フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

3月27日(木) 晴れ

2008-03-28 10:52:40 | Weblog
  7時半、起床。私にしては早起き。ベーコン&エッグ、トースト、オレンジジュースの朝食。論系の新主任ということで事務所から(あるいは前主任経由で)いろいろな問い合わせのメールが届く。3月31日までとか、4月4日までとか、回答の締め切りまでの時間が短いものばかりで、あわただしい。一つ悩ましいのは、受験生向けの大学体験ウェブサイトに論系紹介のコンテンツを作成しますか、どうしますか、という問い合わせ。6つの論系中、それをやっているのは文芸・ジャーナリズム論系だけである。これはちょっとかっこがつかないのではないだろうか。やるなら6論系全部をそろえるべきだろう。論系紹介ということであれば、基礎講義の第一回目のコンテンツ(私が論系の紹介をしている)をそのまま使うのが一番いいのだが、事務所に問い合わせたらそれはダメなのだそうだ。第一に、大学体験ウェブサイトの論系紹介は15分程度を期待されているが、基礎講義の一回目は40分ほどである。第二に、基礎講義はやはり新入生のためのものなので外部向けには使いたくないとのこと。要するに、15分版を新たに作成せよということである。う~ん、どうしようかな。作成するとなると、私がやることになるのだろうなあ・・・。回答期限は3月31日。
  午後、外出。東京都写真美術館で開催中の「シュルレアリスムと写真」展を観に行く。美術館に着いて、まずは1Fの「シャンブル・クレール」で昼食をとる。いつもの生ハムのオープンサンドとミルクティー(アールグレイ)。生ハムの塩味とミルクティーの甘味の相性がとてもよい。

       

  シュルレアリスムというと「難しい」「わけわかんない」という反応が多いと思う。しかし、シュルレアリスムの作品そのものは、本当は、そんなに難しいものではない。難しいのは、シュルレアリスムを論じる人たちの文章なのではないかと思う。それが作品を必要以上に難しいものに見せてしまっているのではないかと思う。今回の展覧会を見て改めてその思いを強くした。
  たとえばアジャの一連のパリの写真は、もしこれがシュルレアリスムの展覧会でなければ、誰もシュルレアリスムの作品として観ることはないだろう。それらは1900年前後の何の変哲もないパリの通りや建物の写真である。なぜ、それがシュルレアリスムの端緒として位置づけられているのかといえば、誰も気をとめて見ることのない風景=現実にカメラを向けたものであったからだ。何気ない日常。それは当時の感覚では写真に撮るようなものではなかった。デジタルカメラが普及した現在では、われわれは忘れてしまっているが、ちょっと前まで、やたらにパチパチ写真を撮ることは「フィルムがもったいない」「現像代がばかにならない」ということで抑制されていた。カメラを向ける対象、シャッターを押す瞬間というのは、かなり限定(自己統制)されていた。しかし何の変哲もない風景も写真に撮られることで、凝視の対象となる。そうするとそこに何かしらの発見がある。なんとなく見ていた風景、見過ごしていた風景の存在感が増大する。われわれが見ている現実は、深度の浅い現実であったことに気づかされる。シュルレアリスムというのは、現実を見ないで仮想の世界に遊ぶことではなく、浅い現実からより深い現実へ向かうことである。カメラというのはそのための道具として役に立つ。人間が自分の目で現実を見ているとき、そこには欲望や関心による遠近法が生じているが(関心のないものは目に入らない)、写真はそうした主観的遠近法をフラットに修正する作用がある。
  ふだんわれわれがあまり意識して見ていなものを凝視する(より深い現実へ)というシュルレアリスムの精神は、ありふれた物のありえない組み合わせという方法論につながっている。たとえばマン・レイは、解剖台の上にミシンと蝙蝠傘を置いてそれを写真に撮った。ミシンも蝙蝠傘もそれ単体では日常よく目にするありふれた物体だが、それが解剖台の上に並べて置かれることで、意表をつかれるというか、哲学的思惟を促されるというか、恐怖に震えるというか、あるいはクスリと笑ってしまうというか、とにかくわれわれの現実の深度のレベルがそこで突破されることは間違いない。このとき浅い現実を構成していた物たちは芸術作品を構成するオブジェに変身する。ありふれた物同士のありえない組み合わせのほかに、物をオブジェにする方法には、物の一部を切り取ったり、拡大したり、歪ませたりするという方法がある(カメラを使えばそれがやりやすい)。こうした方法を駆使した作品は、われわれがイメージしている「シュルレアリスム」の作品っぽくなっていくわけだが、肝心なことは、それらは浅い現実から深い現実へと向かおうとする精神の冒険だということである。「難しい」「わけわかんない」という感想は、浅い現実の水準(日常的水準)にとどまろうする怠惰な精神(ある意味、健康な精神ともいえるわけだけど)の抵抗の声である。
  3時半頃に美術館を出て、恵比寿→代々木→飯田橋とJRを乗り継いで、飯田橋ギンレイホールで『タロットカード殺人事件』を観る。ウィッディ・アレン風味のスパイスをたっぷり降りかけた「火曜サスペンス劇場」という感じの映画だった。

       
                 お財布ケータイ(盗作です)