ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

接待交際費の勧め

2009-07-24 11:55:00 | 社会・政治・一般
時々、どうしようもなく腹が立つことがある。

先月末のことだが、新聞の片隅に出ていた小さな記事がそれだ。厚生労働省肝煎りの新しい政策である雇用促進事業への申し込みがなく、新たに二次募集をかけるという間抜けな記事だ。

あんな非現実的、かつ非実用的な政策にのる企業があるわけないだろうと思っていたら、予想とおりこのざまだ。数百億の予算が宙に浮いているのだから、官僚どもの頭の悪さには吐き気がする。

さらに言うなら、そんな間抜けな政策の失敗を批難できない腰抜け、かつ不勉強なマスコミにも腹が立つ。役所の広報資料を横流しして、それを取材と称する怠惰さに安住しているのだろう。

このところ厚生労働省の失態が目立つが、実際は他の官庁でも似たようなものだ。原因は分っている。政策を企画立案するエリート官僚が現場を知らないからだ。机上の理論だけで、実施の困難さを勘案していない良く出来た役人の作文が、法律として国会を素通りしているからだ。

以前だって、日本のキャリア官僚たちは現場を知らなかった。それでも今よりはるかに有益な法案を作成できた。なぜか?法律作成の段階で、下級官僚たちの意見が上手に取り入れられていたからに他ならない。

では何故、今それが出来ないのか。下級官僚によるキャリア官僚への接待飲食が出来なくなったからだ。さらに管轄する業界との飲食接待が禁じられたがゆえに、ますます行政側が社会の実情に疎くなったからでもある。

このような行政の機能不全の原因は、突き詰めるなら、庶民の嫉妬感情にある。具体的には食料費問題(税金で飲み食いするな!)と言われた役所の接待飲食批判にこそある。

よくよく考えて欲しい。頭は良いが現場を知らないエリートさんたちが作った法律の原案を、会議室で下級官僚たちが不具合を指摘したらどうなるかを。

エリートたちは、人事権のみならず予算権などの権限を一手に握る。その誇り高きエリートが、公式の場で面子を潰されたら、後でどのような報復に出るか。官庁のみならず、大きな組織で働いた経験がある人ならば、下級職の人間に面子を潰された上級職の人間の報復が如何なるものか分ると思う。

公には報復なんて認めるわけがない。しかし、その報復が実際にあることは、誰もがみんな知っている。だからこそ、会議室とかの役所のなかでは、批判的な意見が交わされることはない。これが現実だ。どんなに正しい意見でも、それが上級職の人間のプライドを傷つけるようなものならば、必ず報復があるのが人間の本性だ。

だからこそ、官官接待が必要だった。非公式な場で、酒と食事を飲み交わしながら、相手を気遣いつつも本音の意見を言い合って、上の人間に実情をわかってもらう。上の人間は非公式な場での批判ならば、それが面子を傷つけぬがゆえに受け入れる。非公式な場であるからこそ、組織の体面、権威を脇に置いて下の人間の話を聞ける。非礼があったとしても、それは酒の席での失態として、後日謝れば済む。

これが日本の社会を円滑に動かす知恵のあり方だった。このやり方が官民問わず行われてきたがゆえに、日本は飲食業が特異な発達を遂げた。料亭や高級クラブは、実に有用な非公式会議の場であったのだ。

それを浅はかな良識で禁じたが故に、役所が世の実情にあった改正法案を作れなくさせた。一見正論にみえながら、それでいて幼稚な嫉妬に過ぎぬ接待禁止が、むしろかえって世の中を悪くした。

納得できないならば、もう一度よく考えて欲しい。自分の将来の出世、昇給、転勤などの重要な権限を握る相手と飲んで、楽しい時間を過ごせますか?仕事だからこそ、そんな相手とも酒を飲むのです。

想像して欲しい。会議室の場で社長が企画したプランを、下っ端の若い社員が「こんなプランじゃ売上伸びるわけがないです」と発言する場面を。その若い社員の意見が正しいとしても、決して採用されることはないだろうし、その若い社員の将来は厳しいものになることぐらい、誰でも分ると思う。

