花邑の帯あそび

1本の帯を通して素敵な出会いがありますように…

「傘文様」について

2012-11-08 | 文様について


presented by hanamura ginza


立冬を迎え、いよいよ本格的な冬がやってきます。
寒さも急に厳しさを増したようで、
せかされるように、冬支度をはじめている方も多いことでしょう。
秋から冬へと季節が移り変わるためか、
時雨が降ることも増え、
傘を持ち歩く日も多くなりました。

さて、この傘を持ち歩くということは、
日本では習慣となっていますが、
ヨーロッパの人々がこの光景をみると、
とても不思議に思えるようです、
降水量が少なく、降っても霧雨の多いイギリスなどでは、
傘を持ち歩く習慣がないそうです。
そのため、ヨーロッパの人々は日本に来ると、
傘の種類が多いことにも驚くということです。

こういった話では、
日本と外国の文化の違いを垣間見ることができ、
面白いですね。

今日は、この「傘文様」についてお話ししましょう。

傘の歴史はたいへん古く、
紀元前 2000 年前のエジプトの遺跡では、
壁画に傘の絵図が描かれています。
しかしながら、その頃の傘は、
人々が雨などを除けるために作られたのではなく、
神さまや王たちの威光をあらわす道具として、作られていました。

その後、西欧では傘が日除けとして用いられることになりましたが、
当時の傘は永らく上流の貴婦人たちがもつ贅沢なもので、
富と権力の象徴でもあったようです。

一方、古代インドでも傘は吉祥道具のひとつとされ、
高僧や貴族などの限られた人々しか使用できない特別なものでした。
また、古代の中国でも同様に
傘は魔除けの道具として考えられていました。

日本に傘がもたらされたのは、古墳時代の頃です。
仏教の儀式に用いる道具として、中国から伝えられました。

日本でも、傘は高貴なものの象徴として考えられ、
一部の貴族たちにしか使用ができないものだったようです。

また、当時中国からもたらされた傘は、
「きぬがさ」(衣笠、絹傘)とよばれ、
布地が張ってあるものでしたが、
雨のときには使用することができず、
その用途は日除けに限られていました。

やがて、平安時代になると
和紙や竹細工の技術を応用した日本独自の傘が考案されました。

室町時代のころには、
和紙に油を塗ることで防水効果をもった傘が考案され、
現代のように、雨の日にも傘を用いることができるようになったようです。
また、この時代に傘をつくる傘張り職人も登場しました。

傘が意匠のモチーフとして用いられるようになったのも室町時代からで、
当時つくられた素襖(すおう)という男性用の装束には、
傘の文様があらわされています。

戦国時代には、
開閉可能な傘が登場し、
屋外で催される茶会の席では、
傘が風流な趣きを演出する道具として
椅子の脇に立てられました。

江戸時代の頃には、
庶民にも傘が普及し、
歌舞伎や舞踊の演出にも多用されました。
また、屋号を書いた宣伝用の傘もつくられていたようです。

傘の種類も、
「番傘(ばんかさ)」とよばれる柄の太い男性用のものや、
「蛇の目傘(じゃのめかさ)」という細身のもの、
舞台用の華やかなものまで作られるようになりました。

傘の普及とともに、傘張りの仕事も増え、
浪人が内職で傘張りをすることも多かったようです。
よく時代劇の中に、
士官の口がみつからない武士が
傘をつくる場面が登場しますね。
傘は江戸時代を象徴する道具でもあるのでしょう。

小袖や帯の意匠には、
こうした番傘や蛇の目傘が意匠化され、
粋な柄として人気になりました。

傘を差した絵図は、浮世絵でも多く見られます。
その中でも歌川広重の描いた
「東都名所 日本橋乃白雨」は有名ですね。



上の写真の名古屋帯は、
大正~昭和初期頃につくられた絹布からお仕立て替えしたものです。
歌舞伎の一場面をあらわしたもののようですが、
雪が積もる軒下や暖簾、
蛇の目傘がだいたんに配置された構図からは、
和の情緒と物語性が感じられます。

ちなみに、蛇の目傘の名前の由来は、
白い輪が入った絵柄が上から見たときに
蛇の目のようにみえるためのようですが、
日本では蛇が水神の遣いとされていたことも、
関係があるようです。

まだ少し早い話しですが、
来年の干支である「蛇」にちなんで
蛇の目傘の文様を身にまとうのも
お洒落でよろしいのではないでしょうか。

※上の写真の「傘に雪文様型染め 名古屋帯」は 11 月 9 日(金)に花邑銀座店でご紹介予定の商品です。

花邑 銀座店のブログ、「花邑の帯あそび」次回の更新は 11 月 22 日(木)予定です。

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