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静聴雨読

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渡辺茂夫と渡辺季彦(12-16)エピローグ

2013-03-24 07:46:44 | 音楽の慰め

 

(12)西鎌倉の休日

「渡辺茂夫と渡辺季彦」と題するコラムを終わるにあたり、書き漏らしたことのいくつかを補足しておきたい。

その1。茂夫の帰国後、季彦の介護を受けながら過ごしたお宅について。

山本茂の『評伝』には「片瀬山」の文字が見える。一方、多くの方は鎌倉ではないか、という。
片瀬山に住む知人にこの矛盾を問い合わせてみた。
すると、こういうことだという。「湘南モノレールの片瀬山駅の西側は藤沢市片瀬山で、東側は鎌倉市西鎌倉なのですよ。」それで納得した。

2007年7月のある日、湘南モノレールの片瀬山駅に降り立った。休日の午前なので、あたりは静まり返り、住宅地の道では犬の散歩をする人とすれ違うばかりであった。目指すお宅はまもなく見つかった。薔薇の季節は終わり、庭には白いむくげの花が咲いていた。私はストーカーではないので、玄関のアーチを眼に刻み付けて、その場を立ち去った。

渡辺季彦の消息についても何人かの方に問い合わせたところ、ご健在で、相変わらずヴァイオリンの弟子を取っておられるとのことであった。

(13)エピローグ2・晩秋の横浜

その2。テレビ・ドキュメンタリー「よみがえる調べ 天才バイオリニスト渡辺茂夫」

2007年の晩秋、このコラムの締めくくりの意味で、横浜の放送ライブラリーを再度訪れて、テレビ・ドキュメンタリー『よみがえる調べ 天才バイオリニスト渡辺茂夫』を三度鑑賞した。

茂夫と季彦の「共生ぶり」が描写されるのは、残り12分のところからだと確認した。ほんのわずかな時間の映像であるが、それが1996年以来私の脳裏に刻まれて離れなかったのである。

なぜだろう? 改めて考えると、季彦の茂夫への介護ぶりが強烈に印象に残ったためだと、今になっては推測できる。ちょうど、「放送ライブラリー」を最初に訪れた頃は、私も母の世話に忙しくしていた。

「老・老介護」ということばがある。60歳代や70歳代のものが80歳代や90歳代のものを介護することを指すのが一般的だが、季彦・茂夫の場合は、80歳代が50歳代を介護している。その姿が異様に思えたのである。「介護施設に入所させてもらったら」という周囲の勧めを季彦は頑なに拒否したという。確かに、映像に映し出される季彦は、見るからに頑固親父そのものだ。

(14)エピローグ3・白金のまぼろし

その3。茂夫の渡米前の自宅について。

テレビ・ドキュメンタリー「よみがえる調べ 天才バイオリニスト渡辺茂夫」を見て、東京・白金であったことがわかった。さらに、「三光町25」という番地が、テレビ・ドキュメンタリーに写っていた。

東京都港区は、戦前の麻布区・赤坂区・芝区を統合してできた区で、町の名に、麻布箪笥町、赤坂青山南町、芝白金三光町など、統合前の区名を残している特徴があった。茂夫の自宅は、その芝白金三光町25であった。その後の住居表示変更で、芝白金三光町は白金6丁目などに変わって、現在に至っている。

これを知って、茂夫の自宅を求めて、白金6丁目界隈をさすらってみたが、当然、見つけられなかった。今の茂夫宅(季彦宅)は西鎌倉なのだから。

茂夫の通った小学校は「白金小学校」。
実は、私も、この小学校の同窓で、4年生の途中で転入した時に、茂夫が6年生で在籍していたようなのだ。すでに、茂夫は、「蒼穹」を想起させる「星空」を作曲して、永遠の宇宙に遊んでいたころであった。

不思議なめぐりあわせであった。 

西鎌倉、横浜、白金と、私は、あたかも失われた時を求めるように、歩き回った。やがて、世の中の歩調に合わせるようにして、渡辺茂夫と渡辺季彦の生きてきた時代が私のなかに見えるようになった。 

(15)エピローグ4・「イナバウアー」効果

その4。「イナバウアー」効果

渡辺茂夫の作曲した「星空」を説明するにあたって、それが「蒼穹」に例えられる、と書いたのだが、その「蒼穹」とは何だ、という説明に行き詰まった。

そこで、画家フェルディナント・ホードラーの山岳絵を持ち出して説明を試みた。我ながら、良い例えだと思ったが、如何せん、ホードラーを知っている人は10万人に一人くらいで、誰でも納得する例えとは言いがたかった。

幸い、フィギュア・スケートの荒川静香選手の演じた「イナバウアー」が、「蒼穹」のもう一つの例えとしてピッタリしていることに気付いて、これを使わせてもらった。「イナバウアー」なら5人に1人はなじみだろう。

そこで、これから、夢想の領域に入るのだが、荒川静香選手のフリー演技の曲として、渡辺茂夫の作曲した「星空」を使っていただけないか、ということを考えている。フリー演技は5分ある。「星空」は4分弱なので、少し時間が足りない。しかし、アレンジ次第で、5分に引き延ばすことは可能だろう。

渡辺茂夫と荒川静香選手のコラボレーションが実現すれば、というのは、今でも夢を見ているのだろうか?

(16)エピローグ5・コラムを中断した理由

その5。コラムを中断した理由について。

「渡辺茂夫と渡辺季彦」のコラムは、当初「薔薇の記憶と見出された時」というタイトルで、2006年3月から掲載を始め、2006年8月に第7回を掲載したところで中断に入った。

当時、ブログに書きたいテーマが多くあって、ほかのテーマに浮気をしたことが一つの理由であったが、もう一つの理由は、CD『神童』を聴き始めたことにあった。

茂夫がグラズノフ「ヴァイオリン協奏曲」を東京フィルハーモニー交響楽団と協演しているのを聴いて、両者の落差に呆然としてしまって、それから先聴き続けることができなくなった。現在の東京フィルハーモニーではそんなことはないが、失礼ながら、当時の東京フィルハーモニーでは茂夫に太刀打ちすることなど到底不可能なことだった、ということを理解した。それで、CDを聴き続けるのを中断することにした。現在ではどうにかその障害を克服して、CDを聴き、茂夫の演奏と作曲について書き続けることができる。

今は、(当時の)渡辺茂夫と(現在の)東京フィルハーモニーが協演したら、どのようなパフォーマンスになるのだろうか、ということを夢想している。
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このコラムにコメントを寄せてくださったり、質問に答えてくださったりした、sugiee さん、フィールドさん、ウッドストックさん、みっちっちさん、俵田武彦氏のご家族、そして、放送ライブラリーの学芸員の方にお礼を申しあげます。  (2008/5-6)


渡辺茂夫と渡辺季彦(10-11)見出された時

2013-03-22 07:12:50 | 音楽の慰め

 

(10)渡辺季彦の事績 

渡辺茂夫と渡辺季彦は二人三脚で「ヴァイオリン道」を歩んできた。
渡辺茂夫が大成(といっていいかどうかためらわれるが)するに当たって、渡辺季彦の果たした役割はとてつもなく大きい。

季彦自身、「ヴァイオリンの音色についてお誉めいただいておりますが、これは・・・レオポルド・アウアー、カール・フレッシュ、そして私の奏法によるものと考えます。」と言い切っている。(『神童』のライナー・ノーツより、1996年)

季彦が茂夫の英才教育を始めた時(1946年ころか)から50年間、季彦のヴァイオリン教授法の信念に揺るぎはない。

それならば、なぜ、季彦は茂夫を手離してアメリカに留学させたのか? これが、1996年にテレビ・ドキュメンタリー「よみがえる調べ 天才バイオリニスト渡辺茂夫」を見た時以来、私の抱いてきた疑問であった。

その疑問は、『神童』『続・神童』に収録されているオーケストラとの協演を聴いて氷解した。茂夫とオーケストラとでは、レベルが違いすぎるのだ。茂夫が自由奔放に弾いているのに対して、オーケストラはつぶやくように、単調な節をつけているだけで、協奏にならない。

