goo blog サービス終了のお知らせ 

静聴雨読

歴史文化を読み解く

脂恐怖症

2011-03-03 07:12:44 | Weblog

私は、小学校の給食でいい思いをしたことがない世代に属する。昼食時は本当に憂鬱な時間だった。食べて旨いと思う食事に当たったことがほとんどない。コッペパン、脱脂粉乳、クジラの竜田揚げ、とんかつ、などなど。ほとんどが喉を通らなかった。

コッペパンは味がなく、脱脂粉乳は鼻をつき、クジラの竜田揚げの油がやはり鼻をつき、とんかつという名の「豚の脂かつ」に舌が怯えた。この小学校の給食で「脂恐怖症」が形成されたことは間違いない。

その後、長い間、とんかつを食べる習慣はなかった。脂身の少ないヒレ肉を使った「ヒレかつ」を知るまでは。今でも、たまに、すなわち、年に1-2回は「ヒレかつ」を食べることはあるが、「とんかつ」、すなわち、「ロースかつ」は決して食べない。

焼肉でも同様で、豚の三枚肉を焼くもの(サムギョプサルだったか、正しい名前は忘れた)には手を出さない。あれのどこが旨いのだろう。

このように、「脂恐怖症」から脱出できないでいるのだが、いつの間にか、そういう私の体に脂がまとわりつき、医師から「高脂血症」というありがたくない診断を下される始末だ。大学卒業時に53kgのガリガリの体だったものが、今では、68kg。その原因は、まぐろのトロや天ぷら・揚げ物などの過食にあることは明らかだ。

食材の脂の恐怖から、今では、体脂肪の恐怖へと変わってきた。いつまでも、「脂恐怖症」から脱出できる見込みは立たない。 (2011/3)

十三階段

2011-02-03 07:09:43 | Weblog

以前、ドイツ映画の『十三階段への道』を見たことを覚えている。具体的な状況はすべて忘れてしまったが、「十三階段」とは死刑囚が死刑台に向かう階段を指していたことは鮮明に記憶している。そう、死刑囚は最後の気力を振り絞って十三段の階段を登らなければならない。この処刑場の構造はヨーロッパ諸国に共通しているのではなかったか? それほど、「十三階段」は生を断ち切る装置として象徴的な意味が与えられている。

さて、ひるがえって、わが国ではどうだろうか?
元法務大臣の千葉景子さんの「英断」で、東京・巣鴨の東京拘置所の処刑施設が公開された。それでわかったことは、東京拘置所の処刑施設には「十三階段」などないことだった。死刑台とそれをモニターする関係者の部屋とはフラットな位置関係にあり、どうやら、死刑囚は「十三階段」を登る苦痛を味わう必要がないらしい。どうも、拍子抜けしてしまった。 (2011/2)

個人誌を作りました

2011-01-02 08:40:40 | Weblog


個人誌を作りました。

タイトル: 歴史文化を読み解く 第14集
       [Ozekia のブログから 2006/4 – 2010/3]

目  次:

Ⅰ 異文化紀行      湘南の四季
Ⅱ 社会斜め読み     長ねぎの恨み
Ⅲ BIBLOSの本棚  開業を目指す人に  
(表紙写真)「蝋梅」       (2011/1)

タイトルを変えました

2010-12-06 14:04:50 | Weblog

ブログのタイトルを「晴釣雨読-歴史文化を読み解く-」に変えました。

2006年3月に「歴史文化を読み解くエッセー」と題してブログを立ち上げ、その後、「歴史文化を読み解く」と改題して現在に至りましたが、今回、「人生後半期の悠々自適な日常」を綴るにふさわしいタイトルに変更することにいたしました。

内容は、従来よりも、日常生活の報告の色合いが深くなりますが、歴史文化や芸術芸能に関するコラムも引き続き掲載するつもりです。

以上、突然のタイトル変更のお知らせでした。

リサイクルの連鎖

2010-10-24 07:27:00 | Weblog
コミック誌の多くは電車内で読み捨てられ、網棚などに放置される。それを集める人がいて、集められたコミック誌は、仲介業者に引き取られる。引き取られたコミック誌は、駅前などの露天で販売される。その販売価格は、定価のほぼ半額だ。

