花邑の帯あそび

1本の帯を通して素敵な出会いがありますように…

「算盤(そろばん)縞文様」について

2012-05-17 | 文様について

presented by hanamura ginza


5 月も半ばを過ぎ、
気がつけば、すっかり日が長くなりました。
日中は夏を思わせるような暑い日も多く、
すでに袷ではなく、単衣をお召しになっている方も多く見かけます。

温暖化が進んでいることもあり、
年々、単衣を着用する時期が長くなっているようです。

単衣の着物は、着心地も軽やかですが、
意匠も、袷のようにあたたかみのあるお色目や
柄行きとは趣きが異なり、
着姿もすっきりとして涼やかです。

あっさりとした印象の柄行きといえば、
縞文様もそのひとつですね。
現在では、数えきれないほど多くの縞文様がありますが、
この縞文様が広まったのは、
江戸時代のころです。

シンプルななかにも風情が感じられる、
「粋」を愛した江戸っ子たちの間で、
縞文様はたいへんな人気となり、
さまざまな縞文様が考案されました。

今日は、その縞文様のなかでも、
親しみ深い道具を意匠に取り入れた
算盤(そろばん)縞文様について
お話ししましょう。

現代では、電卓やパソコン上の計算機などが一般的で
日常生活で算盤を目にする機会はすっかりなくなりましたね。
少し前までは、算盤塾も多かったのですが、
その数もだいぶ減ってしまったようです。
それでも、算盤は右脳を活性化するということで、
現在では、また注目を集めてもいます。

算盤の歴史は古く、
一番最古のものといわれている算盤は、
紀元前 2000 年ごろのもので、
メソポタミア遺跡から砂の上に石を置いて計算する「砂算盤」が発掘されています。

古代エジプトや古代ギリシャ、古代ローマでも、
算盤が使われていたことがわかっています。

西洋で使われていた算盤は、
やがてシルクロードを通じて、中国にもたらされました。
1700 年前の中国で書かれた文献「数術記遺(すうじゅつきい)」に
算盤についての記載があります。

その中国で、広く算盤が普及したのは14世紀頃、
日本では鎌倉時代~室町時代になります。
この時期に、算盤が日本にもたらされました。
貿易の拠点だった長崎や堺の商人たちの間で
とくに広まりました。

もともと、中国からもたらされた算盤は、
珠(たま)が丸いものでしたが、
日本ではより球がはじきやすいように
菱形に改造したものがつくられるようになりました。

ちなみに、アメリカにも盲人用の算盤がつくられていますが、
こちらも、珠が丸いようです。
アメリカには、菱形に加工できる職人がいなかったため、
珠が丸くつくられたとのことです。
こんなところでも日本人の器用さが垣間見られますね。

やがて、江戸時代になると、
数学が広がり、それとともに算盤も広く普及します。
寺小屋などでは、子供たちが読み書きとともに
算盤も習うようになりました。

また、庶民の間にも広まって、
旅行の際に持ち運べる折りたたみ式の算盤や、
小さな算盤の根付がつくられたりもしました。

少し前に公開された映画に、
「武士の家計簿」というものがありましたね。
その内容は、主人公の下級武士が、算盤をはじいて
傾いた家計を立て直すというものですが、
戦のなくなった武士たちにとっても、
武力よりも頭脳が必要となった時代だったのでしょう。

このように算盤が一般的な道具となったことで、
当時流行した縞文様に算盤の珠を合わせた
算盤縞文様が考案されました。
ただの縞ではなく、算盤の珠を縞に見立てた
洒落っ気のある文様として、広く人気を博しました。



上の写真は、江戸~明治時代につくられた
木綿布からお仕立て替えした名古屋帯です。
こちらは、もともと着物だったものですが、
藍色と鼠色で算盤縞があらわされています。
シンプルながら、算盤の珠のかたちの面白さが巧みに表現され、
いま見ても洒落た雰囲気があります。
日常で使っていた道具を文様に取り入れた
江戸っ子の粋な風情が感じられますね。

しかし、もちろん江戸時代の人々は、
日常の道具をどれでも文様にしたわけではありません。
算盤には文様のモチーフになるほどの
「もの」としての美しさがあるということなのでしょう。

※上の写真の「算盤(そろばん)縞文様 型染め 名古屋帯 」は花邑銀座店でご紹介している商品です。

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「花邑の帯あそび」次回5月24日(木)の更新は「半巾の帯展」準備のため、お休みとさせていただきます。次回の更新は5月31日(木)予定です。


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