だからこそ、日本では接待交際の場が活用された。酒を飲み交わしながら、上手に意見を押し通すことこそ、仕事の出来る大人のやり方であった。非公式な場だからこそ言えることがある。これは仕事に限らず、日本における意見交換のあり方の典型だったはずだ。それをつまらぬ倫理観、嫉妬心から禁止した結果が今の惨状だ。

もちろん、税金を使っての私的な飲食に流用する良からぬ輩もいたことも確かだ。それを罰するのは当然のことだが、多くの場合、仕事の上で必要な接待飲食だと思う。このような非公式な場を上手に活用することこそ、仕事を円滑に進める上で必要不可欠なことなのだ。

私の知る限り、仕事の出来る人間は遊び上手が多い。遊びの部分をいかに使うかで、仕事に差が出るのが日本の社会だ。これは官民問わず共通の傾向だと思う。それを浅薄な良識に上塗りされた嫉妬心で潰しやがった。

つまるところ、この愚行のつけを今、我々国民全体が負わされているわけだ。アァ情けない、みっともない。
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マップス 長谷川裕一

2009-07-23 12:15:00 | 
世に数多居ると思われる高橋留美子ファンには申し訳ないが、私はあまり好きではない。

正確に言えば、高橋留美子の漫画が嫌いなのではなく、その影響を受けた亜流の漫画が嫌いなのだ。高橋留美子自体は、漫画家として希代のストーリーテラーであり、それなりに評価している。

ところが、彼女の絵柄に影響を受けたと思われる絵柄の漫画が好きになれない。特にあの鬼娘ラムちゃんの類似キャラクターが嫌だ。

高橋留美子以前には、あのような造形の女性キャラクターはなかったので、その独自性は認めている。しかし、あまりに安易過ぎる模倣キャラが増殖したことが不快だ。

表題の作品もこの系統の絵柄なので、私としては読みたくない種類の漫画であった。はっきり言えば、高橋留美子の絵柄に似ているがゆえに嫌だった。しかも作者の趣味なのか、やたらと女性の露出の多い姿が強調されがちの画風である。多分、少なからぬ女性がひくと思う。

ただ似ているといっても、かなり下手だった。そう、漫画として絵柄の下手さは致命的と言いたくなるほどだ。しかし、この漫画はSFファンの間では評価が高いことも知っていた。実際、ずいぶんと薦められたものだ。

しかし、私の嫌いな絵柄なので、長いこと手を出さなかった。ところが、漫画喫茶が普及して、買わなくとも読めるようになった。

偶然というか、当時お気に入りの漫画の最新刊を読みに漫画喫茶へ行った時に、空いた時間に手にとったのが運の尽き。日頃嫌いだと公言していた漫画が、実は面白いことに気がついてしまった。

絵柄はかなり下手というか、バランスは崩れているし、デッサンも難がある。しかしながら、ストーリーは面白かった。SFファンならば、十二分に楽しめる内容であった。そうなると絵柄の下手さも痘痕にえくぼ。下手さが勢いに感じられ、むしろ下手さがパワフルな印象を与えると思える始末。

気がついたら、数日かけて全巻読破してしまった。あっという間に一気読みしながらも、やはり絵は下手だと思う。されど、そのストーリーの破天荒さを強調するのには相応しい絵柄かもしれないと、我ながら妙な言い訳をしている。

正直言って、今でも絵は下手だと思う。しかし、構図は悪くない。なによりあれだけの大風呂敷を破綻させずに、見事にエンディングまで収束せしめた構成力に感服する。優秀な編集者がサメ[トする大手出版社と異なり、マイナーな出版社で刊行した作品だけに、しかも編集部の意向とは異なる方向に発展した漫画だったようなので、この完成度は漫画家個人の力量に負うところが大きいと思う。

私が知る限り、たいした宣伝もしてないのに、口コミだけで人気を博したレアなSF漫画です。SF好きな方なら読んでみて後悔はしないと思います。長編なので、無理に読む必要もないとは思いますがね。
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不自然な収穫 インゲボルグ・ボーエンズ

