アイヌ民族情報センター活動日誌

日本キリスト教団北海教区アイヌ民族情報センターの活動日誌
1996年設立 

「アイヌ民族の遺骨・副葬品盗掘に関する件」

2012-09-08 20:10:53 | インポート
吉田邦彦さんは『アイヌ民族の先住補償問題』(2012/08/04自由学校遊発行)にて、アイヌ民族の遺骨・副葬品盗掘に関する件については、返還し、慰謝料賠償がなされるべきだと述べておられますが(P.54)、
あらためて疑問に思うことがあります。
北大アイヌ納骨堂に納められている先祖の遺骨を返してほしいと小川隆吉さんをはじめ三名が北大に訴え続けたにも関わらず、北大は誠実な対応をしなかったため訴訟準備を行っています。
北大が2012年に開示した少し詳しいアイヌ人骨台帳一部を見ると、「第一解剖移管」という記載があります。これは北大の「解剖学第一講座」と推測され(児玉作左衛門らは第二講座)、山崎春雄という教授が1921(大正10)年5月に開講し、「山崎教授のもとではおもにアイヌの人類学的研究とくにその容貌の研究がすすめられ」たと北大大学院医学研究科 解剖学講座の「沿革」にあります。
http://www.hucc.hokudai.ac.jp/~e20704/history.html

はて?児玉の発掘は1932年に日本学術振興会の発足後、同振興会第八小委員会の発掘として1934(昭9)年から発掘を始めています。すると、人骨台帳にある、「昭和6年発掘」というのは、児玉以前の発掘で、山崎の発掘ということになるのでしょうか。その発掘には埋葬後すぐのもあり、「発掘当時未だ軟部の残存せるもの多く教室にてmagertion」と備考が記されているのもあります。多くの腐敗しきっていない脳や内臓、筋肉を解剖学教室でmagertion(削り落とすの意味か)という、埋葬してまもない墓を掘ったということでしょう。
(この開示資料に関しては過去ブログ2012/4/10参照)。

また、その当時も墓地発掘は刑法上の犯罪だったはずです。そのために児玉は新聞ざたになり、北海道警察から呼び出しを受けています。
結局、(道庁は)新しい人骨発掘規定(北海道庁令第八三号)をつくり、それ以後は道庁長官から許可を受けることになり、罰則規定もできています(植木著『学問の暴力』P.196)。
ということは、それ以前の発掘は明らかに盗掘であり犯罪になるのでは? そして、児玉の発掘は日本学術振興会の研究調査活動の一環としておこなわれていますが、それ以前は個人(北大)単独犯罪になるということでしょうか。
児玉は「現行墓地」を発掘したのではなく、埋葬年が古く「放棄された墓地」である墓地「遺跡」だと苦し紛れに弁明しているのですが、先の資料からは(「山崎」のは)明らかに現行墓地発掘となります。
児玉は自分より過去の学者達の発掘に対して自分の論文で批判をしていますが、「山崎」への批判も含まれるのか? いや、それはないでしょう。なぜなら、その後に児玉は「第一解剖移管」でそれらを研究材料とし恩恵を受けているのですから。

さらに、副葬品盗掘はどの時代をとっても窃盗になるはずではないのか?

わからないだらけですが、裁判が始まると開示される内容も多くなりますので、可能な限り情報を挙げていきましょう。
真実が明らかになり、それに伴って謝罪と和解のための働きができるように願います。


暑寒別岳の登山道にはたくさんのきのこの群れ。食べられることが確信できたらいいのに。勉強しようと思います。
下山時は写真をとる余裕はまったくありませんでした。


昨夜、紋別の畠山 敏さんからお電話を頂きました。
数年前からお付き合いをさせて頂き、わたしも鮭漁やホタテ漁の仕事を数年したということで親しみを感じて頂いています。このブログでも藻別川支流域に建設中の産業廃棄物最終処分場をめぐってのやりとりなど情報をあげてきましたが、今回は宮島利光さん著のアイヌ民族関連の本を読んで、分かりやすくて良かったと感想をお話くださいました。宮島さんは現在わたしたちの働きの基礎をつくった人であり、浦河べてるの家の設立に関わった方(命名者でもある)とお話しました。『チキサニの大地』(1994) 『アイヌ民族と日本の歴史』(1996)など書かれています。

