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奥井みさき、旅の記録と徒然日記

仕事の合間に旅行、旅行の合間に仕事。
フリーライター・奥井みさきの旅日記と、日々思うこと。
札幌からです。

帯広に行ってきた

2023-12-06 05:43:16 | 北海道の旅日記(道東)

3日~4日にかけて、帯広に行ってきました。
3日は7時過ぎに出発しまずは岩見沢へ、そこから帯広へ。

国道234号線を南下し栗山町角田から道道3号線へ入り夕張経由で紅葉山から樹海ロードへ、
その後はひたすら樹海ロードを東へ東へと…。

路面は雪もなくい完全露出、行きも帰りも快適なドライブとなりました。

3日は日曜日、樹海ロードは交通量も少なく、
ナント紅葉山から十勝清水まで他の車を追い越すことも追い越されることもなく走り切りました。

順調に走ったので予定より早く到着、音更の道の駅に入りしばし休憩、
その間に車内で小野伸二選手の引退試合を観戦、最後のプレーを拝見。

小野伸二選手ほどの大物の引退となると、感慨ひとしおですなぁ。

4日は帰るだけ、午前中には札幌に入っていました。

これだけ見れば普通にただ帯広に行って帰ってきただけなのですが、
年のせいか結構疲れたのは我ながらびっくり。

順調に走りすぎて時間を余してしまったせいもあるのだろう。

とありあえず無事に帰ってきました。
年内の泊りでのお出かけはあと1回(旭川)の予定。

さて、いつ行こうかな。

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道の駅 おうむ

2023-11-22 05:39:39 | 北海道の旅日記(道東)

札幌を出て3日目、広尾、帯広、北見を経て雄武までやって来ました。
この日は更に滝上と名寄に寄り札幌に帰りました。

走行距離は3日間で1,182㎞、よく走ったよ。

さて「道の駅 おうむ」です。

廃止になった旧国鉄・興浜南線雄武駅跡にあり、横にはAコープ雄武店があります。
道の駅には関係ありませんが、このAコープはお魚が安いぞ。

ここには今まで何回も来ていますが、私の利用はほぼトイレのみでした。
今回もトイレ休憩に寄ったのですが、せっかくなので写真にある展望ホールに上ってみようと思った。

展望ホールの高さは24m、7階建てのビルに相当するそうです。
都会で7階は普通の高さですが田舎では相当な高層建築です。

エレベーターで展望ホールへ、正面は港です。
そして紋別方面の遠望。

高さ24m、ビルの7階、それは高いぞ凄いぞという高揚感はない。
眺める大自然の方がはるかに雄大だからな。

北海道で半端な高さの展望台なんて、造るものではないな。
せっかくの目玉施設なのに、複雑な気分だ。

でも、そんなものだよ。

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ポン湯(三光荘・北見市留辺蘂)

2023-11-21 05:24:16 | 北海道の旅日記(道東)

北見市留辺蘂市街地の北側、国道39号線沿いにある一軒宿が“ポン湯”です。

正式なお宿の名前は『三光荘』といいますが、地元ではそう呼ぶ方はいません。
“ポン湯”の方がわかりやすいですし、そうでないとピンとこない。

私が物心ついた時からそこに建っている由緒ある温泉ですが、お湯がいいと有名でした。
私も今まで何度か泊まろうかと試みてみましたが予約できなかった。

そのお宿に、今回は晴れて泊まることができました。

私が通されたお部屋は8畳間、定員は2名。
8畳で定員が2名とは珍しい、普通はもっと定員が多いのですが。

アウトバストイレですがこれは私には問題ない、大浴場は24時間入浴可能だというのが大事です。
チェックインしてまずは温泉にひと浴び、浴槽は38℃と42℃の二つあります。

38℃の浴槽は創業時以前より自噴しているもので、
42℃の浴槽は1978年にボーリングで掘り当てたもの。

泉質はともにアルカリ性単純泉で源泉かけ流しとなっています。

アルカリ性とはお肌にいいということ、温根湯温泉やつるつる温泉と同じで入浴すると確かにしっとりします。
この近辺の温泉はどこもお肌つるつるの気持ちのいい泉質ですね。

さて、泊まった際の感想はというと…。
お部屋は快適、お湯は噂通りお肌つるつるですが表示以上にぬるい。

この日の宿泊客は私だけだったと思われます。
もっと宿泊客がいればもっと温かい湯に浸かれただろうな。

また泊まってみたいな…。

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図書Café(北見市立中央図書館)

2023-11-20 05:21:49 | 北海道の旅日記(道東)