2009-07-22 12:16:00 | 
ほうれん草が好きだ。

ところが、ほうれん草は本来、冬の野菜だ。にもかかわらず、冬場に限らず売られるようになって久しい。旬をはずしたほうれん草は、味だって少し落ちていると思う。それどころか、栄養価も低下している。それでも売れる。

売れる以上、生産者が旬をはずしたほうれん草を作るのは必然だ。売れるなら、利益になるなら何でも作る。遺伝子組み換えだって、利益になるなら構わない。それが市場経済の下での正義だ。

表題の本に取り上げられているような遺伝子組み換え食品が、市場に出回るようになったのは何時のことだろう。いや、それ以前から季節感を無視したような食品は、既に市場に出回っていたと思う。

市場社会とはある意味、恐ろしい社会だ。売れることが正しい。季節はずれの食糧は、栄養価は劣るはずだし、値段も高くなる。それでも買う人は数多居る。売れる以上、生産者が売れるものを作るのは必然だ。

強力な除草剤にも耐えられる野菜は、農家が欲しがるはずだ。害虫が嫌う成分が入った野菜を農家が欲しがらないわけがない、売れるはずだ。巨額の研究開発費を回収するためには、なんとしてでも売らねばならぬ。

バイオテクノロジーに膨大な先行投資をした企業は、利益のために遺伝子改良技術を駆使した農産物を売らんと暴走する。それを管理するはずの政府の部署でさえ、いつのまにやらその宣伝に協力する有様だ。

農家や消費者の不安を払拭すると称して、莫大な広告宣伝費が投じられる一方、その安全性を調べる調査には手心が加えられる。

実験の段階では企業の目論見とおりの結果が出るが、自然のしっぺ返しに怯える研究者は少なくない。事実、遺伝子改良技術により害虫に強い農産物は、数年後には変化に対応した害虫の逆襲にあっている。自然の対応力は、人間の浅知恵を見事にひっくり返す。

そしてもう一つ、忘れ去られているのは小規模農家の減少だ。バイオテクノロジーの恩恵にあずかれぬ小規模農家は数を減らしつつある。多くの農家があったはずの北米では、いまや農家は数を減らす一方だ。

一方、大規模農家の実情も決して明るくはない。バイオテクノロジーの産物である農作物は、企業の宣伝とは異なり、必ずしも農家の懐を潤しはしなかった。収入は増えたが、予想外の出費も多く、財政状態は芳しくない。

一部の科学者やNGOが主張するように、本当に儲けたのはバイオテクノロジー企業の株主と経営者だけだ。バイオ企業自体もそれほど儲かることはなく、より巨大な多国籍企業の買収にあい、従業員はリストラされる有様だ。

かつては反対していた日本だが、今では多くの国民が遺伝子改良農作物を口にしている。そうとは知らずに食べている。もはや遺伝子改良されていない自然な農作物を入手すること自体が困難なのだ。しかも、遺伝子改良であることは表示されなくてもいいこととなっている。いつの間にか、そうなっている。

食糧自給率の低い日本は、世界最大級の遺伝改良農作物の受け入れ市場なのだ。もちろん、私も毎日のように食べていると思う。そうとは知らずに食べている人は沢山いるはずだ。

私にはバイオテクノロジーによる改良された農作物を食べることのデメリットは分らない。分らないが、それが不自然なことは分る。腐りにくい野菜、季節をはずしても食べられる野菜、害虫に食べられにくい野菜。

不安を煽るのは好きではないが、それでも私自身が不安を感じないわけではない。でも空腹には勝てない。財布の事情が高額な有機野菜を毎日買うことを許してくれない。だから安い野菜に手が伸びる。それが不自然な野菜だとしてもだ。

だからといって、今更自宅で野菜を栽狽キることもできない。

私は悩んでも無駄なことは、なるべく悩まないようにしている。どうあがいても、逆らえないことって確かにあると思う。だから素直に遺伝子改良農作物も食べてやる。できるなら、美味しく食べてやる。それで死ぬなら、いたし方ない。

知らなくてもいいことだとは思うけど、一応アウトラインは知っておきたい。なにが起きたのか、なぜそうなったのか、そのぐらいは知っておきたい。だから、時々この手の本は読むようにしています。知って嬉しい知識ではないのですがね。
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武器輸出禁止に思うこと

2009-07-21 12:17:00 | 社会・政治・一般
日本は武器を輸出しないことを国策としている。

改めて考えてみたい。武器を輸出しない事は、日本にとって如何なる意味を持つのかを。おそらくは、少なからぬ善良な市民諸氏は、武器を輸出しない日本は世界に冠たる平和国家だと、胸を張っているだろうと思われる。

本当にそうなのか?

