ヌマンタの書斎

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鬼燈の島(ホウズキノシマ) 三部けい

2013-05-28 16:32:00 | 

子供は最初っから疑ったりしない。

その子供が大人を疑うようになるのは、納得できない嘘をつかれた時だ。多くの場合、大人に悪気はない。むしろ子供を傷つけまいと思っての嘘であることが多い。あるいは子供には理解できまいと思っての嘘である場合もある。単に説明するのが面倒くさいゆえの嘘だってある。

だが時として子供はその嘘に気が付く。気が付いても、その嘘を告発することは稀だ。むしろ嘘をつかれたことに心を傷つけられたことを隠そうとする。その嘘になんらかの理由をこじつけて、平穏な日常を取り戻そうとする。

嘘をつかれたことによる心の傷は、深く静かに心の奥底に蓄積される。この心の奥底に沈んだ傷が子供を歪めてしまう。もちろん家族が気が付いて、子供を納得させることで傷を癒すことも可能だ。

子供を注意深く見守っている親や教師ならば、この癒しが出来る。複雑な事情、子供にはいささか難しすぎる状況を分かりやすく説明して、子供に嘘をついた背景を理解させる。このように育った子供は聡く成長する。

しかし、このような嘘による傷を癒されることなく育った子供は、如何ともしがたい大人への不信感を強固な信念に変えてしまう。

私自身が大人、とりわけ教師への不信感を抱き続けた子供であった。ただ、幸いにも、ほぼ信頼に値する教師たちとの出会いもあった。それは確かだ。でも、私の心の奥深いところに根付いていた教師への不信感が、歩み寄りをさせなかった。

最終的には信頼していた教会の牧師たちとの別れにより、私は大人への不信感に一定の答えを得た。といっても納得したのではなく、教師も所詮人間であり、また自分自身も必要があって嘘をつく人間なのだと自覚したからだ。

受験を口実に教会の活動から離れる覚悟を決め、実際に断った時に感じたのは、自分もこれで大人と同じようになったと自覚したことであった。幼い頃から、早く大人になりたくて仕方なかった私が、いざ大人への自覚を掴んだ時感じたのは喜びではなく、寂寥感としか言いようのない侘しさであった。

だが、幼少時に心に刻んだ大人への不信感は、そうそう拭いきれるものではない。呆れたことに、大人になり中年と云われる年になってさえも私には大人への不信感が残っている。やもすると、それは自己不信にもなり、自己嫌悪さえ引き起こす。

さりとて子供時代に戻りたい訳でもなく、いわゆるピーターパン症候群とも無縁だと思うが、幼き心に深く澱んだ大人への不信感だけは拭い切れずにいる。

そんな大人への不信感が主題になっているのが今回取り上げた作品だ。先々週に取り上げた「魍魎の揺りかご」の前作にあたる作品になる。もっとも屍人も殺人鬼もで登場しない。

家庭に問題がある子供たちのための学園だけがある孤島で起きた、謎の事件を巡る大人と子供たちの対立が大きな主題となっている。親に捨てられ、放置されこの学園に引き取られた子供たちに大人への不信感があるのは致し方あるまい。

しかし、その不信感を十分癒さぬままに学園を維持しようとした大人たちの善意が、とんでもない事件に発展することになる。私はけっこう名作だと思っているが、如何せん掲載誌がマイナーな漫画誌である「ヤング・ガンガン」であったので、世間的にはほとんど知られていない。

もし機会があったら「魍魎の揺りかご」ともども手に取って欲しいと思います。


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