日本の中では茂夫の才能をこれ以上伸ばす環境がない。これが、季彦の下した判断だったのだ。

茂夫の教育を誰の手に委ねるか、については、様々な動きがあったようである。
江藤俊哉は、カーティス音楽院でジンバリスト氏に教えてもらうのがいいと進言したらしい(1954年)。
同じく1954年にヤッシャ・ハイフェッツはジュリアード音楽院に入学することを勧める。
1955年には、ダヴィッド・オイストラッフの前で茂夫は演奏を披露している。

結局、茂夫はジュリアード音楽院でイヴァン・ガラミアン教授に師事することになるのだが、奏法を巡り師弟の対立が生じたことはすでに述べた通りだ。

ここで、仮定の話だが、季彦が茂夫に同道してアメリカに行けばよかったのではないか、という荒唐無稽な考えが浮かぶ。「ステージ・ママ」ならぬ「ステージ・パパ」であるが、奏法について季彦がガラミアン教授と徹底的に討論する機会があれば、結果はともあれ、茂夫が一人追い込まれることは避けられたのではないか、と思うのだ。

季彦に後悔があったとすれば、この一点に尽きるように思われる。 (つづく。2008/5)

(11)見出された時

茂夫帰国の1958年から、茂夫の亡くなる1999年まで41年間。この間、茂夫は季彦の介護を受けて余生を送った。あたかも、この間、時が止まったように見える。しかし、時は止まっていなかった。

1988年に「渡辺茂夫ヴァイオリン演奏の記録」というCD(3枚組。非売品)がまとめられた。それに尽力した俵田武彦氏も鬼籍に入られたという。

そして、1996年の「渡辺茂夫現象」とでもいうべき、茂夫の奇跡的復活。
2006年の渡辺茂夫作曲の「ヴァイオリン・ソナタ」2曲のCD発売。

埋もれかけた一人の天才ヴァイオリニストは、48年かけて、確実に見出された。

時はしばしば忘却の味方をするものだが、茂夫の場合は、時の経過が醸成する何かが働いているように思える。それは、戦後の混乱期への郷愁かもしれないし、「蒼穹」を想起させる茂夫の磁力かもしれないし、また、今は忘れられかけているアウアー奏法のもたらす「深くたゆたう」音色のせいかもしれない。

2006年3月にこのコラムを書き始めてから、読者からコメントを寄せていただいた。中には、横浜の放送ライブラリーに足を運んだ方もおられた。茂夫の魅力は今なお失せず、新しいファンを獲得し続けているようだ。現在も、渡辺茂夫は「見出され」続けている、といってよい。
(2008/5)


渡辺茂夫と渡辺季彦(8-9)蒼穹の譜

2013-03-20 07:46:18 | 音楽の慰め

 

(8)渡辺茂夫の演奏

渡辺茂夫の演奏については、「神童(全2枚)」、「続・神童」(以上、東芝EMI)と「グルリット作曲ヴァイオリン協奏曲」(ミッテンヴァルト)の4枚のCDを聴いた。

「神童(全2枚)」のうちの1枚がソロ・アルバムで、14曲の演奏を収録している。

何回か繰り返し聴き、しばらく間をおいて、思い出した曲の順に感想を述べると:

初めに浮かんだのは、意外にも、パガニーニ「魔女たちの踊り」であった。ヴァイオリン演奏の超絶技巧でおなじみのパガニーニにしては、おとなしい練習曲で、それを茂夫は律儀に弾いている。と思ったのだが、藤沼幹雄氏の解説によると、ピチカート、スタッカート、フラジオレット、ダブル・ストッピングなどの難技巧がちりばめられた曲だそうだ。これには驚いた。技巧を感じさせないほどに、技巧を自家薬籠中のものに消化してしまっているのだ。

次に思い出したのは、これも、意外なことだが、タルティーニ「コレルリの主題による変奏曲」であった。クライスラーの編曲になる曲だが、物憂げな春の午後を思わせるような曲を、茂夫は朗々と弾いている。やはり、藤沼氏の解説によると、タルティーニの得意なトリルが至る所に存在しているそうだ。素人にはそれも感じさせない演奏だ。

ほかにも、次から次へと、茂夫の演奏が記憶からよみがえる。サラサーテ「ツィゴイネルワイゼン」やサン・サーンス「序奏とロンド・カプリチオーソ」などの名曲の名演奏も収録されている。

大きく分けて、緩やかなパッセージを朗々と演奏するもの(F・ショパン「ノクターン」がその代表だ)と速いパッセージを疾駆するもの(H・ヴィエニアフスキ「スケルツォ・タランテラ」がその典型だ)とがあり、そのどちらにおいても、いわゆる技巧を感じさせない。すでに、「うまい演奏」の域を超えてしまっている。

これらの演奏が茂夫の13歳と16歳の時のものだと知ると、何という成熟ぶりかと驚嘆させられる。
今でこそ、五嶋龍や庄司紗矢香など、十代前半から才能を開花させたヴァイオリニストは珍しくないが、茂夫の場合、なにしろ、時代が時代だ。1954年(13歳)と1957年(16歳)に時代を変換してみると、茂夫の演奏の先進性や超時代性が判ろうというものだ。

(9)渡辺茂夫の作曲

渡辺茂夫は演奏家として一家を成すとともに、作曲家としても名を馳せていた。
彼の作曲した「ヴァイオリン・ソナタ第1番」と「ヴァイオリン・ソナタ第2番」が、木野雅之(ヴァイオリン)と吉山輝(ピアノ)の演奏で聴くことができるようになった(ミッテンヴァルトの制作)。録音は2005年11月だという。作曲が1953年頃だというから、50年ぶりのCDデビューである。

渡辺季彦によれば、厳しいヴァイオリン演奏の練習の毎日の中で、茂夫がいつ作曲の時間を持っていたか、まったく想像できない、というのだ。厳格な指導者の背後で舌を出している茶目っ気たっぷりの「神童」の姿を髣髴とさせるエピソードだ。

さて、「続・神童」の最後のトラックに、茂夫の作曲した「星空(アンダンテ)~ヴァイオリン協奏曲 作品4 第2楽章」が収録されている。江藤俊哉(ヴァイオリン)とマイケル江藤(ピアノ)が演奏したバージョンだ。茂夫11歳(1952年)の作品だそうだ。わずか4分足らずのこの曲から激しいインスピレーションを受けた体験を述べてみたい。

タイトルは「星空」だ。このことばに導かれるように、私にはある情景が見えるようになった。それは「蒼穹」と称すべきイメージだ。「蒼穹」とは青空の別称で、広辞苑(第4版)でもそれ以上の説明はない。

数年前、吉田秀和に導かれて、フェルディナント・ホードラーの絵を精力的に鑑賞して、次のコラムをまとめた。
スイスの休日  http://blog.goo.ne.jp/ozekia/d/20061103

吉田はホードラーの幾何学的パースペクティブの独自性や、具象にもかかわらず、非現実的・非日常的・装飾的高みを獲得している不思議や、類似した形態の反復がもたらすパラレリスム(「平行の原理」)を指摘している。

このようなホードラーの特徴を表わす絵として私の注目したのが、その山岳画であった。幾何学的パースペクティブ、非現実的・非日常的・装飾的高み、パラレリスムのいずれもが彼の山岳画に現われていることは、その後、東京・渋谷の Bunkamura ザ・ミュージアムで開かれた展覧会において確認することができた。

そして、ホードラーの山岳画が喚起するイメージが「蒼穹」であることに思い至った。

山の姿を映す湖(幾何学的パースペクティブ)、山を左右対称に配置する構図(パラレリスム)、天球を想起させる空と雲(非現実的・非日常的・装飾的高み)、そして全体を支配する青色。これらが相俟って、「蒼穹」を作り出しているように思った。

