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奥井みさき、旅の記録と徒然日記

仕事の合間に旅行、旅行の合間に仕事。
フリーライター・奥井みさきの旅日記と、日々思うこと。
札幌からです。

沼の上駅跡(紋別市)

2016-08-02 06:06:25 | 渚滑線・名寄本線






湧別駅と同じ、廃止になった名寄本線にあった駅の跡です。
開業は1921(大10)年。

この当時は道央から網走まで行くには今の石北本線は開通しておらず、
旭川から名寄、紋別、そして遠軽経由という遠回りをしていました。

沼の上駅開業当時は道央から網走まで行くメインルートだったのです。
その後石北本線が開通、名寄本線は1989年に廃止になりこの駅も運命を共にしました。

私が記憶している沼の上駅は2面2線の交換可能駅、
駅前には市街地が広がっていました。

名寄本線廃止時には単式ホーム1面1線になっていたらしい。

駅跡はホームと駅名標がありますがホームは市が公園として整備したもの、
駅名標は同じくレプリカとなっています。

原形はとどめていないとはいえ、現地に何らかの形で駅跡が残っている。
そして市が公園としてその記憶を残している。

その事実だけでも良しとしなければいけませんね。
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湧別駅跡碑

2016-07-27 06:13:59 | 渚滑線・名寄本線



廃止になった名寄本線の湧別駅。

名寄ー遠軽間の本線にある中湧別から分かれた、延長4.9㎞の枝線の終点にありました。
途中には四号線(しごうせん・当初は仮乗降場)駅がありました。

ここにやってくる列車は1日2往復だけ。

そのため私も中湧別―湧別間は1度しか乗ったことがありません。
この2駅間を乗るためだけにわざわざ出かけて行った記憶があります。

さすが乗るにはハードルが高い枝線だった。

開設は1916(大正5)年11月21日、廃止は1989(平成元年)5月1日。

碑では廃止が4月になっていますが、これが最後の運行日だったということ。
正式な廃止日は5月1日になります。

碑のある場所は今の消防署所在地(遠軽地区広域組合消防署湧別出張所)。





駅の敷地は広いので、跡地利用としてはいい施設なのかもしれません。

駅跡、風情はないのですが碑があるだけでも良しとするか。
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上渚滑駅跡

2016-07-17 05:45:29 | 渚滑線・名寄本線



廃止された渚滑線・上渚滑駅。
渚滑線の中では北見滝ノ上駅に次ぐ乗降人員を誇っていました(多分)。

今でもそれなりの市街地を形成しているのは元上渚滑村の中心だった証。

駅の跡地は「上渚滑町民センター」となり、
その横にはバス待合室と「鉄道資料室」が併設されています。

「鉄道資料室」はいつ行っても見ることができません。
中には資料が並んでいるのが窓から見えるのですが、中には入ることができない。

直接見てみたいものだねぇ…。

近くに「上渚滑交通公園」がありホームやレール、トロッコなどが保存されています。








がこれは、当時の上渚滑駅やホームがあった場所とは違います。

実際の駅やホームは「上渚滑町民センター」の場所にありましたし、
ホームやレールの角度も90度ちがうのです。

どうしてそのようなことをするのか、素直に現状のまま保存すればいいものを。
当時と違う場所にそれらしいものを作っても歴史を伝えることにはなりません。

これはありがちなことなのですが、何を考え違いしているのか。
関係者には歴史を伝えるということの重みを考えていただきたい。

上渚滑駅跡地、その痕跡は感じられるもののそれは幻。
でも、無いよりはまし。

難しいものです。
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北見滝ノ上駅舎記念館

2016-07-16 06:43:47 | 渚滑線・名寄本線



昭和60年3月31日の運転をもって廃止された渚滑線の終点・北見滝ノ上駅。
私の実家の最寄り駅でもありました。

駅舎は今でも残っており、記念館として保存・公開されています。
外観は当時のまま、位置は現役当時より少し後ろに下げられています。

終着駅なのでホームは1面1線だけでしたがその後ろに貨物用線路が何本も延び、
蒸気機関車用の転車台もありました。

駅の周辺は貯木場や木工場があり、かなり賑やかでした。
駅にはキヨスクもありましたが、昭和50年ころには撤退しています。

さて記念館の中は当時の運賃表や時刻表などが展示されています。





駅で使っていたハンコがありました。
いつもより大きな画像でアップします。

当時の手書き用きっぷに使われていたハンコが、当時のまま残されています。





「おおとり」「白鳥」「オホーツク」「宗谷」などの列車名、
「遠軽」「京都」などの駅名、「宗谷函館線」「東北」などの経由地線名など。

“北瀧驛第○○號”のハンコは古そうだ。

その他さまざまな業務用ハンコがありますが、懐かしいなぁ。



*北見滝ノ上駅舎記念館

住   所:紋別郡滝上町栄町
開館時間:10:00~16:00
入 館 料:無料
休 館 日:11月~4月
コメント (2)
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紋別市内の循環バス、利用実績が目標達成とはいうものの…