北見市内でちょっと時間が余ってしまった。
こういう時は図書館に行けば、手軽に時間がつぶせるというものだ。

北見市は広い、市内に中央図書館の分館と分室、それに各地区の図書館を合わせ9館あります。

その中で中心になるのはもちろん中央図書館で、
現在の中央図書館は2015年に北見駅の裏に新築オープンしました。

新しいだけあって立派、蔵書数は40万冊余りとなっています。
その1階ロビー休憩ラウンジに今年5月にオープンしたのが『図書Café』です。

コロナ禍前は別のお店があったそうですが、閉店し1年半ほど空いていたのだとか。
コロナでは閉店で仕方ないな。

ここはなかなか快適であった。

スペースはゆったり、音楽が流れ一人で行っても気兼ねなく利用できる。
それに、お値段が安い。

コーヒーは250円、紅茶は150円、食事もピザトーストが300円でわらび餅は200円、
ナポリタンから醤油・味噌ラーメンまでありバリエーション豊富で最も高いものでもハンバーグカレーの700円。

こんなにいろいろなメニューを揃えて大丈夫なのか?
思わずオペレーションの心配をしてしまった。

北見駅の裏ということで駅からも歩いて3分、ちょっとした空き時間にも利用できます。
駐車場も広い、ここは穴場だと思います。

※メインはあくまでも図書館、そこを忘れないように

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山内バット製材工場

2023-11-18 05:40:00 | 北海道の旅日記(道東)

本別の道の駅「ステラ★ほんべつ」にはプロ野球選手のバットが展示されています。
その選手は球史を彩ったお歴々ばかり。

大久保裕紀、小笠原道大、松井秀喜、イチロー、落合博満…。
なぜここに、こんな貴重なものがあるのか。

実は本別は北海道で唯一、バット製材を提供する会社があるから。
シェアは日本一、そこから作られたバットは大リーグの全チームでも使用されているのだとか。

実は北海道はバット製材の一大生産地なのですね。

『有限会社山内バット製材工場』

かつて北海道では60あまりのバット製材工場があったそうですが今ではここだけ。
そんな厳しい環境の中、生き残って来たとは凄いではないですか。

創業は1962年、私の年と同じではないか。
同い年ですが、私とは大違いだ。

展示スペースは道の駅の奥の、その一角。
なんだかもったいないなぁ…。

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石北峠

2023-08-08 04:52:45 | 北海道の旅日記(道東)

 

石北峠の標高は画像の通り1,050m、北海道の峠の中では近くにある三国峠の1,139mに次ぐ高さです。

ここはね、涼しいぞ。

気温は標高が高くなると低くなりますが、1,000mだと平地より約6.5℃下がります。
この暑い時期のドライブには最高の場所ではないですか。

そしてここは上川町と北見市の境目、北見市はここを起点にオホーツク海まで110㎞続きます。

元々はここは留辺蘂町でしたが、北見市が端野町、常呂町の1市3町と合併した結果、
北見市はこの山の頂からオホーツク海まで延々と続くことになりました。

110㎞というと東京からは鉄道だと熱海や宇都宮辺りまでの距離になります。
北見市、どれだけ細長いのか…。

ところでかつてここには売店が数軒ありましたありました。
最後に残った売店が営業をやめ施設が解体されたのが2018年4月でした。

峠にはその売店が「温根湯温泉に移転したのでよろしくね(意訳)」の案内がありました。

そうか、ここの売店は温根湯の業者が運営していたのか。
今は道路も整備されていますが、昔は温根湯からここに通うだけでも大変だったろうな。

その大変さを補って余りある賑わいを見せていたのがここの売店でした。

高規格道路の旭川紋別道や今や各地にある道の駅、そしてコンビニもない時代でしたからね、
ここの売店はトイレ休憩などで重宝したわけですよ。

私も使ったことがあるな…。

今はスルーしてしまうことが多い石北峠、たまに立ち寄って景色をご堪能ください。
ここからの眺め、絶景なのは間違いないので。

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金華小学校跡(北見市留辺蘂町金華)

2023-07-22 05:17:22 | 北海道の旅日記(道東)

 

今回は余談です。
金華小学校について深堀しません。

この小学校のことはよく覚えています。
私が実家にいたころ、当時の金華駅から山の斜面を望んだ先にこの小学校が見えていたから。

当時の金華地区は市街地が形成されており、表題の通り小学校もありました。
その小学校が、金華駅に停車中の列車の車窓からよく見えた。

駅の前は市街地、その先に国道がありその先の階段を上った先に学校があった。
当時は現役の小学校なのですから当たり前なのですが、階段はとても整備され綺麗だった。

今はその階段を上った先に「金華小学校跡」の碑があります。

碑文では大正7年に留辺蘂尋常小学校所属奔武華特別教授場として開校したが、
昭和51年3月31日に廃校となった

とあります。
昭和51年(1976年)といえば私は中学生のころ、そんなに早くに閉校していたのか。

その後も金華地区はそれなりの市街地を形成していましたが人口減少が続き、
2015年現在では人口は8名(国勢調査より)。

北海道の過疎地区はみな同じですが、如何ともしがたいのであります。

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常紋トンネル工事殉難者追悼碑(北見市留辺蘂町金華) … 後

