アイヌ民族情報センター活動日誌

日本キリスト教団北海教区アイヌ民族情報センターの活動日誌
1996年設立 

奴隷売買は先住民族奴隷売買がさいしょ

2009-02-26 15:28:12 | インポート
先日から観ている500NATIONS(ケビン・コスナー監修)は、多くを学ばされます。今日は第5巻のほんの一部を要約紹介します。

1600年代、フランスとイギリスの毛皮商人たちは先住民族がビーバー、ミンク、キツネなどの毛皮の取れる動物を狩っている北アメリカ大陸の奥深くまで入り込んだ。
先住民族の国々にとってヨーロッパ人との取引は、何世紀にも渡って季節ごとに繰り返されてきた単なる習慣の延長でした。
しかしこの時代からヨーロッパ経済において毛皮貿易がだんだんと需要の中心になり、ビーバーのフエルト帽が流行ってからは先住民族との取引が急増した。そのため、先住民族の国家そのものが変わっていった。
若者達は白人と取引をしたいがために、なすべき伝統的な役割を果たさず、狩に明け暮れた。
農業国家では作物の植え付けが減り、畑は休耕地になり、ヨーロッパ商人から食料を買うために毛皮が使われるようになった。
取引のための狩猟によって先住民族の土地や動物についての観念が変化するにつれ、伝統文化と宗教上の価値は大きな衝撃を受けた。

さらに不正な搾取も起こったことがスィウィー(SEWEE)人の悲劇として伝えられている。
1670年、イギリス人はスィウィー人の国土にチャールストン村を作り鹿皮の交易を始め、南部植民地の経済の中心地となった。その際の交換は英国での売価の5%しか先住民族に支払わなかった。
スィウィー人はもっと公平な取引をしてもらおうと決意し、イギリス船が通る海路を調べ、自らが船に乗ってイギリスへ渡り、直接交易をしようと考えた。
イギリスを“発見する”という意図が決議され、そのためにふさわしい大きなカヌーを作り、大量の毛皮やスィウィー人の最も大切な物を船積した。
頑強な身体を持つ男女が選ばれ、船は大洋に。
しかし、大洋に入った途端に矯風が吹き荒れ船は高波に飲まれた。
生き延びた丈夫な者も通りすがりのイギリスの奴隷船に救われ、西インド諸島の奴隷競売場に送られた。スィウィー国家は瞬時に滅亡した。

奴隷売買は黒人奴隷売買から始まったと思われがちだが、実際は、南キャロライナ・チャールストンで先住民族の奴隷売買をすることから始まった。それは1600年年代から始まり1700年代まで続いた。


あらためて、トーマス・R・バージャー著「コロンブスが来てから」(朝日選書464)を確認すると、そこにも先住民族奴隷が先であったことが記述されていました。(第4章「インディアン奴隷制」)


本日、有識者懇談会が行なわれるようですね。首相官邸内にあるURLをのぞくと、第三回議事録や、北海道でのヒアリングの議事録がUPされていました。注目していきたいと思います。
有識者懇のURL:http://www.kantei.go.jp/jp/singi/ainu/kaisai.html


このところ全く関係のない宣伝のようなメッセージがたくさんコメントに入ってくるので、しばらく使えないようにしています。




昨日は、よく遊びに来る近所の小学生の子の誕生会をしました。クレープを作ってジュースで乾杯。そして、アイヌ紋様の絵葉書をプレゼントしました。
ふり返ってみると、わたしは10歳のこども達と縁があります。
神学校に入ってはじめて教会学校のこども達を受け持ったのが10歳。今もつながりがあり、ひとりは日産CUBEの内装を担当! 上の絵は20年前にわたし達家族を絵にしてくれたものです。聖書の二匹の魚と五つのパンの奇跡も含まれています(マルコ6:30~)。
始めて教会に赴任した年に遊びに来たやんちゃな子達も10歳。今も時々「おっさん元気か」と連絡をくれます。
そう言えば、瀬棚の「大草原の小さな家」のようなK牧場に初めてお訪ねしたときに一番上の女の子も10歳。
今から27年前ですが、そのご家庭とも親しくさせて頂いています。

この年になると孫を見ているようで可愛いです。って、ちょっと違うか・・・

明日、明後日は教会の事務作業とアイヌ民族関連の会合で札幌です。