2016-01-17 05:54:33 | 渚滑線・名寄本線
紋別市に本社がある北紋バスは同市内で2路線の“市内線”を運行しています。

「北循環線」と「南循環線」ですがこれは従来の市内路線4路線を再編したもの。
21年10月に試験運行が始まり23年4月から本格運行に移行しました。

27年度(10月~9月)の実績が報告され、実績が目標を上回ったことが報告されました。
14日付の北海民友新聞(本社・紋別市)が報じています。

それによると同年度の1日当たりの実績は南循環線は目標の55.9人に対し実績が54.3人、
北循環線は目標の46.6人に対し実績が51.3人でした。

南北2路線合計では目標102.5人に対し実績が105.6人で目標達成となっています。
何にしろまずは目出度い。

さて南北両路線の1日当たりの運行便数はそれぞれ平日で15便、土日祝日は11便です。

1日15便だとすると1便当たりの乗車人数は南線で約3.6人、北線は約3.4人。
1日11便だとしても1便当たり南線は約4.9人、北線は4.7人です。

いくら過疎の地方都市とはいえ1便当たり3~5人の乗客とは本当だろうか?
紋別市地域交通活性化協議会での報告なので確かな数字なのでしょうが。

通学と通院がメインの乗客だと思われますが、それを含めてもこの数字かぁ…。
地域交通の衰退がいわれていますいが、こういう数字を見るとその厳しさが実感できます。

地方都市は全国どこでも同じ傾向なのでしょう。
そしてこれから更に乗客が減る。

いろいろ考えさせられる記事でした。
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紋別市制記念明細地図

2016-01-06 05:47:09 | 渚滑線・名寄本線



紋別市は昭和29年7月1日に旧紋別町、渚滑村、上渚滑村が合併して成立しました。
当時、それを記念した市街地図が発行されました。

その地図を復刻し発売しています(500円)。

発売元は北海民友新聞社、販売は同社窓口とタウンショップ栄ー夢(オホーツク氷紋の駅内)。

この地図、復刻したのは何年か前に知っていました。
しかしそのときは売り切れで買うことができなかった。

好評だったのか増刷したのだな、図らずも今回は手に入れることができました。

画像には紋別市街地の一部しか映っていませんがもちろん渚滑、上渚滑の両市街地図もあります。
今に続くお店、今は無きお店、その他諸々。

紋劇・セントラル、銭屋、名寄本線、渚滑線、紋別信金、小山旅館などは今は無い。
小林食品、出塚漁業部、五十番、北紋バス、武田医院などは今もあります。

また漁業の街ですね、日魯、太洋漁業、日本水産や地元の水産会社、造船所などもたくさんある。

などなどいろいろありますが、詳しくは現地で買うか収蔵予定の大麻の某図書館でご覧ください。

私は各地の博物館・郷土館で昔の住宅地図を拝見することがあります。
それはどの年代のどの市街地図も、当時から今に続くその土地を知ることのできる一級の資料です。

あちこちに収蔵されていたその昔の市街地図、どれほど欲しいと思ったことか。
たとえ復刻していたにしてもえらくコストがかかる。

まずはこれに商品価値があると見抜いた発行元を称賛したい。
そしてそれを、この類では非常に格安な500円という値付けをしたことにも拍手!

それもこれも地元をよく知る新聞社の存在あってのことと思います。

民友新聞、侮れません。
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紋別のフリーペーパー、「ホワイトペッパー」

2016-01-05 06:09:53 | 渚滑線・名寄本線



ホワイトペッパーは紋別で偶然見つけたフリーペーパーです。

発行は地元で「北海民友新聞」を発行する北海民友新聞社でB2版変形4ページフルカラー、
月2回刊で発行部数は25000部、配布エリアは雄武から佐呂間まで。

紋別市内宅配率は90%、渚滑と元紋別中心部は除くとなっていますがどうしてか?

滝上も配布エリアに入っていますが見たことがない。
きっとも然るべき時に然るべき所に行けばあるに違いない。

さて紙面は地元密着だけあってなかなか詳しい。
紋別にインド・ネパール料理店があるのも初めて知りました。

その他の飲食店はもちろん、様々なお店などの情報も詳しい。

変な風俗情報がないというのもいいな。
それが他地域のフリーペーパーとは違うところだ。

4ページなので掲載店舗数はしょせん知れています。
ですがそこは紋別という狭いエリアの情報、かなり密度が濃い。

エリアに存在する総店舗数に対する掲載率は、
札幌で発行するフリーペーパーの比ではなかろう。

この媒体は地域に対する情報発信源として使い方を間違えなければかなり有効だ。
私がこのエリアで何かを告知するとしたら相当重宝するに違いない。

私は大晦日にちょっと紋別に行っただけでしたが、
それでもかなり紙面を活用させていただきました。

これには助かった。

狭いエリアでもやりようによってはフリーペーパーが成り立つ。
その見本のような紙面でした。

※「ホワイトペッパー」という名前だけはいかがなものかと思った
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かつて、渚滑線が廃止になったとき