同じころ、フィギュア・スケートの荒川静香選手の演じた「イナバウアー」が話題になっていた。ライト・ブルーのコスチュームをまとった荒川選手が舞う「イナバウアー」にも、同じく「蒼穹」のイメージが現われていたことは記憶に新しい。

江藤俊哉の奏するヴァイオリンの調べは、長く、ゆっくりと音階の上下を繰り返すが、そこに、ホードラーの山岳画や荒川静香選手の「イナバウアー」との類似性を発見して、我ながらびっくりした。

渡辺茂夫が「星空」と名づけているように、彼の中には、夜空が見えていたのかもしれない。
しかし、夜空に限ることはないのではないか。むしろ、私には、「ヴァイオリン協奏曲 作品4 第2楽章」の表象するものは、さらに普遍的な、究極の天球である「蒼穹」であるように思える。そこには、遥かに高い象徴性や無限性が感じられる。

わずか11歳の少年が描いた「永遠」とは、一体何なのだろう? (2008/4-5)


渡辺茂夫と渡辺季彦(6-7)「渡辺茂夫現象」

2013-03-18 07:15:50 | 音楽の慰め

(6)渡辺茂夫に関心を寄せる人々

これまでは、毎日放送が1996年に放映したドキュメンタリー「よみがえる調べ 天才バイオリニスト渡辺茂夫」に則して記述をすすめてきたが、これからの回では、さらにほかからの情報を取り混ぜて、渡辺茂夫・渡辺季彦について述べていきたい。 

放送ライブラリーの学芸員は、私の探索している天才ヴァイオリニストが渡辺茂夫ではないか、と示唆した後、次のようにことばを継いだ。「本も出ているようです。演奏を集めたCDも出ているようです。この毎日放送のドキュメンタリーの他にもテレビの特集があったかも知れません。しかし、このライブラリーで視聴できるのは、毎日放送のものだけです。」

ずいぶん多くの情報を持っておられる。そこで聞いてみた。「ちなみにどのように検索されましたか?」 学芸員の答えは:「お話を伺って、ヴァイオリニスト、留学、自殺、をキーにして検索しました。」 あれれ? 確か私も1年か2年前にインターネットで「ヴァイオリニスト 留学 自殺」をキーにして検索したはずだが、ヒットしなかったではないか。なぞが残った。

帰宅後、インターネットのヤフーのサイトで、再び「ヴァイオリニスト 留学 自殺」で検索をかけたところ、sugieeさんの「BOY‘S VOICE ~永遠の少年たち~」というブログがヒットした。その2005年6月30日の記事は「“神童”と呼ばれた少年ヴァイオリニスト 五嶋龍と渡辺茂夫」と題して二人の少年ヴァイオリニストを紹介している。五嶋龍は現役だから除いて、初めて渡辺茂夫の名が私の前に現れた。記事は悲劇のヴァイオリニストを簡潔に紹介している。
私の検索した2003年か2004年にはヒットしなかった記事である。ここにも、渡辺茂夫に心を寄せる人がいた。

さらに、もう一つ、「音楽の冗談」というホームページもヒットした。その中に、「渡辺茂夫」の項があり、練達の士の手になるとみられる渡辺茂夫の生涯の紹介記事が載っていた。記事の掲載時期は明らかではないが、1999年の渡辺茂夫の訃報(朝日新聞)まで収録している。 

渡辺茂夫に対する関心は伏流のように継続しているようである。 
   
(7)渡辺茂夫の再生

渡辺茂夫という固有名詞を手にしてからは、関連する情報の収集がはかどった。
山本茂「神童」という本(文芸春秋)があると知り、ブックオフを数店まわって入手した。
また、「神童」「続・神童」というCD(東芝EMI)はアマゾンのマーケットプレース(リサイクル市場)で入手することができた。

ここで渡辺茂夫を取り上げた各メディアを時系列に沿って整理すると以下のようになる:

1996年3月  山本茂「神童」、文芸春秋(評伝ドキュメンタリー)[以下、CDと区別するために、「評伝」と呼ぶ]
1996年7月  「神童(全2枚)」、東芝EMI(演奏記録を復刻したCD)
1996年10月 「よみがえる調べ 天才バイオリニスト渡辺茂夫」、毎日放送(テレビ・ドキュメンタリー)
1996年11月 「続・神童」、東芝EMI(演奏記録を復刻したCD)

1996年に渡辺茂夫の再生の動きが一挙に噴出したことがわかる。そこに至るまでには、関係者による永年にわたる努力があったようで、その成果が「渡辺茂夫ヴァイオリン演奏の記録」というCD(非売品)にまとめられたという(「評伝」)。 

山本茂の「評伝」は、渡辺茂夫が国内で「神童」の評判をとるまでと、アメリカに留学して失意の帰国をするまでとの二部構成で、この天才ヴァイオリストを詳細に跡付けている。評伝の対象人物がまだ存命で、しかし、本人から事情を聞くことはできないという条件の中で、抑制の利いた筆致で多くの情報を提供している。間違いなく、この「評伝」が渡辺茂夫の再生の導火線になったのである。しかし、私は山本茂の「評伝」の発刊をその当時知らなかった。渡辺茂夫の再生の動きを私がなぜ見落としたか、また、なぜ渡辺茂夫の名前が記憶から消滅したのか、なぞが解けることはない。

以後、渡辺茂夫を取り上げた各メディアは増え続けている。眼にとまったものだけを挙げると:

1998年5月 「驚き桃ノ木20世紀 天才バイオリニスト渡辺茂夫」、テレビ朝日(テレビ・ドキュメンタリー)
2006年6月 「グルリット ヴァイオリン協奏曲」、ミッテンヴァルト(演奏記録を復刻したCD)
2006年7月 「渡辺茂夫 ヴァイオリン・ソナタ」、ミッテンヴァルト(渡辺茂夫の作曲を木野雅之=ヴァイオリン=と吉山輝=ピアノ=が演奏した待望の新譜CD) (2006/7-8)


渡辺茂夫と渡辺季彦(1-5)薔薇の記憶

2013-03-16 07:52:32 | 音楽の慰め


(1) テレビ・ドキュメンタリーを探して

ここ数年、あるテレビ・ドキュメンタリーを探していた。
一人の天才ヴァイオリニストを記録したもので、戦後まもなく国内で「神童」のように活躍し、周りの期待を担ってアメリカに留学し、師匠との軋轢や失恋が原因で自殺を企て、脳に障害を残して失意の帰国をし、以後パトロンの介護を受けながら生活する彼を見つめたドキュメンタリーは、私の琴線を揺さぶるものを持っていた。

彼とは誰か? ところが、彼の名前が私の記憶から欠落してしまっているのだ。
今から10年か15年前、年代でいえば、1990年から95年の間に、確か週末、土曜日か日曜日の午前に、NHKで放映されたはずである。
なんとしても彼の名前を知りたい。できたら、このテレビ・ドキュメンタリーをもう一度見てみたい。こう願っていた。

一通りの探索は試みた。まず、インターネットで、「ヴァイオリニスト 留学 自殺」をキーにして検索したが、ヒットしなかった。
東京・愛宕山にあるNHK放送博物館の図書室で、過去のNHKの番組を調べてみたこともある。少し幅広に、1985年から2000年までチェックしたが、それらしい番組は見当たらなかった。
また、埼玉・川口にあるNHKアーカイブスを訪れて、過去の番組を調べようとしたが、係員のありきたりの応対に、「これはダメだ」とあきらめて早々に退散した。

私の探索は頓挫した。

ところが、2005年秋、偶然にも、私の願いが叶うことになる。 

(2) 放送ライブラリーにて

2005年11月、横浜・中華街から関内・伊勢佐木町に向かう途中で、「放送ライブラリー」という看板のあるビルに出くわした。初めて見る建物だ。「ひょっとしたら」という念が頭をよぎった。一人の天才ヴァイオリニストを記録したテレビ・ドキュメンタリーを探していた私は、ライブラリーの学芸員に私の探し物を伝えて、調査を依頼した。「ダメでもともと」に近い気分だった。15分ほど経った時、学芸員が一枚の紙切れを持って戻って来た。・・・「映像90 よみがえる調べ 天才バイオリニスト渡辺茂夫 1996.10.13 毎日放送」