畠山さんはさる2011年12月5日に、仲野政務官と面接し、以下の要望書を渡しています。
詳しくは「モペッ・サンクチュアリ・ネットワーク」ブログに掲載されていますのでご覧頂き、要望書のみを紹介します。 
http://mopetsanctuary.blogspot.jp/


内閣総理大臣 野田佳彦殿
農林水産大臣 鹿野 道彦殿
農林水産大臣政務官 仲野 博子殿

アイヌ民族伝統生存捕鯨協会 会長 畠山敏

要望書

私、畠山敏は和人最古の記録「津軽一統志」(1670年)に「まふへつ村アイヌ人百人ほど。大将クヘチャイン」と記述されたモペツコタンに生まれ育ったアイヌ漁師です。私の父、畠山寿男は、明治8年末(1875年)の紋別場所の戸籍簿に「幌内から湧別までの海岸筋、川筋、山奥までの10ヵ村92戸361人を統率したアイヌ酋長」と記述されている(新紋別市史上巻)キケニンパ(後に大石蔵太郎と改名)の血を引く先住民族の漁師であり、初代の北海道ウタリ協会(現アイヌ協会)紋別支部長でもありました。
 父から漁業経営と支部長の要職を引き継ぎ、アイヌ民族の歴史文化を学ぶ中で、私の祖先達が強要された歴史的不正義の重大さを知り、民族の誇りにかけて今こそ自立と自治を目ざした復権運動が必要だと思うに至り、18年前からアイヌ民族生存捕鯨の復活を水産庁の関係機関や政治家の皆さんに訴え続けてきました。
 私達のこの悲願は、2007年9月、国連総会で日本政府代表も含めた141ヵ国の賛成で採択された「先住民族の権利宣言」の中に「歴史的不正義からの回復」が高らかに謳われているにもかかわらず、さらに翌年の衆参両院において全会一致で採択された「アイヌを日本の先住民族と認めることを求める決議」を受けて政府が正式に認めたにもかかわらず、いまだに実現の糸口すら示されておりません。
 私の先祖達にとって捕鯨を中心とした狩猟・漁業の共同作業は、自然界の万物を神の国からの尊い贈り物と感謝の祈りを捧げつついただいた精神文化の柱でした。1640年頃に初めてオホーツク海を探検したオランダのフリース号の乗組員の書いた『フリース号の探検』にも「捕鯨と礼節の民アイヌ」という詳しい見聞録が収められていることから、その昔、私の先祖達はアイヌモシリ(人間の大地=北海道の旧称「蝦夷国」のアイヌ語)で鯨を捕りながら自由に豊かにつつましく生を営んできたことは明らかな歴史的事実です。
 最後に、私が内閣総理大臣ならびに農林水産大臣閣下に今最も訴えたいことを書きます。
 日本人の中に現在もなお根強く残っているアイヌに対する「劣等民族視」という偏見のために、アイヌ同胞でありながら、それを公言することすら恐れ嫌う人達が数知れず存在するという不幸な事実を直視してください。この差別と偏見を決定的にしたのは大日本帝国政府が作った「旧土人保護法」という法律であり、その制定議会(貴族院)において政府要員がアイヌ民族をして「無学文盲蠢爾たる有様」と虫けらの如く断定したことに証明される和人の尊大なる差別感情の強さなのです。
 世界は民族間の優劣を競った自然征服争いから脱して、多民族、多文化共生の大道へと大きく方向転換を始めています。日本国政府も今こそ歴史的不正義を自ら解消する決意を内外に明示され、不当に奪った先住アイヌの生存のための捕鯨の権利を回復させる責任と義務を全うされることを心からお願い申し上げます。


留萌の海。先日も近所のこどもたちと最後の海水浴。一時間ほどでひとりがくらげに刺され(軽症)、すぐに教会へもどって小さなプールに11人が入って水浴び。それほど残暑きびしい数日でした。今日も暑すぎて隣町の温水プールへ。こどもがみるみる泳げるようになるのが楽しいです。