このリサイクルの連鎖は完璧だ。
集めた人が潤い、露天で販売する人が潤い、買う人も書店で買うよりも安価に手に入る。その上、電車内で、ゴミとしてのコミック誌を回収する手間も省いてしまう。

一方、街中での古紙回収では、違った側面が注目されている。

道路の一角に放置された新聞や雑誌などの古紙を持ち去る人を糾弾する自治体があるというのだ。
その自治体の言い分によると、道路の一角に放置された新聞や雑誌などは、実は放置されたものではなく、指定した古紙回収業者が回収するまで一時的にその場所に置いてあるもので、その所有権は自治体などにある、という。

道路の一角に放置し、見張りを付けるまでもなく置いてあるものに、「あれは、うちのものだ」という自治体の言い分は通らないだろう。自分のものだと主張するのであれば、公有地である道路を占有することなく、しかるべき場所に保管しなくてはならない。

道路の一角に放置されているものを集める人がいれば、それは究極のリサイクルの歯車を担っている人だと認識する必要があろう。東京都杉並区などは大いに反省してほしいものだと思う。(2010/10)


至福の八年間[母を送る]・5

2010-09-03 06:36:53 | Weblog
(6)画家として

母は、子育てが一段落した40歳代から、絵を描き始めた。
初めは、デッサンに励み、地域の絵のクラブなどに参加していた。
やがて、ある団体の会友になり、以後、会員・委員というようにキャリアを積んでいった。

2002年に脳梗塞を発症してから、自宅アトリエで個展を2回開いた。そして、2005年8月に、東京・京橋の画廊で個展を開くことになった。

母は大層張り切って、会場にずうっと詰めるといって聞かない。暑い中なので、一日2時間に限って会場で接客するよう母を説得した。
個展が無事に終わり、母に代わって次のようなお礼状を客に送った。

***
 
お 礼

このたびは、炎暑の中、「第40回個展 -花・はな・華-」に足をお運びいただき、まことにありがとうございました。

1960年代から90年代にかけて描いた「花」を中心に29点を展示いたしましたが、多くの皆様から、「クレパスによるデッサンが大胆だ」、「色彩が華やかでみずみずしい」、「花の生気が伝わってくる」などのお言葉をいただき、絵を描いてきてよかったとつくづく思いました。

機会がありましたら、次回は「風景」をテーマに個展を開催できれば、と考えております。

今後も、皆様の励ましを糧に、絵一筋に邁進する所存です。

***

母にこの文案を見せると、「私の考えていた通りのことを書いてくれて、ありがとう。」と言われた。初めて、親孝行をした気持になった。

2008年、母の参加している会の展覧会が開かれることになり、2点出品することにした。そして、思いついて、母を会場に連れ出すことにした。久しぶりの外出だ。ホームのヘルパーに入念に準備していただいて、タクシーで会場に向かった。

会場に着き、会の仲間から挨拶を受けるのだが、誰が誰だか識別はつかないようだ。それでも、会場を一周するうちに、会の展覧会に来ていることを理解した。水彩の「がくあじさい」の絵の前で、「これ、誰が描いた?」と聞くと、「あ・た・し。」と答え、回りがわっと沸いた。

やがて、会の仲間の女性の手を握り、離さなくなった。次の女性の手も握り、同じく手を離さない。完全に会の雰囲気になじんだようだ。

15分経過したころ、母が「疲れた。帰る。」という。それで、タクシーでホームに帰った。
一時間の遠足だった。

会の仲間とともに撮った記念写真をプリントしてみると、母は、大きく口を開けて、収まっていた。興奮していたのだと思う。

翌2009年にも、母を展覧会場に連れ出して、母の絵の前で、「これ、誰が描いた?」と聞いた。すると、母は、左手で自分の鼻を指す。「あたしが描いたの。」ということだろう。
(2010/9)       
  