学芸員:「お話を伺い、検索してみたところ、候補の一つとして、この番組がヒットしました。こちらで視聴することができます。」
渡辺茂夫という名に心当たりはないものの、この番組が私の探していたものに違いない、と思った。私は学芸員に丁重にお礼を述べ、番組の視聴を申し込んだ。

放送ライブラリーは「財団法人 放送番組センター」が運営する施設で、NHK、民間放送、横浜市が資金を拠出し、加えて宝くじなどからの賛助金により成り立っているらしい。初めて知った施設であるが、ずいぶん有益な事業を営んでいるものだ、と感心した。放送された番組・コマーシャルから収集・保存する価値のあるものを選び出し、編集を施した上で、希望者に公開しているという。パンフレットで場所を確認すると、みなとみらい線の日本大通り駅の前だ。 (2006/4)
 
(3)「よみがえる調べ 天才バイオリニスト渡辺茂夫」

毎日放送が1996年に放映した54分のテレビ・ドキュメンタリーを再び見た感動は筆舌に尽くしがたい。その感動はしばらく措いて、まず、以下に、番組から分かった事実を並べてみる:

a.渡辺茂夫は伯父・季彦夫妻の養子である。
b.昭和23年、7歳でリサイタルを開く。
c.ヤッシャ・ハイフェッツに紹介される。
d.ハイフェッツから、ジュリアード音楽院のイヴァン・ガラミアン教授に就いて勉強するように勧められる。
e.自宅は東京・白金。

f.昭和30年(14歳か?)、渡米。初めは、カリフォルニア州サンタ・バーバラにあるミュージック・アカデミー・オブ・ウェストで2ヶ月過ごす。
g.その後、ニューヨークに移り、ジュリアード音楽院に学ぶ。
h.そこで、師事したガラミアン教授と衝突したらしい。
茂夫は、ハイフェッツ流のアウアー奏法(目方のかけ方が「深い」ボウイング法)を信奉しているのに対して、ガラミアン教授は目方のかけ方が「浅い」奏法を強烈に教え込もうとしたようだ。
i.次第に、日本嫌い・孤独が募ってくる。
j.昭和32年、転地療養に向かい、精神科にかかる。カウンセラーの所見は、「権威に対する態度が頑なで、自己制御が効かない」
k.昭和32年9月、ニューヨークに戻る。
l.昭和32年11月、自殺を図るが、未遂に終わる。

m.昭和33年(1958年)、帰国。
n.以後、モノレールの走る郊外の養父宅で、養父の介護を受ける。養父宅には、見事な薔薇が咲き誇っている。現在、養父は80歳代、茂夫55歳。 

(4)天才ヴァイオリニストと養父

毎日放送が1996年に放映した54分のテレビ・ドキュメンタリー「よみがえる調べ 天才バイオリニスト渡辺茂夫」から受けた感動を分析してみたい。

このドキュメンタリーでは、渡辺茂夫と養父・渡辺季彦との関係が様々に描写されている。
季彦もヴァイオリニストであったが、習い始めたのが遅くて大成しなかった。その経験から、茂夫には幼い時から英才教育を施す。茂夫は期待に応えて「神童」と呼ばれるほどに成長する。まるで、モーツァルト父子の20世紀版である。

アメリカ留学もおそらく季彦のプランを実現させたものだろう。しかし、茂夫の自我は季彦の手の上に収まらないほど大きかった。ヴァイオリン奏法についてはもはや誰の指導も必要と感じていない。音楽以外にもしたいことが多々ある。おっと、これはモーツアルトからの連想だが。季彦の期待との間に徐々にズレが拡がっていった。

自殺を図り未遂に終わるものの、脳に重い障害を残して帰国した茂夫を受け入れた季彦は、それまでの茂夫への過度の期待を悔いつつ、茂夫の介護に自らの余生を捧げる決心をしたのであろう。茂夫17歳、季彦40歳代、新しい二人三脚の始まりだ。

以後、この番組の放映時の1996年(茂夫55歳、季彦80歳代)までの38年は気の遠くなるほどの長い時だ。舞台はモノレールの走る郊外の町の季彦宅だ。
すでに老年の季彦が、老けが目立つもののまだ壮年の茂夫を後ろ抱きにして階段を下りるシーン。茂夫の歯磨きを介助する季彦。奇妙な共生が印象深い。季彦は老人らしい穏やかな表情で、黙々と作業を続ける。一方の茂夫も穏やかな表情で介護を受ける。何年もかかって築いた一種の「調和」なのだろう。

季彦が飾り棚からヴァイオリンを何棹か取り出す。茂夫のヴァイオリンを取り出した時だけ、茂夫がニコニコと笑みを返す。茂夫の数少ない反応だ。
季彦宅に咲く見事な薔薇のアーチが番組を締めくくっている。薔薇は何を意味しているのだろう?

このドキュメンタリーは茂夫だけでなく、茂夫と季彦との関係に照明をあてたために、奥行きのある仕上がりになったといえる。 
   

(5)薔薇の記憶

毎日放送が1996年に放映したドキュメンタリー「よみがえる調べ 天才バイオリニスト渡辺茂夫」を2005年に再度視聴したところ、記憶に合致する部分と記憶とは異なる部分があることが分かった。ここで、記憶の確かさと記憶のあいまいさについて検証してみよう。

(a)まず、記憶に完全に合致する部分を記すと、それは渡辺家の表を飾る薔薇のアーチである。
これは、素人のたしなみを超えた立派な造りで、その印象も含めて正確に記憶に残っていた。この薔薇によって、このテレビ・ドキュメンタリーが鮮明に脳裏に残った、といって過言ではない。

(b)次に、このドキュメンタリーはNHKが放映したものだと記憶していたが、実際は毎日放送(首都圏ではTBS)が放映していた。ドキュメンタリーではNHKの実績が抜群なので、ドキュメンタリー=NHKの先入観念が出来上がっていたのかもしれない。この記憶違いは私だけのものではなく、このブログの読者にも同じ取り違えがあることから、よく起こる現象だといえるかもしれない。

(c)次は、茂夫の自宅について。私の記憶では、東京・白金であった。実際は、留学前の自宅は白金だったが、現在(放映時の1996年)はモノレールの走る郊外の街なのだ。ところが、モノレールの映像の記憶が全く欠落して、現在でも自宅が白金だと誤解していた。

(d)次は、養父・渡辺季彦について。私の記憶では、季彦は保護者(パトロン)であって、養父であるとは記憶していなかった。これは記憶違いというよりも記憶の抽象化作用が記憶過程で起こったのだと思う。

(e)次は、茂夫の自殺の原因について。私の記憶では、自殺の原因の一つが彼の失恋にあった、というものだが、実際には、このドキュメンタリーでは彼の失恋については全く触れていないことがわかった。どこでこの失恋話が紛れ込んだのか? おそらく、放映以降に別のソースからの情報を取り込んで記憶したものだろう。そういえば、茂夫のCDが出ていることや、茂夫が亡くなったことも、私の記憶に刷り込まれていた。ドキュメンタリーで得た情報とその後別のソースで得た情報を合成して私の記憶が形成されていったに違いない。

(f)それにしても、これほど関心を抱き続けてきた渡辺茂夫の名を忘れたのはどうしてだろう?
依然として謎のままだ。

薔薇はそれ自体豪華であるが、それを丹精に育てる人をも映す鏡のようである。近くにも、門に薔薇を植えているお宅がある。薄いピンクの花が今6月満開で、道行く人にも優しさを振りまいている。 (2006/3-6)

 


音楽紀行

2012-11-09 07:25:12 | 音楽の慰め

 

