~Agiato で Agitato に~

再開後約20年になるピアノを通して、地域やほかの世代とつながっていきたいと考えています。

コンクールに思うこと

2007年07月02日 13時28分53秒 | ピアノ
私はあまりこの手のことは書かないようにしているのだが、
コンペに距離をおきたくなった理由を少し書いてみたいと思う。

コンクールというのは本来「才能の発掘」の目的を持っていると思うのだが、
私が大人になっていろいろ周りを見回してみると、全国規模のコンクールでも幼稚園児の部門があったり、私らのような趣味の部門があったり、少子化の影響なのかどうか、採算を考えてのことなのか、規模の大きい「おさらい会」レベルで、ほんとにあっちでもこっちでもしょっちゅう開かれているのを目にするようになった。
参加するほうも「おさらい会」感覚であればそれはかまわないが、やっぱりたとえ幼稚園児でも結果は結果なので、落ちる子は落ちる。賞品のぬいぐるみがもらえたりもらえなかったりする。

小さいころからそれに慣れていくのがこの道だという考え方もあるし、やっぱり厳正なる評価が下されなければ進歩もない、という考えかたもある。
別に私はそのこと自体を批判する気はないのだけれど、では、審査員というのは絶対なのか?
ときどき、点数を公表されるコンクールがあって(たいがい決勝の段階くらい)、こういうのを私はよく見るのだけど、これが信じられないくらい点数が分かれていることがある。
もちろん飛び抜けてうまくて誰もが満点に近い点を出す演奏というのはあるにはあるのだが、そうそうたる先生方が採点されていても、ひどい時はある演奏に「50」をつける先生もいれば「70」の先生もあり、そして「90」点の方もいる。そして、たいがい上下カットでの平均点が出される。
これは、将来演奏会を開いて食べていこうという方がたにはある程度必要なことかもしれない。「いい」と思ってくれるお客さんがある数以上存在しないと演奏会は成立しないから。

でもそれは、そこにリーチのかかった方々のみに関係のあることであって、小学校低学年とか、趣味の部門とかで意味があるのか・・と思わないでもない。

数年前に私が参加し始めたときは、けっこうおもしろかった。
個性的な方々も多かったが、聴いていておもしろい演奏が通過していたりして、技術面で少し難があっても参加する楽しみがあった。
たぶん、参加人口も少なかったからそれでよかったのだと思う。
ところが、爆発的に参加数が増え、予選・本選・決勝の三段階選抜になると、やはり少々のミスも厳しくチェックされるようなところが出てきて、子どものコンクールと同じく、まずしっかりしたタッチで指がきちんとまわっていることを問われるようなところが出てきた。
そうなると、当然子ども時代コンクールでバリバリ鳴らしたけど結局ピアノには進まなかったという方々の、復活戦みたいな感じにもなってきて、それを悪いとはいわないけど、聴いていておもしろいというものでもなくなってきた。
技術の大切なことは認めるけれど、大人になってから鍛えた技術にはやはりある限界がある。それに、40代も70代も一緒に審査しなさい・・といわれる審査員こそ当惑されていると思う。
「それでも、いい。弾く場所があれば。だれかに弾いてもらえれば」という気持ちで参加するなら価値はあると思うが、それならば、ステップとかなんとかで温かく拍手でもしてもらって弾いたほうが気分がいい。どんなにいいと思っても拍手もなく、途中で演奏を中断されられたりするのは、やはり「評価の場」ならではのことだ。

私は、今まで自分の採点に不満を抱いたことはないし、逆に身に余る評価をいただいたと思っている。それだけに「あの方のように弾いてみたい」と仰ぎ見るような気持ちで聴かせていただいた演奏が、自分よりはるか下の評価だったりするのは非常につらかった。自分の耳とか音楽観が混乱するような気持ちすら抱いた。

参加する人間がいればコンペは成立するし、審査員も頼まれるから点数をつけなければならないのであって、こと趣味の部門については審査員の方がたも大変な思いをされているときく(ひとつには、ヘンな曲を弾く私のようなものもいるから、らしい)。
とりあえず、人前で弾く機会も適当に得られたし、弾いてみたいホールでも弾けたし、そこそこの評価ももらったし・・で、これ以上を何を望むことがあろうか、というのが今の私だ。

・・・ただ、ヘンな曲を弾いて、困惑する審査員の顔をみたい・・・という邪悪な気持ちだけは抑え難いが(殴)・・・