至福の八年間[母を送る]・4

2010-09-01 07:12:18 | Weblog
(5)ある日の会話

老健から特養にかけて母の過ごした時間は、より穏やかに、より覇気の乏しいものに、というものだった。これはやむを得ないことだ。

ある日、昼食時に特別養護老人ホームに見舞いに行ったときの母との会話を以下に記す。

「また来たよ」
「来たの」
(少し顔を上げ、喜びを示す。最近は喜びの度合いが少なくなっているのが気がかりだ。元気な時は、まわりの人に、「わたしの息子なの」というのが口癖だったが。)

「腹がペコペコなの。何ぞ持ってにゃー?」
「いちじくを持ってきたよ」
「それ、ちょう。早うちょう」
「お昼食(ひる)の後に食べよう」
「いいから、すぐにちょう」
(最近、とみに、名古屋弁を使う。)

昼食が運ばれてくる。
「食べさせて」
「スプーンを右手に持って、自分で食べるんだよ。うまい?」
「うみゃー」
(食欲があるのが救いだ。)

あっという間に食べ終わる。仲間の中で一番早いようだ。
「いちじくを食べるか?」
「食べる。うみゃー。今までで一番うみゃー」
(これは口癖。)

食後は車椅子で館内を散歩する。
「うまかったよ。あの、ぶどう」
「ぶどうじゃない、いちじくだよ」
(最近は名詞を思いださないことが多くなっている。ぶどうが母の大好物なので、うまいものはすべて「ぶどう」になるようだ。)

口をすすいで、トイレに入って、部屋に戻る。
「ベッドでひと休みするか?」
「うん」
ここで、ヘルパーに寝かしつけてもらう。このところ、足がしっかりしていて、車椅子からベッドに移るのがスムーズだ。

ヘルパーが退室すると、母が独り言、というよりは、一人叫び、を始める。それを聞きながら、そーっと退室する。2007年7月のこと。 (2010/9) 

即席めんの世界・3

2010-08-30 07:20:31 | Weblog
(3)辛ラーメン

生麺では、ほかにもハイ・レベルの製品がありますが、省略します。

一方、即席めんの主流だった乾麺では、その種類が多い割りに、これといった製品は見当たりません。日清の「チキン・ラーメン」はロングセラーで有名ですが、味の単調さは否めません。

乾麺で私の注目するのは、「辛ラーメン」です。そう、韓国製のラーメンです。

このラーメンの特徴は、煮込むラーメンだというところです。煮込んでも、麺が崩れません。ともに煮込む野菜は、白菜だと煮込み負けしてしまいますので、キャベツが最適です。
スープは私にとっては辛すぎますので、生卵を落として味をマイルドにすると、辛うじて辛さを克服できます。

「辛ラーメン」は、スーパーで1袋120円程度で売っています。しかし、韓国物産専門店に行けば、5袋入りが395円で買えます。1袋79円の安さです。この安さで、この味の深さ。並みのラーメンではありません。  (2010/8)


即席めんの世界・2

2010-08-28 07:09:45 | Weblog

(2) つけ麺

ラーメンの「西山ラーメン」に匹敵するつけ麺を発見しました。東京・池袋の「大勝軒」のつけ麺です。

麺とスープと具材それぞれ別売りです。麺は一袋4人前で、洗練とはほど遠いデザインの袋に入っています。麺はもちろん生麺です。

「大勝軒」のつけ麺の最大の特徴はそのスープです。魚介類のダシが効いたもので、その香りは遠くからでも匂ってくるほどです。飽きの来ないスープは絶品といえます。

少し腹が空いたときは、1.5玉か2玉をゆでればいいので、食べる量の調節に重宝します。

値段は覚えていませんが、「西山ラーメン」よりかなりリーゾナブルだったと思います。 (2010/8)



即席めんの世界・1

2010-08-26 05:36:50 | Weblog
(1) ラーメン

近くのIY堂に、時々姿を現すのが、「西山ラーメン」です。北海道の製麺業者として有名な西山製麺が開発した生麺系即席めんで、一度食べてみて、その完成度に度肝を抜かれました。しょうゆ・味噌・塩の3種類がありますが、特に「金艶味噌」と称する味噌ラーメンが絶品です。製麺業者の製品ですから麺の完成度が高いのは納得がいきますが、それに加えて、味噌のスープがこくがあります。

この「西山ラーメン」は製造量が少ないのか、IY堂に常時置いてあるわけではありません。一年に数度、目にします。その都度買い求めますが、生麺ですので、買いだめが効きません。それが悩みの種です。

2食入りで、508円。まずまずの値段です。 (2010/8)


違いはどこから?