日本の特異な常識はさておいても、世界の常識では武器は平和を守るために必要とされる。他国の軍隊を派遣して欲しくはないが、その優秀な兵器なら是非とも欲しい。その武器で我々は自らの手で平和な暮らしを守りたいのです。こう考えるほうが普通だと思う。

見かたを変えれば、日本は平和を守るための道具(武器)を提供してくれない国であり、自分さえ良ければ他の国なんざ踏みにじられてもイイと考える冷淡な国でもある。

話し合いだけでは平和は守れない。だからこそ、最低限自らを守るだけの武器は絶対に必要だ。これが世界の常識であり、人類不変の現実でもある。

ところが少なからぬ日本人は「武器がなければ平和」だと思い込む。いや、そう思い込んで、武器が散乱する現実から目を背けて、ひたすらに自己陶酔に逃げる。

その癖、国連中心主義とかいって、国連の決議があれば武力行使も認めている。第一、日本が武器を輸出していないと主張するのは虚構であり、虚偽でもある。

例えばミャンマーの軍事政権を支える軍のトラックは日本製だ。資金の出所はODAなのは知る人ぞ知る。トラックは民生品? ふん!ちょっと鉄工所で溶接して機関銃を据付ければ、あっというまに大半が日本製の武装トラックの出来上がり。

また、北朝鮮のミサイルには、日本製の優秀な電子機器が組み込まれている。民生品としてシンガポールなど第三国に輸出したものが、いつのまにやら北へ流れているようだが、結果として日本の技術が北朝鮮の軍事力アップに貢献している。

いくら日本が武器輸出を禁じていると大声で喚いても、そんな虚構は誰も認めてくれない。日本だけの独りよがりであることが、滑稽なくらいに哀しい現実だ。

ただし、日本の武器輸出禁止に賛同してくれる国は少なくない。おそらく武器輸出大国のほとんどがそうだ。強力なライバルの出現を阻みたいのは当然だろう。また、日本の軍事力を貶めたいと切望している近所の国々も賛同するに違いない。

ちょっと複雑なのはアメリカだろう。日本の軍事技術(というか優秀な民生技術)は欲しい。技術だけでなく資金面での協力も欲しい。さりとて、アメリカ製の武器と競合するような武器輸出は困る。だから日米安保の枠内での技術協力に留まっているが、内心不満があるらしい。

いずれにせよ、日本の武器輸出禁止は、その意図とは裏腹に世界の平和に貢献していない。むしろその反対の効用のほうが大きい。ちなみにかつての同盟国(枢軸国か)ドイツは、武器輸出で大いに稼ぐ。だからといって、今のドイツが戦争への道に進んでいると批難する声は聞こえない。

いい加減、嘘で塗り固められた平和主義を見直したらどうでしょうかね?
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少女には向かない職業 桜庭一樹

2009-07-17 12:13:00 | 
いきなり襟元を鷲づかみにされた。

中学一年の秋のことだ。6時間目の授業の後、掃除を終えてのんびりしていた時だ。既に放課後の部活のため運動着に着替えたGの奴が、教室に駆け込んでくると、私めがけて飛び掛かってきた。

びっくりした。Gは単なるクラスメイトで仲は悪くもないが、好い訳でもない。別に特段トラブルを抱えた覚えもない。私より二周りは大きいGは、巨体に似ず敏捷だ。

私を壁に押し付けて、「てめえ、なんであんなこと、言いやがる!」と押し殺した唸り声を上げた。その血走った目に驚くと同時に、妙な違和感を覚えた。

ほんの10分前までは、なにもなかったのに、この急激な展開は私を警戒させた。率直に言って、巨漢のGとまともに喧嘩しては勝負にならない。隙をうかがう意味でも時間を稼ぐ必要があったし、なにより動機を知りたい。