「今度、ドイツに行ってきます。」

「この前、ポーランドに行ったばかりでしょ。」

「ポーランドは将棋の旅。今回のドイツは音楽を聴く旅です。ベルリン・ドイツ・オペラでワーグナーの楽劇を4本、バーデンバーデンでベルリン・フィルのイースター・フェスティバルを聴いてくるつもりです。」

「ずいぶん欲張りなプランね。」

「はい、今回は思い切り贅沢な旅程を組みました。」

 

「目玉は?」

「3年前のバイロイト音楽祭で、ワーグナーの『ニーベルングの指輪』四部作と『パルジファル』を聴きました。それで、残りの楽劇も聴きたいと思っていたのですが、ベルリン・ドイツ・オペラで『タンホイザー』『ローエングリン』『ニュルンベルクのマイスタージンガー』『トリスタンとイゾルデ』を4夜連続で上演するのを発見して、行こう!と決めました。」

 

「バーデンバーデンは? 南部の保養地でしょ?」

「ええ。ヘルベルト・フォン・カラヤンの時代には、ベルリン・フィルはザルツブルグでイースター・フェスティバルを開催していました。チケットは高額でプレミア・チケット化していて、誰でも手に入るものではありませんでした。現在は、音楽監督がサイモン・ラトルになり、バーデンバーデンでイースター・フェスティバルを開催するようになったようです。オペラ、オーケストラ・コンサート、室内楽コンサートなど、盛り沢山なプログラムが用意されています。こちらは、たまたま見つけ、日程も許すので、行ってみることにしました。オペラとオーケストラ・コンサート以外の室内楽などは安い価格で楽しむことができます。」

 

「でも、あなた、そんなにクラシック音楽が好きだった?」

「いいえ。LPレコードをよく聴いたのは20歳代、コンサートに通ったのが30歳代-40歳代でした。その後はLPもCDも聴かなくなり、コンサート通いもしなくなりました。」

「それがまたなぜ?」

「仕事を退役して、自由に旅行ができるようになったのが大きいですね。私の場合、ヨーロッパ旅行すなわち「音楽と絵画の鑑賞の旅」ですから。」

「そういえば、「プラハの春」というコラムがあったわね。あれも、音楽と絵に関する記事が多かったのを思い出したわ。」

「はい、それに建築を加えれば、私の見たいもの・聴きたいものがすべて表わせます。」

 

「それで、今回も、旅から帰って、コラムを発表するつもりなんでしょう。」

「はい、『ドイツ:早春の旅』といタイトルを考えました。」

「まったく、あなたときたら。旅をしてコラムを書くのだか、コラムを書くために旅をするのだか。」

「いいポイントをついていますね。私もどちらかわからなくなりました。」

「土産話を期待していますよ。」 (2012/11)


LPレコード

2012-11-03 07:24:56 | 音楽の慰め

 

「先輩、折角名古屋までいらしたのなら、わが家に立ち寄ってください。LPレコードを聴いていただきたいです。」

「わかりました。」

「昔から買い溜めたクラシック音楽のLPレコードがあるんですが、レイカのレコードクリーナーとライラのスタイラスクリーナーを使って清掃したら、見違えるほどきれいな音が甦ったのですよ。」

「それは楽しみです。」

 

「何を聴かせましょうか?」

「オーディオの試聴には、室内楽とヴォーカルを聴くのがいいと思います。私の家では、シューベルト『アルペジョーネ・ソナタ』とマーラー『子どもの不思議な角笛』で試聴しています。」

「同じものはないので、モーツァルト『フルート四重奏曲』をまず聴きましょうか?」

「いいですね。」

 

「ずいぶん、まろやかな音が出ますね。」

「このタンノイのスピーカーは最近入れました。これは、気に入りました。」

「アンプのラックス507sは、見たところ、前面パネルのデザインは私のラックスのアンプと似ています。」

「これもずいぶん高かったのですが、思い切って買いました。」

「いいアンプは20年持ちますよ。」

 

「ヴォーカルを何か聴かせてください。」

「ディートリッヒ・フィッシャー・ディースカウの『冬の旅』があります。モノーラルですが。」

「いいですね。」

「ピアノはジェラルド・ムーア。」

「いいですね。まったく、無理なく、フィッシャー・ディースカウについていきますね。ただ、モノーラルらしく、音のヴォリューム感が今一つと感じます。」

 

「次回には、私のお皿を持参しましょう。それで、オーディオ・システムの実力を測定してみたらいかがでしょう。」

「怖いようでもあり、楽しみでもありますね。」

「私のオーディオ・システムは現在休止中ですが、再稼動したら、是非うちにも聴きにいらしてください。」  (2012/10)


バイロイト詣で(19-20) 道草

2011-09-19 07:03:41 | 音楽の慰め

 

19)『ニュルンベルクのマイスタージンガー』 

 

ケーブル・テレビの「クラシカ・ジャパン」チャンネルで、ウィーン国立歌劇場公演『ニュルンベルクのマイスタージンガー』が放映された。2008年の公演を収録したもので、指揮は、ドイツ・オーストリアなどドイツ語圏で圧倒的な人気を誇るクリスティアン・ティーレマン。今年のバイロイト音楽祭で『ニーベルングの指輪』を振ったのを、私も目撃した指揮者だ。

 

バイロイト音楽祭の『ニュルンベルクのマイスタージンガー』はチケットが取れなかったので、ちょうどいい埋め合わせになった。

 

演出はオットー・シェンク。1980年代から続いている演出だそうだ。バイロイト音楽祭で流行りの「二つの時代の二重写し」などはまったくなく、17世紀-18世紀のニュルンベルクのマイスターの組合を舞台にしたものだ。

 

ワーグナーの楽劇には珍しく、この作品では、善玉・悪玉の区分がはっきりしている。善玉=騎士ヴァルターや靴職人ハンス・ザックス。悪玉=書記ベックメッサーや何人かのマイスターたち。

 

騎士ヴァルターの表わす「無垢」の類型は『パルジファル』のパルジファルなどに共通するが、ハンス・ザックスの表わす「市民」の類型は、ワーグナーのほかの楽劇には見られないものだ。

 

マイスターの組合では、マイスタージンガーになれるための「条件」が細かく定められ、守られている。例えば、詩は数行からなる「連」の積み重なりからなり、各連は脚韻を踏まねばならない、だとか、歌いだしが明確でなければならないし歌い終わりもまた明確でなければならない、だとかの「規則」を順守するのが、マイスターの組合の大原則となっている。

 

これに対して、ハンス・ザックスは、「規則」を踏み外した歌いぶりでも、歌い手の感性が届くのであれば、認めるべきだという主張を展開する。これは、陋習に囚われない近代的「市民」の考え方である。

 

善玉・悪玉劇の中に「開明派」の近代的人間類型を描き出したところが『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の新しさだ。

 

テレビでは、全3幕を通しで放映した。4時間45分の間、テレビの前に座り続けることは滅多にないことだ。

 

 

20)『トリスタンとイゾルデ』

 

『ニュルンベルクのマイスタージンガー』を観た翌日、NHK・BSハイビジョンで『トリスタンとイゾルデ』が放映されるのを観た。メトロポリタン歌劇場での2008年の公演だ。「ワーグナーの楽劇はドイツ語圏で観なければ意味がない。」というのは正論だが、たまには、メトロポリタン歌劇場のワーグナーもいいものだ。ちょうど、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』同様、『トリスタンとイゾルデ』も、バイロイト音楽祭で見損なったので、このテレビ放映に期待した。

 

『トリスタンとイゾルデ』はワーグナーの楽劇の中でも、とりわけ、難しいものだ。何が難しいかというと、台本と歌曲との融合が難しいといえばいいのだろうか。

 

ほかの楽劇と同じように、中世の神話と伝説の土地が舞台となっている。イゾルデは、訳あって、トリスタンを憎んでいる。それで、トリスタンに毒杯を飲ませ、自分もそれを飲んで、果てようと試みるが、侍女ブランゲーネの気転で、毒杯がほれ薬(媚薬)にすりかえられ、その結果、トリスタンとイゾルデは共に媚薬の効果で、互いに愛し合うことになる。(第1幕)

