街の中心には銀行があります。
銀行が密集しているところはお金の中心地、
その街で一番繁栄しているところなのです。
その中心地が時とともに移ってしまうということもあります。
昔はどこに銀行があったのか、そして今はどこに銀行が集まっているのか、
それを知ることはその街の歴史を知ることでもあります。
江別で最初に出来た銀行は十二銀行(現・北陸銀行)で1919年のことでした。
場所は江別駅から右へ歩いて数分、かつての港近くの2条2丁目で、
現在はカフェレストラン「OLD-e♯」になっています。
いまの中心街からは外れていますが最初の銀行がここに出来たということは、
その当時はここが江別で一番栄えていたところだったということ。
千歳川には港があり川岸には倉庫が立ち並び、
また背後には鉄道の駅があるという交通と物流の要所。
ここに銀行ができたのはごくごく当たり前な流れだったのでしょう。
人と物が行き交い、商店や飲食店が集まり繁華街を形成していた。
そんな当時の様子が目に浮かびます。
今の江別駅前はそんな繁栄があったなどとは全く想像できません。
シャッターを閉じたままの商店が目立ち、車の往来も途絶えがち。
江別の中心地も札幌寄りになり、商業の中心は野幌辺りになりました。
江別駅前の商店街は寂れ果て、
またその街外れに位置するこの建物もまた取り残されたように佇んでいます。
ですがこの建物は、
かつてはこの地が江別の中心街であったことを身をもって示しているのですね。
建物自体の価値が認められて今は国の重要有形文化財ですが、
この建物は“この場所にある”ということでそれ以上の価値を持つ歴史の証人なのです。
開拓時代の石狩川には、
内陸部の利便性を図るために船による航路が開かれていました。
1881年に樺戸(現・月形町)に樺戸集治監ができると、
物資や囚人を運ぶために集治監の専用船が石狩川に就航しました。
それが始まりになりまずは石狩と樺戸間、
その後空知太(現・砂川市)までの定期航路が開かれます。
また江別からは千歳川を遡り漁太(いざりぶと、現・恵庭市)までの航路も開かれした。
途中の寄港地には港が出来ましたが江別も例外ではなく、
石狩川と千歳川の合流地点あたりは港として栄え倉庫が立ち並ぶ地区となりました。
鉄道の駅とも至近でまさに交通の結節点だったのですね。
倉庫群の一部は今でも残されていて、ギャラリーなどに利用されています。
そのかつて港だった一角に、
汽船の往来があったことを示す碑(標柱)が建っています。
場所は江別駅から右手へまっすぐ行って千歳川にぶつかる堤防のあたり。
川は改修され高い堤防が築かれているので、かつての港の痕跡は皆無。
また今の石狩川や千歳川の様子からも、
まさかここを船が往来していたとは到底思えません。
港があったことを告げるのはこの1本の標柱のみ。
ですが堤防のこちら側は歴史を感じさせる石造りやレンガ造りの建物が残っていて、
確かにここがかつて繁栄していたという確かな名残を残しています。
近代的な堤防のほとりに建つ碑を見ながら、
千歳川の流れを見つめるのも一興でしょう。
1920年に、石狩川をまたぎ江別と当別を結ぶ石狩大橋が完成し、
それから江別と当別の間の行き来が便利になりました。
それまでは渡船で渡っていたらしい。
1926年、その橋のたもとから当別までを結ぶ「江当軌道」が設立され、
1927年8月8日に営業を開始しました。
江別側の基点は橋の当別方にあり、市街地までは乗り入れていませんでした。
それからわずか9年後の1936年5月1日に軌道廃止になっています。
路線距離は11.3km、駅は江別ー三原(さんげん)ー六号ー蕨岱ー当別、
軌間は762mm、動力は蒸気・内燃の併用でした。
前述のように江別側の基点は市街地から離れた石狩川の向こう側になるので、
JR江別駅(当時は鉄道省)との間は自動車輸送を行っていたそうです。
その「江当軌道」の跡を示す碑(標柱)が建っています。
場所は市街地から行くと道道139号線沿い、
石狩大橋をわたってすぐ左側の道路脇でJA支所の向いになります。
当時の様子や駅の正確な場所などは知る術もありませんし、
また廃線跡などもうかがい知ることも出来ませんが、
「江当軌道」が確かにここにあったということを示す記念碑ではあります。
交通量も多く探しにくい場所にありますが、
開拓時代を偲びつつ見学するのもまた趣のあることと思います。
元は中央公民館だった建物だそうで、さもありなんという外観です。
石器時代から現在まで、江別の歴史を概観しているというありふれた展示ですが、
随所に専門性が隠れていてなかなかの実力を秘めていることが伺われます。
