ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

塗仏の宴(宴の支度) 京極夏彦

2010-03-24 12:54:00 | 
ある種の中毒といったら大げさだろうか。

いけないと分っていながら読みたくなる作家がいる。一人はアメリカのジェームズ・エルロイだ。毒の強い作家で、複雑な構成以上に、人の心の暗い部分を見せ付けてダメージを与えてくる罪なミステリーを書く。

そして、もう一人が表題の作者である京極夏彦だ。この作家の場合は、身体に毒というか、負担が大きい。なにせ異常なくらい分厚く重い本なのだ。しかも、呆れたことにデビュー作が一番軽い。作品を出す度に重く分厚くなるのだから頭が痛い。

いや、正確に言うと痛くなるのは手首や首だったりする。私の場合、通勤電車の中が読書タイムなので、まず持ち歩くだけで疲れる。さらにそれを読み出すと必然的に手に負担がかかる。

帰宅して、だらしなくも寝っころがって読もうものなら首まで痛くなる始末である。なんて迷惑な本なのだろうか!それにもかかわらず、読みたくなる要求に駆られるのだから困ったもんだ。

なぜだろう?

ご存知の方も多いと思うが、京極堂は理屈っぽい。しかも偏屈だ。私は大雑把な人間なので、あまりに緻密な論理は食中りを起す。だから本来、京極堂のようなものは否定したくなる。

では、なぜにどこに魅かれるのだろうか。

人間って奴は不条理な生き物だ。その人間が作り上げた社会には、納得のいかないこと、分らないこと、どうしようもないことが溢れている。

これは完璧ならざる人間が、物事をなす以上必然的なことだが、それでも辛い。なぜに苦しまねばならぬのか。なぜに思うようにならないのか。自分は正しいはずなのに、なにも悪いことなどしてないはずなのに、何故?答が見出せないのは辛い。本当に辛い。

このような答えのない苦しみに対する処方箋として、妖怪が作られた。おどろおそろしい妖怪は、まさに人間のためにこそ存在する。

だからこそ、京極堂は妖怪を愛する。愛するがゆえに、その妖怪を私利私欲のために濫用し、人々を苦しめる輩への怒りを隠せない。

世の中には、警察や司法では裁けない犯罪が存在する。曖昧で明白でない人の心の闇を裁く法など存在しない。だからこそ、現代の陰陽師・京極堂が現われて、裁けぬ悪を追い払う。そこにカタルシスがある。多分、私はそこに魅かれる。

とはいえ、表題の本は600頁を超す長編であるにもかかわらず、実は前ふりに過ぎない。真の結末は、次の「塗仏の宴 宴の始末編」でこそ明かされる。

前ふりにしては長過ぎるぞ!京極堂。これさえなければ、もう少し人気が出ると思うのだけどね。
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事業仕分けの行きつく先

2010-03-23 12:19:00 | 社会・政治・一般
巨額な財政赤字と、少子高齢化に伴う社会規模の縮小は、日本の財政システムにリストラを迫る。

だから、民主党の金看板でもある「事業仕訳」の意図は分る。分るが、どうしても不信感を抱かざる得ない。国家財政のリストラとして、これまで官僚が仕切ってきた縄張りに踏み込むのは善し。

しかし、なにかが足らない。足らないからこそ信頼されない。

やるならば、まず第一に自分たちが率先して範を示すことが必要だと思う。歴史を顧みれば当然のことだと思う。江戸時代の上杉鷹山に代表されるように、財政改革の成功例を見ると皆、まずリストラの提唱者自らが模範を示している。だからこそ、厳しいリストラを他の者も受け入れた。

まず、国会から最初に事業仕訳をしてみるべきだ。例えば参議院は定員100人程度、衆議院も現行の三分の一とする。これだけでもかなりの歳出削減になる。

自らが率先して過酷なリストラを受け入れてこそ、反対意見を抑えることが出来る。その覚悟がないからこそ、今の民主連立与党の事業仕訳は支持されにくい。リストラされる側の官僚たちからも支持されず、むしろ姑息な回避行為に拍車をかける。

改めて確認するが、この先の日本国の歳入は減少の一途を辿る。人口の減少と、経済規模の縮小は不可避だと断定していい。だからこそ、巨額の財政赤字を子孫に残すようなことは避けねばならない。

歳入が減る以上、歳出を減らすのは当然のことなのだ。

だが、日本の社会構造は、この政府の支出に頼って生計を営む多数の企業、個人を抱えてきた。その大きな柱であった公共事業の削減が、永年与党であった自民党を政権から追いやった。

小泉改革の最大の失敗は、自らが改革の模範者とならず、弱い者を切り捨て、残ったものを活かそうとしたことにある。切り捨てられたものが改革を支持しなくなるのは必然だった。