2010-04-07 16:37:53 | Weblog
小学校のクラスメートの顔はほとんど思い出せず、高校のクラスメートの顔はまざまざと思い出せる。この際立った差はどこから来るのでしょうか? 小学校卒業から50年、高校卒業から40年という経過年数の差は確かにあります。正確にいえば、小学校卒業から高校卒業までは6年です。

この6年が記憶作用に劇的な影響を及ぼすとは考えにくいところです。

私は小学校4年生時に転校して、卒業までの2年半を新しい小学校で過ごしましたが、新しい小学校に馴染めないまま卒業してしまったのが一因かもしれません。

当時の私は人見知りが強く、友達もいない児童でした。担任の教諭の通信簿には、「学業はまずまずですが、人見知りが強く、クラスに溶け込めていません。」と記されていたと記憶しています。確かにその通りでした。しかし、これを見た両親が激怒して、担任の教諭にねじ込みました。「だったら、どうしたらいいのか、道を示すのが担任の役目でしょう。」しかし、「詰め込み学級」では、個々の児童のケアには限界があったこともわかります。

記憶の箱をかき回していたら、小学校卒業時の文集が出てきました。クラスメートがそれぞれ感想を綴っていますが、当然のことながら、私の文章はありませんでした。しかし、「ひとこと」と題するコラムに、文字通り、一言記していました:
「東京工業大学でも卒業して実業家になりたい。」

これを見て、現在の私はあ然としました。何といやらしい文章でしょう。上昇志向丸出しで、その上、粗野な気質も現われています。

さらに驚いたのが、小学生時代に、その後の志望とはまったく別方向の進路を想定していたことでした。その後の私は文科系一筋でした。また、いわゆる「実業家」になることは、その後、一度も念頭にありませんでした。

どうやら、小学生時代の私とその後の私はまったくの別人格であるようです。これを考えると、小学校のクラスメートの顔をほとんど思い出せないのも納得がいきます。 (2010/4)


50年の歳月

2010-04-05 08:10:08 | Weblog
さて、小学校のクラスメートから突然クラス会への招待状が舞い込みました。私は、小学校卒業後、クラスメートとは誰とも連絡をとっていなかったので、びっくりしました。高校の同窓会にアクセスしたようです。個人情報保護法が施行されて、どこでも個人情報の管理は厳しくしています。「小学校のクラスメートという人から連絡を取りたいという申し出がありました。その気持がおありであれば、xxxxにご連絡ください。」こういうメッセージを高校の同窓会から受け取ったわけです。

そのクラスメートの名前は記憶しておりました。彼の連絡先にメールすると返信があり、同窓生名簿などが添付されていました。名簿によると、クラスの同級生が約60人。いわゆる「詰め込み学級」で、ずいぶん多くのクラスメートがいました。うち、名前を覚えていたのは6人だけ。クラスメートの多くは忘却のかなたに行ってしまっていました。

名簿には、三分の一程度の人の住所が記載されていました。小学校の同窓生名簿としては立派な維持状況だといえます。今回、私の住所が新たに名簿に加わったわけです。彼によると、2年に一回、クラス会を開いているとのこと。これも立派なことです。

彼は、最近のクラス会での集合写真も添付してくれました。それを見て、さらにびっくりしました。「これは、誰それさん。」というふうに人物にテロップをつけてくれているのですが、ほとんどのクラスメートの現在の顔と小学生時代の顔とが重なり合わないのです。重なったのはただ一人。担任の恩師のお顔もまるで別人でした。50年の歳月とはいかに長いものかを実感しました。

現在の写真を見ても懐かしさの感情は湧いてきません。これでは、クラス会に出ても、知らない人たちの中でポツンと孤立する姿が想像できて、懐かしさを楽しむわけにはいきそうにありません。
折角の彼の誘いですが、今回のクラス会は欠席しようかと思っています。