2015-10-24 05:03:40 | 渚滑線・名寄本線
JR北海道は来年3月のダイヤ改正で留萌本線の一部廃線をはじめ、
駅の廃止・無人化、閑散区間の減便を関係各方面へ提示しています。

毎日すこしずつ、情報が流れてきていますね。
これに対し地元では、反発や諦めなど様々な声が伝えられています。

これについて地元の方の本音を知りたい。

ところで私の実家は1985年に廃止になった旧国鉄・渚滑線沿線にあります。
当時の旧国鉄の廃止提案に対し地元住民がどう反応したか私は知らない。

が、渚滑線が廃止になったからとても困った、という声は聞いたことがない。

私の実感としては…。

代替バスが新車になって快適になった、
R273にある浮島トンネルの開通と旭川までの都市間バス新設で便利になった、
鉄道がなくても車があるので関係ない。

地元でいろいろ話を聞いても私の実感と違いはない。

滝上町はオホーツク管内ということで、生活圏として紋別市や遠軽町、北見市に依存していました。
それが浮島トンネルの開通で買い物や病院など、旭川市との結びつきが強くなりました。

渚滑線を見捨てて旭川市と仲良くなる方を戦略的に選んだ、という風情。

この浮島トンネルの開通が渚滑線廃止の前年というタイミングだった。
これで渚滑線を維持するより生活が便利になるという現実があったのですね。

逆に紋別市に行くまで不便になったという声も聞いたことがない。
通学生は紋別南高校(当時)まで、通院も病院至近まで乗り換えなしで行けるようになった。

さて今、JRに廃線や減便の提示を受けている地元の方は、本当はどう思っているのか。

もちろん、当時の渚滑線と今のJR各線の事情が違うのは承知の上。
その上で私はやはり、重ねて言いますが地元の方の本音を知りたいのです。

※早く条件闘争に移るべき
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中湧別駅記念館

2013-08-25 01:16:59 | 渚滑線・名寄本線



廃止になった名寄本線の中湧別駅跡に整備されました。
場所は道の駅「かみゆうべつ温泉チューリップの湯」に隣接しています。

駅舎は解体されましたが木造跨線橋とレール、ホームが残され、
除雪用モーターカーと車掌車が保存されています。





ホームは“国鉄”時代のままです。

天井からぶら下がっている駅名標、ホームの柱に備え付けられた灰皿、
そして時折流れる改札から出発までの場内放送(当時のものではない模様)。

“ただ今より、遠軽行の改札をいたします。遠軽行は跨線橋を渡って左側…”

から始まって

“遠軽行が発車します。ドアが閉まります、ご注意ください”

まで、列車の音やホイッスルなどを含めて再現されています。

私の目に留まったのは、タブレット(通票)の仮置き。





タブレット自体が少なくなってしまった現在、実際に目にするのは非常に珍しい。

残すなら徹底的に当時のまま残す、
それが時代を伝えるということですね。

灰皿にしてもホームの柱1本ごとに設置されているなど今では考えられません。
今の駅には喫煙場所はないか、あってもホームの片隅だ。

今の常識と過去の常識が全く違うことがわかります。

過去の遺物を残すということはその当時の社会をそのまま残すこと、
ここではそれがよくわかります。

※だからこそ、場内放送のやらせ感が残念でした。立川真司に頼んで再録音すれば?
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上興部駅の駅弁 … 後

2013-01-31 05:40:19 | 渚滑線・名寄本線



私が滝上の実家にいた頃、最も早く旭川や札幌に行く手段は急行「紋別」に乗ること。

北見滝ノ上駅を早朝5時半頃に出発、渚滑駅で急行「紋別」に乗り換え、
名寄経由で道央に向うと旭川には10時頃、札幌には12時頃に着きました。

急行「紋別」は名寄本線の最優等列車で車両はもちろん全て急行型。
その途中に停車する興部駅で駅弁を食べた記憶があります。

それは「お寿司」、巻き寿司といなり寿司だけのシンプルな内容だったと記憶しています。

そこで早速、昭和41年発行の「鉄道弘済会道内時刻表」を見てみました。

駅弁の案内の中に興部駅の案内があります。
その中に“やまべすし150円”とあるではないか。

そうか、これが上興部駅で売られていたあの「やまべ寿司」か。

ここで私の記憶がつながりました。
大正14年から上興部駅で売られていた駅弁が後に興部駅で売られており、
同じ発売元の駅弁を私も食べていた。

しかもそれが平成に入り京王百貨店で復活していた。

そこに目をつけた京王百貨店も凄いことよのぉ。

今は名寄本線も廃止になり駅弁の発売元も廃業しました。
「やまべ寿司」も西興部村で今どうなっているかもわからない。

しかしこうして記憶を継いでいる私のような人がいることを忘れてはいけませんね。

実は京王百貨店の「駅弁大会」では同じ名寄本線の渚滑駅の「帆立めし」も復刻しています。

同じ廃止路線から2度の復刻駅弁。
字数も尽きてきたのでその話はまた次に機会に。

終わり
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