現在、民主連立内閣は官僚利権(財団などの公益法人ら)にリストラを迫ることにより、財源を購い、それを母子手当て等でばら撒いて有権者の支持を得ようとしているらしい。

断言します。このやり方は必ず有権者の支持を失い、政権を追われることになるでしょう。自分たちは傷を負うことなく、他人に傷を負うことを強要するような政治は、民主主義の下では決して支持されるわけありません。
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今日の出来事 アンナ・カヴァルダ

2010-03-19 14:47:00 | 
勘違いして買った短編集のなかで、一編心に残ったのが表題の作品だ。

読む進むに従い、心の奥底にしまって置いた思い出が浮き上がってきた。じわじわと湧き上がる不安感と、過去のことだと捨て鉢になる厭らしさ。

あれはまだ大学生の頃、新宿の深夜喫茶でバイトしていた時だ。遅番の私は、23時に出勤して翌朝8時までの勤務だった。夜更かしには自信があったが、やはり立ち仕事は辛い。

仕事を終えると、体の芯に疲労がこびりつく。身体をほぐすため、新宿から渋谷までを歩くことがあった。途中の明治神宮を通り抜ける参道は、緑が濃く疲労を吸い取ってくれる。

私はこの参道を歩くのが好きだった。多分多くの方は、大晦日から正月にかけての初詣で異常に混み合った参道しか知らないと思うが、時季はずれの明治神宮は人影まばらで、軽いハイキングにも似た爽快さが味わえる。

その日も渋谷まで歩くつもりだった。夏休み中とはいえ朝の新宿は人ごみでごったがえす。私は喧しい表通りを避けて、細い路地を抜けて代々木方面に向かった。

大都市である新宿といえども、一歩裏に入り込むと、そこには古い木造家屋が立ち並ぶ。男同士でも入れると噂のある連れ込み宿の前を足早に通り過ぎた時だ。

なぜか路上に手提げの紙袋が放り出してあった。何気なく見やると、なにやら紙に包まれた袋が幾つも入っている。よく見ると、包装紙は某有名デパートのものだ。

興味にかられて持ち上げると、妙に重い。もしかして札束かな?と思った。少し前に竹藪に札束が捨てられた事件があったからだ。

やった!おいらが第一発見者だ。なんて、手前勝手な妄想を浮かべつつ、冷静にあたりを見渡す。誰も見てない。

路上に放置してあるくらいだから、持ち去っても盗みじゃないよなと呟きながら、手に持って歩き去った。しばらく歩き、公衆電話の裏の路地奥で中味を見てみる。

ん?なんだ、柔らかいぞ。

包装を解くと、中からビニール袋に入った粉が覗けた。

さっと顔面から血の気が引いた。やばい!

この白い粉がホットケーキミックスである訳がないことぐらいは、暢気な私でも分る。丁寧に包装しなおし、あたりを見回して人気がないことを確認した。即座にゴミ置き場のわきに放り出して、私は早々に逃げ出した。

その日一日、気が気ではなかった。もうなにもないだろうと安堵した数日後のことだ。新聞の紙面の片隅に、新宿で発砲事件が起きたとの記事に目が釘付けとなった。紙面では、暴力団同士の抗争だと伝えてあるだけで、詳細は不明だった。

私の想像では、紙袋一杯の白い粉末の末端価格は、数千万どころか億の単位に達する。人の生き死にかかわる値段であることぐらいは、容易に想像がついた。

もちろん、あの白い粉末が小麦粉である可能性はある。私の好きなホットケーキミックスであったかもしれない。そして、暴力団同士の抗争は、白い粉末とは無関係である可能性だって十分ある。

うん、そうに違いない。あれは関係ない・・・と思う。いや、思いたい!

だが、この後ろめたい気持ちは拭いきれない。あれが小麦粉で、たちの悪い悪戯であったら良かったのにと、何度も心の中で繰り返す。

私は夏休みの終わりとともに、そのバイトも止め、しばらくはあの近辺には近寄ることさえしなかった。ほんの気まぐれな振る舞いが、これほどまでに祟るとは思いもしなかった。

表題の短編を読んで、またもや思い出してしまった。既に三十年近くたっている今でさえ、心の奥底に苦い悔恨が残っていることを確認せざる得なかった

人生って、ままならぬものなのだと思います。
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泣きたい気分 アンナ・カヴァルダ

2010-03-18 15:25:00 | 
一冊50円、三冊100円。

この表示に引っかかった。確定申告のため、年に一回しか会えないクライアントとの待ち合わせのため、その町の駅に久しぶりに降り立った。いささか早く着き過ぎたので、駅前通りの古本屋に飛び込んだ時のことだ。