石器時代や縄文期、続縄文期をざっと見せたあとに古墳群に触れています。
北海道に古墳があったとは知らなかった。
ということは、古墳時代にそれなりの身分の人がここに住んでいたということだ。
土着の人なのか本州から渡ってきた人なのかはわからないそうですが、
本州との文化交流が道南を飛び越え飛び地のようにここにあった証拠です。
それを含め、古代史に精通した学芸員がここで力を発揮したことがわかりました。
そしてお決まりの産業考古学。
ただ昔の道具を並べて解説しているだけではありません。
屯田兵、一般の入植、石狩川の水運、レンガ工場から今の姿まで、
わかりやすく展示していました。
歴史というのは何かひとつだけのトピックで形作られるものではありません。
様々な産業やリーダーがいてそれがお互いに絡み合い今に続くもの。
そういう視点があって今の江別を理解しようという姿勢が感じられました。
産業考古学分野の学芸員の実力もたいしたもんです。
また定期的に企画展も行っているのですね。
またそのたびに簡単なガイドも発行しているようで。
これはなかなか続けられるものではありません。
特にこのお金のない時代に、大変なことと思います。
関係者の見識の高さと努力に頭が下がります。
良質な地方の総合博物館。
こういう出会いは楽しい。
旅行商品「びゅう」のツアーとして発売するもので、一般発売はしません。
出発は10月16日のみで上野発は9:10頃で青森到着は20:40頃の片道だけ。
所要時間は11時間半ほどで、これはかつての急行列車並みのスピードです。
ちなみに「はつかり」が現役の頃は上野ー青森間を9時間弱で走っていました。
本線を走っている間はそれなりのスピードで走るのでしょうから、
途中でどこかの駅に寄り何らかのイベントがあるのかもしれません。
また復活運転に際しては宮城野貨物線を通るそうです。
仙台駅に乗り入れると定期列車に支障をきたすということなのかもしれませんが、
理由はどうあれこのコースは心を揺さぶられます。
普段は見れない風景を見ることができそうだ…。
車両は583系を使い募集定員は250名(最小最高人数150名)ということですが、
すぐに売り切れるんだろうなぁ…。
VIVA VIVA JNRさん、乗車レポートをお願いします(ん、乗らない?)。
ところで「はつかり」の復活運転は何かの節目で結構運転されているのですね。
以前には道内を乗り継ぎリバイバル「おおとり」まで動員して網走まで行くツアーもあったとか。
これは35時間のツアーだったそうで…。
35時間もすごいなぁ…とは思いますが、
飛行機が一般的になる前はそれが当たり前だったのですけどね。
それにしても東京は何をやっても人が集まる。
それは素直に羨ましい。
さて、JR北海道だったらどうでしょう。
個人的には711系で急行「さちかぜ」を復活させたい。
それなら、万難を排して乗ります。
ツアーとしては、弱いなぁ…。
土曜日には何だかんだといろいろなイベントを行っています。
9月25日(土)に行われるイベントは、これ。
コトニ土曜大学
歴史を学ぶセミナー
~日本で3番目の汽車ポッポ~
案内文にはこうあります。
“付近に兵村を作っていた屯田兵の嘆願書をうけ開業した琴似駅。
当初は乗客があるときだけ旗の合図で停車する簡易停車場(フラッグ・ステーション)でした。
琴似駅を中心に、手宮~札幌間 鉄道開通の謎や歴史を探ってみませんか?”
日 時 : 平成22年9月25日(土)
13:30開場 14:00セミナー開始
会 場 : 琴似タワープラザ1F(琴似2条1丁目 JR琴似駅横)
参加費 : 無料
定 員 : 30名(先着順)
主 催 : 「土曜はコトニ」実行委員会
問合せ : 「土曜はコトニ」実行委員会事務局(担当:唐澤)
申 込 : TEL011-671-4111 FAX011-671-4103
(e-mail) miyanosawa@sapporo-youth.jp
ゲストスピーカーは永峰貴氏(琴似屯田子孫会 事務局長)
屯田兵の子孫の方がお話ししてくれるのか…。
琴似らしい人選です。
行きたいけど、この日は札幌にいません。
残念だなぁ…。
サンマが100円以下になってきた。
とうもろこしも最盛期、お米の刈り取りもそろそろ本番です。
もう最高気温が30℃を超えることもないでしょう。
なんだかこのまま一息つくのではないかという天気になっています。
が、これは完全に感覚がマヒしている証拠。
異常な暑さに慣れてしまってどうにかなってしまっています。
昨日(12日)の札幌の最高気温は27.0℃でした。
こんな気温で、
「なんだか過ごしやすくなってきたね」
などと言っていませんか?