平静を装って、どうしたんだと冷静に声をかけると、Gの口から私が悪口を言いふらしていると聞かされた。驚いたのは、その悪口の内容だった。

なんと、Gが姉貴と一緒に風呂に入っていると私が吹聴したことになっている。お前、姉貴いたのか?今知ったぞ、と返答すると、Gも少し落ち着いたように、襟元から手を離した。その後、二言三言話すと誤解は解けたようで、Gは少し気まずそうに教室を出て行った。

いったい何だったんだといぶかりながら、私は放課後の図書室当番であったことを思い出し、急いで図書室にむかった。同じ図書委員であるF子が、遅いわよと私を睨む。

品行方正、成績優秀なF子と、落ちこぼれの私のデコボコ・コンビであったが、どちらも本好きであり、私は彼女との二人の時間が好きだった。本の話ができる数少ない友達であり、私は当時まだ意識していなかったが初恋の少女でもあった。

F子に事情を話すと、小首をかしげながら妙ねと考え込む様はとても可愛かった。私はトラブルのことはすぐ忘れ、F子と図書室の当番に勤しみ仲良く二人で下校した。

その数日後のことだ。図書室で返却本の片づけをしていると、F子がGとのトラブルの真相を教えてくれた。Gにデタラメを吹き込んだのは、同じクラスのW子だった。え?

なんかW子に恨まれるようなことをしたの?と訊かれて考え込んだ。で、先週末のことを思い出した。同じ小学校の出の友達でSという奴がいる。宿題の写しを貰うかわりに、Sの当番だった体育倉庫の聡怩繧墲チてやった時のことだ。体育倉庫には、もう一人の当番であるW子がいた。私が行くと妙な顔をしていたので事情を説明すると、えらくぶっきらぼうな態度だったことをF子に話した。

F子は私に、W子はS君に片思いなのよと教えてくれた。どうやら私は人の恋路の邪魔をしたらしい。でもSには彼女いるぞと言うと、だから面倒なのよと訳知り顔で私を諭した。F子は急に私を見つめ、W子のことは私に任せてくれると懇願された。その気迫に気圧されて思わず肯いた。

F子はとても温和な子なのだが、どうかすると妙に強情な面を見せる。私が戸惑っているのを見ると、F子はくすくす笑い「大丈夫、任せてね」と自信ありげだった。

その言葉は偽りではなく、その後しらばくの間、クラスでW子は孤立していた。村八分とは言わないが、七分くらいには追い詰められていた。ちょっと気の毒に思ったぐらいの仕打ちだったと思う。

F子がどうやってW子を追い詰めたのか、私は知らない。知らないが頭のいい子だけに、自分は表に出ずに友人を上手くつかってW子を追い詰めたらしいことは、それとはなしに分った。男同士の喧嘩とは違う女のやり方があるようだ。ちょっと怖いゾ。

今にして思うと、あの年代の少女たちはすぐに暴力沙汰に走る男の子よりも、過激な一面をもっていると思う。それは微妙なバランスの上に立つ過激さで、ほんの小さな出来事で、あっというまに燃え広がる。

そんな少女たちの姿を見事に描き出したのが表題の作品だ。私は当初、作者を男性だと思っていたが、読み出してすぐに女性だと気が付いた。あれは男にはない感性だからだ。男がほとんど認識しない、あるいは認識したがらない少女の一面というものは確かにあるようだ。鈍感な私は当時、戸惑うばかりで、まるで気がつけなかった。

小学生の頃だとほとんど感じなかったが、思春期に入ると急速に男女の違いが出てくる。桜庭一樹を読むと外面の違いではなく、内面の違いに鈍かった私の未熟さを思い起こされる。そんな訳で、あまり積極的には読みたくない作家なのだが、読むと新鮮でかつ気恥ずかしい気持ちにさせられる。困った作家だな。
コメント (4)
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