一冊目はフロスト警部シリーズ、二冊目は戦争物のドキュメンタリー。で、三冊目に迷った。一冊目は長編だし、二冊目は読み応えがありそうだ。ならば、三冊目は軽い短編集がいいな。

そう考えて何気に手に取ったのが表題の作品だ。さっと目次をみると、適当な長さの短編が収められている。時間も迫っていたので、まあいいやとレジに向かい購入。

例によって、未読の山に積んでおき、数日後に何の気なしに手にとって鞄のャPットにしまい込んだ。電車のなかで取り出して、3ページとしないうちに後悔の念に襲われた。

あらら、これって恋愛小説だったのか。

自慢じゃないがこの私、恋愛小説を読んだことなぞ数えるほどしかない。っつうか、可愛らしいアイドル歌手の「永遠の愛~♪・・・」などと甘ったるい歌声を聞かされただけで、無性に凶暴な気分になってサンドバッグを叩きたくなる性分である。

別に恋愛が嫌いなわけではないが、世の中向き不向きって奴はあると思う。まぁ、率直に言って自分が恋愛感情に舞い上がっている時は別にして、日常的には実務、実用一点張りの堅物であり、甘ったるい感傷とは縁遠い無骨物なのだ。

ところが困ったことに、その時私は電車のなかであり、他に読むべきものを持ち合わせていなかった。降りるべき駅に着くまで、どうみても50分以上ある。この暇をどうする?

三冊100円とはいえ、金を出した以上無駄にするのも嫌だ。なによりも、無為の時間を過ごすことが大嫌い。で、仕方なく続きを読み出した。

たしかに恋愛小説も含まれているが、この作者なかなかに語り部である。うまい!と思った。私としては縄張りの外に飛び出した気分だが、そう悪いものではなかった。

一言で言えば、穏やかに笑いたい気分。

まぁこの先、ハーレクインロマンスは読まないと思うけど、この作者の短編なら恋愛ものでも十分に楽しめる。ちょっと意外な驚きでしたよ。
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野良猫との戦い

2010-03-17 13:46:00 | 日記
やっぱり腹が立つ。

母が入院して一月半がたった。病状は回復基調にあるが、なにせ一ヶ月以上神経が麻痺していたため寝たきり状態だ。ただ回復の兆しはみえる。まだ手を握ることも出来ないぐらいだが、少しずつ手足が動くようになってきた。

しかし、如何せん高齢である。リハビリには時間がかかりそうだ。私は一年以上かかるとみている。妹たちが介護申請をして、現在介護認定待ちだ。

なるべくなら自宅で介護したい。まあ、気長にやるしかない。もっとも出産以外では入院経験がない母は、けっこう苛立っている。手足は麻痺しているが、口は達者(でも、食べられない)なのでストレスから大声を出すらしい。

おかげで、個室に入れられている。私の前では大人しいが、妹たちの前ではけっこう我が侭らしい。看護師さんたちとも喧嘩していると聞く。困ったもんだ。その元気をリハビリにあてろと言うと苦笑いしている。

それはともかく、現在空家状態の実家の庭を、野良猫が我がまま顔で君臨しているようだ。以前から母が猫が庭に排尿して臭いとぼやいていたのを聞いてはいた。いろいろ対策を練っていたらしい。おかげで、しばらくは大丈夫だった。

ところが母が長期にわたって家を空けているせいか、いつのまにやら野良猫がやってきて庭の片隅をトイレにしている。これがまた臭い。

私は車を実家の庭に置いているので、母を見舞った帰りに猫の糞がたまっているのに気がついて、ため息混じりでスコップとちり取りで掃除をした。母がぼやくのも無理ないと思った。

聡怩Iえて、近所の自宅まで帰る途中で気がついた。なんか手が臭い。猫のオシッコの臭いだ。

なんと野良猫の奴め、スコップとちり取りに排尿していたようだ。なんと悪賢い奴だ。さすがに腹が立った。ちなみにこの臭い、なかなか取れない。

この話を母にすると、麻痺している足をばたつかせて怒っている。ふむ、下手な励ましよりリハビリに効果あるかも。母は早く元気になって、猫を追い出さねばと意気込んでいる。

その意気や善し。その調子でリハビリに励んで欲しいものだ。

その日の病院の帰り道。氷雨降るなか、暗い夜道を歩いていると、片側一車線の道の真ん中に猫の轢死体が放置されていた。車に轢かれたらしい。

この寒さだというのに、既に辺りには死臭が漂っている。野良猫の寿命は短い。ほとんどの場合、二年程度で死を迎えるという。猫の尿臭には腹が立つが、それでも野良猫の死骸から漂う寂寞とした儚さには胸をつかれる。

うちの庭に尿さえしなければ、もう少し寛容でいられるのだがね。なんかいい知恵、ないかな?
コメント (8)
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