2023-07-21 05:23:06 | 北海道の旅日記(道東)

 

常紋トンネルの犠牲者を慰霊する碑は、常紋信号場辺りに1959年に建てられた「勧和地蔵尊」があります。

それとは別に1980年からお遺骨を納める墓と慰霊碑を建てるため寄付を募りました。
その寄付をもとに、1980年に建立されたのがこの慰霊碑です。

尚、お遺骨は「常紋トンネル殉難者之墓」として留辺蘂町宮下墓地に納骨されています。

追悼碑の入り口の目印は留辺蘂町金華の国道242号線沿いに建っています。
入り口の向かい側には駐車場があり、その先にはかつては金華の市街地がありました。

入り口の案内から階段を上りその先の広がる平地にその碑はあります。
ここはかつて金華小学校があった地で、敷地内にはその跡地の碑があります。

碑文を以下に記します。


常紋トンネルは、大正元年から3年の歳月をかけ、本州から募集された人々の強制労働によって建設されました。
工事の途上、粗食、重労働、リンチなどによって殉職された方々は、百数十人以上と伝えられています。
この鉄道によって限りない恩恵を受けている私たちは、無念の死を遂げた方々を追悼し、
北海道開拓の歴史から葬られてきた人々の功績を末永く後世に伝え、
再び人間の尊厳がふみにじられることのないように誓いをあらたにしてこの碑を建立します。
昭和55年11月 常紋トンネル工事殉難者追悼建設委員会 留辺蘂町


我が国では人権を無視しし尊厳を踏みにじられた労働は今でもあります。
『タコ部屋労働』を過去のものとは、今の私たちには言えません。

この碑文は我が国の今を照らしていると思いませんか?

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四号駅逓跡(第二次・北見市留辺蘂町)

2023-07-19 06:06:42 | 北海道の旅日記(道東)

 

留辺蘂市街地にやって来ました。
住所は宮下町、妙法寺という寺院の近くです。

移転してきたのは1896年(97年とも)ですが、
これをきっかけに留辺蘂市街地が形成されていきました。

北見山地から下りた無加川に沿った平地に立地したという、
当時の交通の中心であった駅逓が移った後に市街地ができたのは必然だった。

1897年には生顔常(モイコツネイ)村戸長役場を設置、ポン湯温泉出願、
翌年はムカ原野に入植者があり1899年には温根湯温泉の出願が許可されます。

何かきっかけがあれば開拓がどんどん進むのがこの時期の北海道です。
その後も短期間に入植者が増え、各地に学校が開設されていきます。

野付牛(現・北見)ー留辺蘂間に鉄道が開通したのは1912年です。

鉄道はその後順次延伸開業し、今は廃止になった名寄本線が1921年に全通、
函館・札幌から名寄を経て遠軽、北見、網走へのルートが確立します。

石北本線が全通する前はこのルートが札幌から網走へのメインルートでした。
これにより陸運は鉄道が中心になり、駅逓は1923年に廃駅となります。

駅逓がここに移転してから鉄道が開通するまで、留辺蘂開拓におけるこの駅逓の役割は大きかった、
その功績はもっと知られていいと思うのですが…。

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四号駅逓跡(第一次・北見市留辺蘂町)

2023-07-18 05:15:02 | 北海道の旅日記(道東)

 

北海道の開拓時代、旭川ー網走間の道路は“中央道路”と呼ばれていました。

そのルートは今の国道39号線とは違い、生田原までは国道333号線、
その後は佐呂間町栄から留辺蘂に向かいそこで今の国道39号線沿いとなっていました。

地元に詳しい方向けに解説すると、安国から栄に向かってルクシを通らず丸山峠を越えて留辺蘂へ、となります。

これが開拓期のメインルートだった。
ということで、駅逓もこのルートに沿って開設されることになりました。

網走側から一号(越歳・今の嘉多山)、上川側は九号(上川町中越)までの9カ所です。

留辺蘂市街地が途切れる場所から佐呂間町に向かって4㎞ほど進むと原野の中右手にこの記念碑があります。
注意していないと原野の中に紛れ、発見するのも難しかろう。

このに第一次の「四号駅逓」が設けられました。
開設は1892年、中央道路の開通が1891年なのでその翌年だ。

現地に行けばわかりますがここは山の中、丸山峠へ向かう坂の途中だ。
水の便が悪かったらしい、さもありなんという場所です。

これでは不便だということで、1896年に駅逓は今の留辺蘂市街地に移転しています。

明日は第二次駅逓跡。

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