札幌では9月の平年の最高気温は22.0℃なんですよ。
27℃もあったのに過ごしやすく感じるなんておかしいでしょ。
また同じく昨日の最低気温は16.6℃(これでも前日より1.8℃低かった)でした。
「窓を開けて寝ると寒いよね」
などと言っていませんか?
これも同じく9月の平均の最低気温は13.6℃です、忘れているでしょうけれど。
平年だったら今時窓を開けて寝ると間違いなく風邪をひく気温なんですよ。
ちなみに最高気温の27.0℃は平年の東京と同じくらい、
最低気温の16.6℃は平年の仙台と同じくらい。
今年はいかに暑いか、これでもわかります。
札幌らしい秋の空はいつになったらやってくるのでしょうか…。
※平年のデータはいずれも1971年から2000年の平均値です。
ハッカの生産は1817年に岡山県で始まり、
後に山形県、広島県などに広がり明治末期からは北見地方が主産地になりました。
日本産のハッカはその品質が高く評価され、
最盛期の昭和12~14年には世界の生産量の80%を超えるまでになります。
北海道の作付面積も昭和14年には史上最大の20,760ヘクタールに達し、
全国の作付面積の90%を占めていました。
その後海外産の天然ハッカや合成ハッカに押され生産量が減少、
北海道産以外のハッカ栽培は昭和48年に消滅しました。
北海道でもハッカを栽培しているのは今では北見地方の北見市と滝上町のみで、
作付面積も全部でわずか数ヘクタールとなっています。
ところで一般的にはハッカは北見市というイメージがありますが、
今現在ハッカの生産の95%は滝上町で行われています。
しかも商業生産を行っているのは実は滝上町のみ。
日本産の天然ハッカはほぼ全て滝上町で生産されているのです。
今やハッカといえば滝上、なのですね。
というか、実はかなり前からハッカといえば滝上町でした。
北見市にはホクレンのハッカ工場がありましたが昭和58年に閉鎖されました。
その時に網走管内におけるハッカの作付面積は全体で37haでしたが、
そのうち滝上町が28haで最大だったのに対し北見市の作付面積は0.2haにすぎませんでした。
そんな前からもうすでに、ハッカといえば滝上だったのです。
日本で唯一になったハッカ産地の滝上町。
これからは折に触れそんなハッカの話題を取り上げていくことにします。
私は10分ほど前に会場に到着、4丁目側は既に人でいっぱいだったので行くことを断念し、
道路を挟んだ3丁目側から演説会を傍聴。
まずは警官の人数がすごい。
現役の首相が来ているのですから当然でしょうが、
会場から2、3丁離れた交差点からびっしりいました。
空には取材か警戒かわかりませんがうるさいぐらいにヘリコプター。
会場を取り囲むビルの屋上にも人影が。
見物人がビルの屋上に上がることはあまり考えられませんので、あれも警備でしょうね。
なるほど、要人の警備とはこういうものか。
ほぼ時間通り始まり、党道連や選管などの挨拶があって15:10頃から演説開始。
演説順はくじ引きだそうでまずは小沢候補、ついで菅候補と演説、持ち時間は15分。
そうですか、15分ですか。
15:40過ぎに2人の演説は終わりました。
そのあと両候補は報道対応などをしていたようですが、
あたりは行き交う人々で歩道も交差点も公園内も大混乱の様相に。
何かを持ち込んで人ごみの中で演説を始める人がいたり、
「オザワ~♪」とうちわを振りながらひたすら叫ぶ若い女性がいたり。
この若い女性には周りにいた人たちも唖然と見つめていました。
あ~たはどれだけ小沢ファンなんだよ…。
こういうイベントの仕切り具合と混乱、混沌を見るのも楽しい。
たくさんの人が集まるとその中では必ず何かが起こっています。