 

以後、二人は、イゾルデの嫁ぎ先であったマルケ王を裏切り、愛に没頭する。(第2幕)

 

マルケ王の手下に傷を負わされたトリスタンは予後の甲斐なく、亡くなる。かけつけたイゾルデもトリスタンを追うように息絶える。(第3幕)

 

このように、台本は単純といっていい。「薬のすりかえ」などは、オペラではお馴染みの道具立てで、『ジークフリート』で、ジークフリートがブリュンヒルデを裏切るのもヘルムヴィーゲのもたらした媚薬だった。ドニゼッティなどのイタリア・オペラでもありふれた道具立てだ。

 

この「薬のすりかえ」だけで、「憎しみ」が「愛」に変わっていく、というのは、安易すぎる気がする。

 

だが、そこで展開される、嫋々とした「愛の歌」(第2幕)と切ない「愛の死」(第3幕)の歌唱は、まさしく空前絶後だ。この絶唱があるために、『トリスタンとイゾルデ』をワーグナーの最高傑作と位置づける批評家も多いという。この意見には、今のところ、留保を付けざるをえない。

 

今回放映されたメトロポリタン歌劇場の『トリスタンとイゾルデ』では、トリスタン役のテノール歌手が急病で、代役が急遽ベルリンから呼び寄せられ、リハーサルなしの「ぶっつけ本番」で、あの長丁場を勤めたという。

 

演出(ディーター・ドルン)は、抽象度の高い大道具と照明の効果的使用で、観客を厭きさせない。

指揮はジェームズ・レヴァイン。 

 

この日も4時間30分テレビの前に釘付けになった。二日連続で、バイロイトの体験を再び味わうこととなった。 (2009

 

 


作曲家談義

2009-07-27 01:00:00 | 音楽の慰め

(1)三大作曲家に異変あり!

クラシック音楽の世界は、いわば、閉ざされて澱んだ世界です。18世紀-19世紀の作曲家の作品をその後の演奏家が手を変え品を変え演奏してみせることを繰り返しています。こういうと悪口に聞こえますが、必ずしもそうではなく、演奏の仕方で作品の表情がガラリと変わることは、例えば、グレン・グールドのバッハ演奏で経験したことです。作曲と演奏という二つの要素でクラシック音楽が成り立っていることに間違いありません。

クラシック音楽で大作曲家を三人挙げよ、といわれれば、誰しも、バッハ・モーツァルト・ベートーヴェンを挙げるでしょう。この並びは生まれの順です。このうち、誰が特に好き、という意見は様々にありますが、この三人の一人として「大」作曲家ではない、と主張する人はあまり見かけせん。その訳を私なりに解釈すると、次のようなところにあります。

バッハが人間の宗教的・倫理的側面を代表し、モーツァルトが人間の遊戯的・愉悦的側面を代表し、そして、ベートーヴェンが人間の意志的・構築的側面を代表するというように、三者相俟って人間の総体を作り出すということにわれわれが気づいているからです。一人だけに絞るというわけにはなかなかいきません。このうちで最強の作曲家は誰ですか? と聞かれても答えようがない、というのが大方の意見でしょう。

朝日新聞の2006年3月11日号「be on Saturday」に、「好きな作曲家は誰?」というアンケート結果が載っています。それによると、モーツァルト・ベートーヴェンは上位三人に入っていますが、バッハははずれています。5位です。代わってショパンが2位に入っています。「好き」だけの基準で人気投票をすれば、このような結果もありうるのでしょう。これが、「クラシック音楽の歴史上、最も偉大な作曲家は誰ですか?」と誘導訊問風なもったいぶった設問であれば、違う結果になるのではないでしょうか? そう、バッハ・モーツァルト・ベートーヴェンに。

いずれにしても、この「好き」のアンケートは、クラシック音楽の三大作曲家にも異変のきざしが生じていることを図らずも表しています。

さて、更にワクを拡げて、五大作曲家は? 七大作曲家は? 
興味ある設問ですが、この議論はまた次回にでも。    (2006年4月)

(2)大作曲家の条件

クラシック音楽で大作曲家を三人挙げよ、といわれれば、多くの人が、バッハ・モーツァルト・ベートーヴェンを挙げます。では、五大作曲家は? はたして、共通の見解はあるのでしょうか?

ここで、「大」作曲家の定義は何か、を考えてみたいと思います。
私の考えは単純で、多くのジャンルで良い作品を生み出した人と定義します。
クラシック音楽の楽曲は大きく括ると、(a)管弦楽曲(交響曲・協奏曲など)、(b)室内楽曲(弦楽四重奏曲・ヴァイオリン・ソナタなど)、(c)器楽曲(ピアノ・ソナタなど)、(d)声楽曲(歌曲・オペラ・カンタータなど)に分けられます。これら4つのジャンルのすべてで名曲を生み出していれば、「大」作曲家です。

バッハには、(a)ブランデンブルグ協奏曲、(b)フーガの技法、(c)無伴奏チェロ組曲、(d)教会カンタータ、があります。
モーツァルトには、(a)交響曲、(b)弦楽四重奏曲、(c)ピアノ・ソナタ、(d)「フィガロの結婚」などのオペラ、があります。
ベートーヴェンには、(a)交響曲、(b)弦楽四重奏曲、(c)ピアノ・ソナタ、(d)オペラ「フィデリオ」、があります。
この三人は軽く「大」作曲家の条件をクリアしています。

この三人に続く二人を挙げるならば、シューベルトとブラームスになりましょうか。
シューベルトには、(a)交響曲、(b)弦楽四重奏曲、(c)ピアノ・ソナタ、(d)「美しき水車屋の乙女」などの歌曲、があります。
ブラームスには、(a)交響曲、(b)弦楽三重奏曲、(c)ピアノ・ソナタ、(d)歌曲「美しきマゲローネのロマンス」、があります。
いずれも「大」作曲家の条件をクリアしているといえます。

しかし、以上5人を五大作曲家と呼ぶことには、三大作曲家の場合とは比べものにならないほどの異論が予想されます。ドヴォルザークだって、チャイコフスキーだって、立派に「大」作曲家の条件をクリアしているではないか? というわけです。

興味ある問題ですが、この議論はまた次回にでも。    (2006年5月)

(3)大作曲家の条件・続

ドヴォルザークやチャイコフスキーが「大」作曲家に当てはまるかについての議論の続きです。
ドヴォルザークには、(a)交響曲、(b)弦楽四重奏曲、(c)スラヴ舞曲集、(d)レクイエムがあります。
チャイコフスキーには、(a)交響曲、(b)ピアノ三重奏曲、(c)ピアノ・ソナタ、(d)オペラ「エウゲニー・オネーギン」があります。
この二人も「大」作曲家の条件を十分クリアしているといえます。

しかし、少し引っかかることがあります。この二人は民族色が強く出ていないだろうか?
ドヴォルザークがアメリカに亡命した後に作曲した交響曲「新世界より」や弦楽四重奏曲「アメリカ」には、聴くものが恥ずかしくなるほど、祖国ボヘミアへの望郷の思いが溢れています。
また、チャイコフスキーの作曲法はすみずみまでスラヴ魂で満ちています。交響曲「悲愴」やピアノ三重奏曲「偉大な芸術家の思い出のために」は、聴くものが締めつけられるほどの郷土愛が感じられます。それはそれで素晴らしいのですが、「普遍性」という観点からは、ややローカル色が強すぎるのではないでしょうか?

