アイヌ民族情報センター活動日誌

日本キリスト教団北海教区アイヌ民族情報センターの活動日誌
1996年設立 

セントルイス万博とアイヌ民族

2007-10-03 21:40:55 | インポート
バチェラーがなぜ植民地主義を正当化し、アイヌを見世物にする催しにアイヌを推薦したのでしょうか。

このあたりを今回の道新の連載は深めていると先に書きましたが、そうでもありませんでした(よく読んでいなかった・・・)。

セントルイス万博に関して参考になるといえば、1996年6月10日~12日にNHKのETV特集「シリーズ 世界が見つめたアイヌ文化」を三夜連続で放映しましたが、その3回目に取り上げていた「アイヌ 太平洋を渡る~アメリカ」のDVDが資料室にありました。
上村英明著『先住民族の「近代史」』も参照にしつつ、もう少し、まとめてみようと思います。
 
 セントルイス博覧会の正式名称は「ルイジアナ購買記念万国博覧会」といい、アメリカがフランスからルイジアナ(ミシシッピー川以西ロッキー山脈にいたる果てしない大地)を買い取って100年目を迎えたことを記念して行なわれます※2。
当時イギリスから独立したアメリカは、ルイジアナを得て、領土を倍にし、さらに、本格的な「西部開拓」を始めます。ルイジアナは当時その地域で最大の都市でした※2。
博覧会の人類学部門の責任者W.J.マクギーは開催の意図をこのように述べたようです。
「この部門の目的は暗い原始から最も輝かしい開化へ、未開から文明社会へ、利己主義から利他主義へという人類の進歩を示すことである」※2
 う~ん。先住民族は「暗い」「原始」「未開」「未文明」「利己主義」、進歩していないものと言ってるのですね。極めて問題あることを述べていますね。
 時代は植民地をめぐる武力紛争がいたるところで起こっていた最中。領土拡大の火花の散る中で、「文明の進歩した明るい国」が「利他主義」を伝えるべく、植民地とされていた先住民族を連れてきて、違いを明確にしたということですね。なんたる「未文明」的な「利己主義」でしょう!

セントルイス博覧会に、謎の民族アイヌを連れてきてほしいとの実行委員会の依頼を受けた人物がいました。シカゴ大学の人類学を担当するフレデリック・スターです。
1904年1月14日に来日し、彼は早速J.バチェラーに会いに行きます。
札幌のバチェラーに会いに行ったスターはバチェラーの作った病室にて、はじめてアイヌ民族と出会い、その場にいる大沢弥蔵(24)さん、その妻シラケさんを誘い、承諾を得ました。※1
 さらに多くを誘おうとバチェラーと共に沙流川に向います。そこで平村サンゲア(56)さん一家が渡米することになります。婦人のサントゥクノはウエペケレ(昔話)が得意。そしてひとり娘のキン(6)さん。※1さらに、同じ平取から平村クトロゲ(39)さんと婦人シュトラテクさん、2歳の娘キクさん。それに、辺泥五郎(26)さんが加わります。※2
 バチェラーに心酔して彼の元で働いていた辺泥さんは志願して行ったようですが、クトロゲさんは二風谷にシカ狩りに向う途中で偶然にスターとバチェラーに会い、説得を受けたけれど異国への9ヶ月間の誘いに戸惑いながら同意したようです。※2
スターはバチェラーに紹介してもらいアイヌ民具を買いあさります(当時の写真も多く放映されていました。現在、それらの品はブルックリン美術館にあります※1)。
チセも白老で2棟購入し、万博会場に建て、92箱分の生活民具も持ち込んで、彼らはそこで生活をします。※2
世界中から2000万人もの人が観に来た※1ほど盛会であった万博会場の一角に彼らは生活をしながら見世物とされます。「謎の民族」として意識されていた彼らのところには連日多くの人たちが押し寄せたといいます。
木彫りの小物やアツシ折の着物、刺繍などの製作品は在庫が残らないほど売れたようです。自然の素材を見事に作品に仕上げていくのを見て多くの人たちは感嘆したといいます。

セントルイスで彼らが得た給料はひと月35円。当時の日雇い労働者の日当が49銭、白米10キロが1円50銭に比べるとかなりの高給となります※2。
日本ではアイヌ民族に対し、伝統的な生活の禁止や自由に狩猟・漁獲することの禁止令が出るなど、貧しさへと追いやられていた時代でもあり、その貧しさが彼らをセントルイスに行くことを決断した要因の一つにもなったであろうと思います。バチェラーもアイヌにお金が入ることを意図していたのでしょうか。
スターの民芸品を沢山買ったということはそれなりに金銭が入ったということでもあるでしょう。
1904年に収集した品の215点がシカゴ・フィールド博物館(人類学のコレクションでは米最大。コレクション総数2000万点 米3位)に現在も眠っています。中には当時、売却した際のメモも入っており、アツシ折の着物が5ドルとありました。※1

<
span style="color: #000099;">
今日、旭川への途上の峠で見つけた山葡萄。あまずっぱかたです。水不足が心配です。



帰国後の一行の足跡は分からないとのこと。ただ、辺泥五郎さんはバチェラーと同じ聖公会の伝道師となり、2年後に万博で得たお金を基に平取の隣町の鵡川に茅葺の住宅兼教会を建てて布教活動をしたことが記されています。
 
ついでですが、セントルイス万博の会場となった所は、今は公園になっていますが、会場跡の面影も残っています。その一つにルイ9世(仏1214~1270)が馬にまたがって右腕を挙げている銅像が残っています。万博後に鋳造しなおして記念として残したとの事。聖(セント)ルイスがセントルイスの由来なのですね~。
なんだか似たような像を見たことがあります。そうそう対雁の榎本武揚像だ!!



参照
※1=NHK 「アイヌ 太平洋を渡る~アメリカ」
※2=北海道新聞 「セントルイスの9人」(編集委員 村山健担当)
※3=上村英明著『先住民族の「近代史」』


最新の画像もっと見る