懐かしさを取り戻すためには、時間をかけて、「浦島太郎」状態を解消する作業が必要でしょう。1年かかるか2年かかるか、わかりません。そうして、「ああ、これは誰それさんで、昔、これこれのことを一緒にしたっけ。」というような思い出が多く蘇ってきた時に、改めて、クラス会に参加させていただこうかと思っています。 (2010/4)


同窓会の季節

2010-04-03 07:29:49 | Weblog
人間は歳をとると、昔が懐かしくなるようで、昔の仲間との再会を試みることが多くなるようです。
また、「啓蟄」とはよくいったもので、春のこの季節は、なにやら、「人懐かしがり」の虫がうづき出すようです。

5年ほど疎遠になっていた将棋仲間にメールをして、対局再開にこぎつけました。彼は、私よりはるかに強いので、まともな勝負になるかどうかわかりませんが、楽しみなことです。

大学の同窓生とは、月に一度、「囲碁・将棋の会」で集っています。これが最も頻繁に顔を合わせている同窓会です。

勤め先のOBの同窓会が二つ同時期に開かれます。隣り合った組織なのですが、一つを春に開くのであれば、もう一つは秋に開くというような配慮は効かないようです。二つとも、錚々たる先輩連が参集するようで、そこでまた「先輩風」を吹かれてはかなわないと、出席をためらっています。

2月には、高校のクラスメートと再会しました。40年ぶりの再会にもかかわらず、昔の面影そのままの彼を見て、びっくりしました。他にも、高校のクラスメート2人とメールでの交流を再開しましたが、彼女らとは高校卒業以来一度も会ったことがないにもかかわらず、高校時の彼女らの面影は今でも思い起こすことができました。不思議なことです。  (2010/4)

左手で輪をつくった・6

2010-03-08 07:09:06 | Weblog
Mortal という英語がある。Man is mortal. といえば、「人は死すべきもの。」という意味で、人は死ぬように定められていることを表わしている。このことを改めて思い知る今回のできごとだった。

3年と5ヶ月。
この二つの数字が、今、私にのしかかる。

兄と私の歳の差が3年。つまり、3年後の私に、今回兄に起こったことと同様な事態が起こっても、何ら不思議ではないという事実を突きつけられているわけだ。その間に是非やっておきたいことを洗い出して、実行する。それが求められている。

そして、5ヶ月。死を覚悟して過ごす終末期の過ごし方が、この間、問われることになる。
兄のように、従容として死を受け入れることは到底できそうにない。では、どうすればいいのか。容易に答えは出ない。

最近、マージャンを習い始めた。団地の同好会で、初心者に手ほどきをしてくれるという。
兄の無聊を慰めるために、一緒にマージャンを打てたら、という目論見だったが、私がマージャンを覚えるよりも早く、兄は逝ってしまった。文字通り、あっという間のことだった。  (終わる。2010/3)

左手で輪をつくった・5

2010-03-06 07:00:27 | Weblog
兄の亡くなる前日、退出しようとして、「帰っていいか?」と兄に聞いた時に、兄が左手の親指と人差し指で「○」を作ったのは、「OK」のサインだった。

このサインには他にもいろいろ含意があるのでは、と思い、次のようなことに思い至った。

まず、「○」は「輪」を表わすとともに、「和」をも表わしているのではないか? 残される家族が仲良くしてほしい、という兄の願いが「○」に乗り移っているのではないか?

次に、指で「○」を作る仏像があったのではないか?

望月信成・佐和隆研・梅原 猛『仏像 心とかたち』(昭和40年、NHKブックス)を参照すると、浄土教の阿弥陀如来像が指で「○」を作っている、とある。親指と人差し指で作る輪を「上品(じょうぼん)」、親指と中指で作る輪を「中品(ちゅうぼん)」、親指と薬指で作る輪を「下品(げぼん)」というそうだ。すると、兄は「上品」を自ら作って見せたのではなかろうか?

兄は、1940年(昭和15年)から1948年(昭和23年)まで、愛知県葉栗郡(現・一宮市)で過ごしたが、その間、浄土真宗の読経を日課にしていた、ということを聞いたことがある。阿弥陀如来のまねをしても不思議ではない。
    
兄が左手の親指と人差し指で作った「○」は様々な連想を誘い、今後、忘れられそうにない。 (2010/3)