ここで、「大」作曲家になるのを妨げる減点要素として、民族性が強いことを挙げておきたいと思います。減点法は気が引けるので、作曲法の「普遍性」を「大」作曲家の条件として付け加えます。

ところで、私の選んだ五大作曲家(バッハ・モーツァルト・ベートーヴェン・シューベルト・ブラームス)は奇しくもみなドイツ・オーストリア系です。ところが、この5人からは、ゲルマンの民族色が強く伝わってこないのは不思議なことです。ワーグナーと比べると、その差がよくわかります。どのようにして彼らは普遍性を獲得したのか? いまだに解けない疑問です。

新潮文庫で、「カラー版作曲家の生涯」(*)という10巻のシリーズが出ていました。参考までに、そこで取り上げられた作曲家を列挙すると、バッハ・モーツァルト・ベートーヴェン・シューベルト・ブラームスに加えて、ショパン・ワーグナー・ブルックナー・チャイコフスキー・マーラーという顔ぶれです。チャイコフスキーを除くと、ショパン・ワーグナー・ブルックナー・マーラーの四人には共通の特徴があるように思います。それは・・・。  (2006年6月)

(4)専門店の魅力

ショパン・ワーグナー・ブルックナー・マーラーの四人に共通の特徴は・・・。それは、彼らそれぞれが、特定のジャンルで圧倒的な存在感を示していることです。ショパン:ピアノ曲、ワーグナー:オペラ、ブルックナー:交響曲、マーラー:交響曲、という具合です。そう、彼らは専門店なのでした。

バッハ・モーツァルト・ベートーヴェン・シューベルト・ブラームスなどの「大」作曲家がいわば百貨店に例えられるのに対して、特定のジャンルで余人を寄せ付けぬ傑作を残したのが、ショパン・ワーグナー・ブルックナー・マーラーなどの専門店的作曲家です。ほかにも、パガニーニ:ヴァイオリン曲、ヴェルディ:オペラ、プッチーニ:オペラ、ヴォルフ:歌曲、などが挙げられます。

専門店的作曲家の特徴は、熱狂的ファンの付いていることです。例えが適当かどうかわかりませんが、ヴェルディのオペラのファンはワーグナーのオペラを歯牙にもかけない、ということがしばしば言われます。ヴェルディのオペラがあればそれで十分で、ほかの作曲家・ほかの作品は目に入らないというわけです。

専門店的作曲家と百貨店的作曲家との優劣は論じられません。どちらも、それぞれの存在価値を持っています。  (2006年9月)

(5)私の好きな作曲家

ここで、私の好きな作曲家を披露しましょう。

バッハ・モーツァルト・ベートーヴェン・シューベルト・ブラームスの五大作曲家はもちろん大好きで、敬意を表しています。それぞれについて、曲目を挙げると:

バッハ:無伴奏チェロ組曲(ピエール・フルニエの典雅な演奏)や教会カンタータ群など。
モーツァルト:部屋で聴くなら弦楽四重奏や弦楽五重奏、劇場で聴くなら「ドン・ジョバンニ」や「フィガロの結婚」などのオペラ群。
ベートーヴェン:交響曲第4番・第3番。この組み合わせのコンサートなら、いつでもどこでも聴きたいと思います。
シューベルト:「美しき水車屋の娘」「冬の旅」「白鳥の歌」の3大歌曲。
ブラームス:交響曲第3番・第1番。これも、この組み合わせのコンサートなら、いつでもどこでも聴きたいと思います。

いわゆる専門店的作曲家の中では、ワーグナーのオペラとマーラーの交響曲に強く共感する自分を発見します。

ワーグナーについては、時の帝室を政治的に利用しただとか、逆にナチスに政治的に利用されただとかで、毀誉褒貶の評価があります。それでも、例えば、オペラ「タンホイザー」序曲を聴けば、ゲルマン民族の深奥を見つめた感じになります。ワーグナーの音楽の真髄です。政治学者で音楽好きの丸山真男が、ワーグナーの政治的野心と音楽の深みとの間にさまよった経験を吐露していますが(「音楽の対話」、文春新書(*))、私も似た感情にとらわれます。ほかに、「ローエングリン」「ニュルンベルクのマイスタージンガー」など。
今は、一度、バイロイト祝祭歌劇場に足を運ぶのが、念願となっています。まだ、実現していませんが。

マーラーの交響曲からは俗なものと高尚なものとの交感が響くのを感じます。民謡の旋律を取り入れているのと、交響曲にヴォーカルを取り込んでいるためだと思われます。「交響曲第1番」「子供の不思議な角笛」など。
マーラーの音楽にはユダヤ人の特徴がいやが上にも刻印されていますが、どこがどうと問われると答えるのが難しいところがあります。とりあえず、「亡命者の悲哀」と表現しておきましょうか。

ほかには、スメタナ・ドヴォルザーク・ヤナーチェックなどのチェコの作曲家、バルトーク・オルフなどの東欧の作曲家。いずれも、民族と民俗、の2面が際立つ人たちです。それぞれ曲目を挙げると:

スメタナ:交響詩「モルダウ」など。
ドヴォルザーク:弦楽四重奏曲「アメリカ」やチェロ協奏曲など。
ヤナーチェック:「イェヌーファ」「死の家の記録」などのオペラ。
バルトーク:弦楽四重奏曲。
オルフ:「カルミナ・ブラーナ」。

人それぞれに、何らかの基準で好きな作曲家を選びます。その基準が何かを探求するのもまた楽しい営みです。  (2006年10月)


小椋 佳・3

2009-01-27 14:48:53 | 音楽の慰め
2008年12月、小椋 佳のライブを聴く機会が巡ってきた。東京フィルハーモニー交響楽団と協演する「シンフォニックコンサート」が前年に続いて開催されたのだ。「銀河TV」で見た、彼の30歳代前半のコンサートと変わりがあるのだろうか、ないのだろうか? 興味津々だ。

小椋は「木戸をあけて」や「めまい」などの初期の曲から始めた。懐かしい小椋流だ。
だが、ここで、小椋自身による注釈が入った。「私は、曲の入りが『ズレる』のですよ。ポップス系のバック・ミュージシャンだと、構わずメロディを始めるのですが、オーケストラはまじめですから、私の出るのをひたすら待っているのです。」オーケストラとの協演では、曲の入りを合わせるのが難しい、というのだ。

曲の入りが「ズレる」のは、演歌系のベテラン歌手によくある現象で、水前寺清子・細川たかし・美空ひばりなどはその典型だ。小椋 佳に限ったことではない。それは、若い頃の歌を歳経て歌う際に、若い頃と同じように歌えないから起こるもので、いわば「経年の垢(あか)」のようなもので、決してほめられたものではない。

また、小椋が「必ず曲の入りが『ズレる』」といっているのは間違いで、その証拠に、近作の「山河」などを歌うときには、曲の入りが「まったくズレていない」。曲の入りが「ズレる」のは、長い間歌ってきた楽曲に関してのみ起こることを改めて認識したいものだ。

後半、オーケストラとの協演で「山河」などを歌った小椋には、30歳代前半のコンサートに見られたナイーヴさは影を潜めて、堂々と歌いきっていた。もっとも、オーケストラとまともに競い合えば、小椋の声が掻き消えがちになるのは否めないが。しかし、オペラ歌手でもオーケストラと対抗することなどできないのだから、気にすることはない。

60歳代半ばの小椋 佳は、いまだに存在感のある歌い手であった。同世代として、今後も応援していきたいと思う。  (小椋の項終わる。2009/1)


小椋 佳・2

2009-01-23 07:20:26 | 音楽の慰め
小椋 佳の歌の美質は、声の美しさと人をせきたてるような歌いぶりにあって、十分聴衆を引き付ける魅力をたたえている。だが、声楽の訓練が不足していることは否めない。

小椋 佳はシンガー・ソングライターの一人といわれるが、彼がまず評価されるのは、ソングライター(作詞家・作曲家)としての側面である。ソングライターとしての彼は超一流といってよい。
初期の「しおさいの詩」「さらば青春」から中期の「シクラメンのかほり」に至る一連の歌は、愛・憧れ・失恋・喪失・少年少女への期待など、小椋らしいテーマを扱っている。いずれも詞が素晴らしい。擦り切れたことばを排除することで一貫している。

