク」が一手に「ノーテク」を教えるには無理があり、むしろ、「ハイテク」の教える相手は「ローテク」であるべきだと思います。そして、「ローテク」が「ノーテク」にテクノロジーを伝播する、というテクノロジー移転の階層構造を構築することが重要に思います。 

(6)「ローテク」の存在意義

次に、一転して、「ノーテク」の側から、見てみましょう。

「ノーテク」にとって、PC、ディジタル・カメラ、地上波ディジタル・テレビなどのマニュアルを見て理解するのは頭痛の種です。判らないことばの羅列でつまずきますし、「こうしたい時、どうすればいいのか」に答えるような記述を見出せることはまずありません。

この悩みを「ハイテク」にぶつけても、「ハイテク」はマニュアルの人間版のようで、そのことばは理解を越えます。
「こうしたい時、どうすればいいのか」に対しては、「ハイテク」は解を知っていますが、その解を「ノーテク」に伝えるのが上手ではありません。
こうして、「ノーテク」と「ハイテク」は生産性に乏しいコミュニケーションを続けることになります。

ここに、「ローテク」の出番があります。

「ローテク」は「ハイテク」からテクノロジーの伝授を受ける際に、判りづらい個所を体得しています。その個所は「ノーテク」にとってはなおさら難関であることは自明でしょう。それで、「ローテク」は「ノーテク」にテクノロジーを伝播するにあたって、判りづらい個所を判りやすくする工夫をすることに精力を注ぎます。それで、「ノーテク」も理解できるテクノロジーが生まれることになります。

このように考えてみると、「ローテク」の大きな役割がわかると思います。「ハイテク」のテクノロジーを理解できるのが「ローテク」ですし、「ノーテク」の悩みを理解できるのも「ローテク」です。「ローテク」は、「ハイテク」と「ノーテク」との間を取り持つ存在として不可欠なのです。

テクノロジーの世界では、「ハイテク」がもてはやされます。当然、テクノロジーの専門家として、「ハイテク」は高い尊敬を得るべきでしょう。
しかし、同時に、テクノロジーの伝播の媒介役として、「ローテク」は従来以上の尊敬を得てしかるべきではないか。・・・・「『ローテク』の逆襲」と題した所以です。
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なお、「ハイテク・ローテク・ノーテク」の用語には疑問があると申しました。特に、「ノーテク」に侮蔑感を抱く人も多いと思います。

それで、「専門家・普及員・初心者」と言い換えてみたいと思います。すると、学問の世界でも、テクノロジーの世界でも、農業経営の世界でも、この三者の間で、どのようにノウハウの伝播を行うのがいいのか、が問題となっていることがわかります。この問題については、また、別のコラムで触れることにしたいと思います。 (2008/4-5)