アイヌ民族情報センター活動日誌

日本キリスト教団北海教区アイヌ民族情報センターの活動日誌
1996年設立 

金成太郎さん

2007-11-29 18:23:42 | インポート
今日は木曜なので午前中は作業所のメンバーと最後の宛名シール貼りを行いました。
アイヌ奨学金募金趣意書封筒と機関誌「ノヤ」発送のための、あわせて4700通もの
封筒に宛名シールとメール便バーコードを2ヶ月かけてすべて貼り終えました~。

午後は明日のアイヌ民族委員会での報告まとめや教会の事務を行ない、
瞬く間に、一日が終わりそうです。
今日も「伏流―金成太郎伝」(富樫利一著)が読めずでした。

金成太郎さんについて以前に調べたことを書きます。
「伏流」には資料を駆使して太郎さんの伝記が書かれているそうです。

太郎さんは英国聖公会の宣教師J・バチェラーさんと深い関係があります。
J・バチェラーさんは1876年にCMS(英国聖公会海外伝道協会)の学生宣教師として海外に出向いたのですが、
翌年1877年に香港でマラリヤを患い、静養のために函館に来ます。
そこでアイヌ民族と出会い、実に23歳から86歳(1940年)までの63年間、アイヌ民族と共に生活を送ります。

函館でアイヌ民族と出会った翌年に平取を訪ね、親交を深めていきます。
しかし、事情があり、平取での活動を一時期断念せねばならなくなり、活動拠点を幌別に移します。

そこで、バチェラーさんは金成太郎さんと出会います。
太郎さんは師範学校生徒でありながら、師範学校付属小学校で和人児童を教え、給料ももらっていたほど優秀であり、
家も豊かでした。
卒業後は和人の学校の教師をと期待していたのに、それまでも和人からねたまれ、差別を受けて夢叶わず、
幌別へ帰郷します。その時に、バチェラーさんと出会い、共に聖書を読み、祈祷書をアイヌ語に翻訳していく中で、
太郎さんはキリスト教に傾き、アイヌとしての受洗者第1号となります。

補足ですが、金成太郎さんのいとこには、ユーからの伝承者として有名な金成マツさん(後に聖公会伝道師)や、
その妹さんの娘で「アイヌ神謡集」の著者の知里幸恵さん、その弟でアイヌ語学者の知里真志保さんという優秀な
人が出ています。

1885年にはバチェラーさんの構想により、金成太郎が先生となってアイヌ児童を集めての「相愛学校」が発足します。
教える目標を
「神の前に人は平等であり、互いに助け合う愛の心を育てること」
と定めます。

3年後、太郎さんの募金活動による和人達からの寄付、CMSからの援助、地元アイヌたちの寄付によって、
国道沿いに「相愛学校」の精神を引き継ぎ、待望のアイヌ学校「愛隣学校」(挿絵)が設立します。
生徒はアイヌ児童15名、和人児童1名の16人。
校長は金成太郎さん。生徒はローマ字を習い、アイヌ語の読み書きを覚えた。
また、日曜日は教会学校となり、和人児童12名も加わり聖書を学びました。

太郎さんは学校長として水を得た魚のように児童達の教育に当たる一方、募金集めにもほん走したのですが、
和人達の無理解から意外なほど協力を得られず、彼の失意は大きかったんですね。
禁止されていた酒におぼれ中毒症になり、校長としての職務をはたせなくなって解任されます。
一時期、そのことを悔いて立ち直ったのですが、肺結核を患い1895年30歳の若さで永眠します。

ひとりの優秀な学生であり教師になる夢をもった存在を、アイヌと言うことで職を奪い、未来を奪い、希望を奪ったわけです。
さらに愛隣学校は室蘭の郡長が来て条約区域外との理由で取り壊されます。

私事ですが、この取り壊された後の土地に、わたしの育ての母が住んでいた、ということが先日、わかりました。
なんということでしょう。バチェラーさんや金成太郎さんのことを何も知らずに住んでいた母が後々にキリスト者になり、
その息子が伝道師になり、しかも、アイヌ民族の権利回復の働きに連ならせて頂いているのですから。
不思議さを感じます。
 
 参照:J・バチェラー著「我が記憶をたどりて」 仁多見 巌著「異境の使徒」他


数年前に母が昔の家を訪ねたときの写真。本人に無許可なので顔はぼやかせています。


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