小椋は中期(30歳代初め)から、ほかの歌手にも楽曲を提供している。「シクラメンのかほり」は布施 明に提供して大ヒットした。梅沢富美男に提供した「夢芝居」、美空ひばりに提供した「愛燦燦」、井上陽水に提供した「白い一日」などは、小椋の楽曲の中でもとりわけ優れているのみならず、それぞれの歌手の個性・適性を引き出して、それぞれの歌手の代表曲といわれるまでに評価されている。

「白い一日」に不思議な歌詞がある。
「ある日踏切の向こうに君がいて、通り過ぎる汽車を待つ。遮断機が上がり振り向いた君は、もう大人の顔をしてるだろう。」
私がこちらにいて、踏切を挟んで向こう側にいる君を見ている。しかし、次の瞬間には、振り向いた君の顔を見ている。そうすると、君はそれまで後ろを向いていたことになる。そんなことが気になるが、「振り向いた君は、もう大人の顔をしてるだろう。」ということばのみずみずしさは例えようもない。

小椋は現在までに300人の歌手に楽曲を提供したという。ソングライターとしてひっぱりだこなのだ。  (2009/1)

小椋 佳・1

2008-12-11 07:23:41 | 音楽の慰め
わが国のヴォーカリストの中で、中島みゆき・井上陽水・小椋 佳の3名は、一度ライブで聴いてみたいと思う歌手である。並びは私の思い入れの深い順だ。以下、これら3名について書いてみたいと思う。

小椋 佳は東京大学を卒業して、銀行員を勤める傍ら、作詞家・作曲家として、フォーク系の歌を作り続けてきた。40歳代の終わりに、銀行を退職して、以降、大学へ再入学したり大学院に通ったりしながら、変わらず、フォーク系の歌を作り続けてきて現在に至っている。その経歴のユニークさが眼を引く。

私の契約しているケーブル・テレビに「銀河TV」というチャンネルがあり、そこで、小椋 佳の登場する昔のライブ・コンサートがたまたま写っていた。大学を卒業して10年ほど後と紹介されていたので、彼の30歳代前半のコンサートをNHKが収録したものだ。

前半・後半の2部構成で、前半はルパシカのようなシャツを着、後半はカラー・シャツにブレザーという服装だった。恥ずかしそうに、「こんな格好にしてみました。」という小椋は驚くほどナイーヴで、これで芸能界でやっていけるのだろうか、と思うほどだ。

前半の35分が経過したあたりで、突然「もう限界です。休憩にしてください。」といって、彼は舞台の袖に引っ込んでしまった。歌手ではない彼は声楽の訓練をしていないので、すぐに、声が嗄れてしまうらしいのだ。

休憩時間中の楽屋では、小椋 佳が仲間に向かって「もう、いいよ。もう、行きたくないよ。」とダダをこねているのが写る。そんな彼をディレクターがなだめすかして後半の舞台に向かわせようとしている。 (つづく。2008/12)

ロストロポーヴィッチが亡くなった

2007-04-30 05:33:06 | 音楽の慰め
ムスティスラフ・ロストロポーヴィッチ氏が亡くなった。享年80。2007年4月28日の新聞各紙が伝えた。

ロストロ(と略してしまおう)さんは有数のチェロ奏者だった。チェロを楽々と弾きこなす技は余人の真似を許さないものがあった。

チェロは人間と同じほどの大きな楽器で、この楽器を用いて旋律を紡ぐのは至難の業、といわれてきた。それまで、チェロ奏者の鑑といわれてきたのはパブロ・カザルスで、カザルスの演奏は精神性の豊かなものという定評があった。国連の会議場で演奏された「鳥の歌」は、平和希求のメッセージを伝えたとして伝説となっている。が、一方、裏を返せば、演奏の技巧面では特筆できるものではない、というのが客観的な評価である。

ロストロさんは、カザルスとは異なり、チェロという楽器の極限の可能性を切り開いて見せた。ロストロさんのチェロから出る音は人間のバリトンの声と聞きまがうほど、内声が豊かで、艶を帯びていた。まったく新しいチェロという楽器を誕生させたのがロストロさんだった。
今では、若いチェリストがチェロを自由自在に操るのを見るのは珍しくない。ヨー・ヨー・マなどはその典型だ。その直接の師範を探せば、ロストロさんに行き着くのだ。

ロストロさんの名演奏を2つ挙げる。

1.シューベルト「アルペジョーネ・ソナタ」
20分ほどの長さのソナタをベンジャミン・ブリテン(ピアノ)と演奏している。私のLPレコードの帯には「奏鳴曲」と印刷している。それほど古い演奏であり、古いLPレコードである。しかし、演奏の中身は、端麗な導入部を持つ第一楽章、文字通り謡うような第二楽章、激しく高みに昇りつめる第三楽章と、典型的な「ソナタ」の名解釈である。
チェロの音域の広さは驚くほどで、このLPレコードは、私のオーディオ・システムをテストするときの基準盤ともなっている。

2.ドヴォルザーク「チェロ協奏曲」
ロストロさんは生涯何回もこの曲をレコード化している。どれがベストかはわからない。私の持っているのは、カルロ・マリア・ジュリーニ指揮、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団との協演盤だ。これもまた激しい演奏だが、その裏には、ドヴォルザークの望郷の念がにじみ出ている。
ロストロさんとドヴォルザークとの相性の良さは有名だが、その訳は、ドヴォルザークの亡命体験にあるのだと思う。奇しくも、ロストロさんもソ連から市民権を奪われ、外国暮しを余儀なくされるという、似たような体験を持つことになる。

生涯の後半には、ロストロさんは指揮者としても活躍したが、それについて論評するほどの材料は持っていない。
また、ソルジェニーツィン氏との連携、エリツィン大統領との連携などについても、評価の材料を持っていない。
ロストロさんは、とてつもなく大きな、「チェロ奏法の改革者」だったというのが、私の感想だ。 (2007/4)

偉大なるマンネリズム

2007-01-03 07:17:28 | 音楽の慰め

1月1日の夜はウィーン・フィルハーモニーのニューイヤー・コンサートがある。現地ウィーンの昼12時がわが国では夜8時になり、絶好の時間帯にライブ放送が聴ける。ありがたいことである。このウィーン・昼12時、日本・夜8時に始まるのが、実はコンサートの第二部だということは、BS放送でコンサートの第一部から完全ライブ中継を始めるようになって初めて知ったことである。

今年は第一部を聴きそびれ、夜8時の第二部から楽しんだ。今年の指揮はズビン・メータ、インド出身のマエストロだ。テレビで拝見すると、ずいぶん老けたものだ、また、ずいぶん貫禄が出てきたものだ。タイガー・ジェット・シンを彷彿とさせる精悍さは影をひそめた。

さて、プログラムは、第一部・第二部を通して、ヨハン・シュトラウスやヨーゼフ・シュトラウスなどのワルツやポルカで、19世紀末以来、ウィーンの人たちにとっては、知り尽くした曲目である。

第一部・第二部が終わって、お開きかというと、そうではない。前菜・主菜が終わっても、まだデザートが残っている。「アンコール」の始まりだ。
「アンコール」は本来偶発的なもので、聴衆の歓呼が抑えきれない時に行う追加の演奏だが、ここではそうではない。聴衆はアンコールのあることを承知しており、さらに、アンコールの曲目まで事前に承知している。

今年は、「アンコール」として、ポルカ一曲から始まって、おなじみ「美しき青きドナウ」と「ラデツキー行進曲」が演奏された。
「美しき青きドナウ」の始まる前に指揮者と楽団員とが「新年おめでとう!」と吠えるところや、「ラデツキー行進曲」で聴衆の手拍子を誘うところなど、毎年見られる光景だ。

聴衆は50歳から70歳までの年齢層の人がほとんどと見受けられる。それが、心から楽しんで、(悪くいえば、幼稚園児のように、)手拍子の合奏に参加している姿は、連綿として続いているニューイヤー・コンサートの象徴として映る。これを「偉大なるマンネリズム」と呼んだら、叱られるだろうか?  (2007年1月)