何時の頃からか、長期の旅行等に出るときは、必ずお守りを持っていくようにしていた。
財布などを失くした時に備えて、そのお守りには小銭を入れておいた。多分、お祖母ちゃんに教わった知恵だと思う。そう、ずっと信じていた。それが嘘だなんて思いもしなかった。ただし、お祖母ちゃんがついた嘘ではない。私が自分の自我を守るために、自分についた嘘だった。
ずっと長い事、その嘘を信じ込んでいた。その真実を思い出したのは、20代も終わりの頃で、長きに渡った療養生活を終えて社会復帰を決意した頃だ。そのために雑多に散らかった部屋の聡怩オている時、偶然あのお守りを見つけた。
最初は懐かしかっただけ。中を探ると10円玉と百円玉がしまってあった。これでいざという時の電話代にするはずだったんだよな、と思い出した。
その日の夜のことだった。久しぶりに夢で御祖母ちゃんが出てきて私に言った。「もし、お母さんの様子がおかしかったら、すぐに電話するんだよ」と。
頭の中が急に寒々しくなって、思わず起きてしまった。いったい、何の話なんだ?
真っ暗な部屋の中で、布団から上体を起こしたまま、しばし考え込んだ。そして思い出してしまった。あの時のことを。
母が父と離婚したのは、私が小学校2年の夏休みの前だった。あの晩、雨が降っていたことは妙に生々しく覚えている。夜半、客間に使っていた四畳半で母から離婚の話を聞いた。途中から母が私に抱き着いて泣いていた。私の耳には、雨音と母の嗚咽が不協和音を奏でていたように思えた。私に出来たのは、大丈夫だよ、大丈夫だよと小声で囁くだけであった。
父が家から居なくなったことについては、さして哀しくもなかったのは、その状態が半年以上になっていたからだと思う。むしろ、この先自分が父親代わりになって頑張らなくてはいけないのだと思い、慄然としたことを良く覚えている。
そして梅雨が明けて夏休みとなった。母は私たち兄妹を連れて隣町へ行き、映画を観てデパートで食事をし、おもちゃを買って夕刻帰宅した。その日の晩には、プロパンガスの栓を開けて、一家心中するつもりであった。
そうならなかったのは、帰宅した私たちを出迎えたお祖母ちゃんが居たからだ。何故、お祖母ちゃんがそこに居たのかは分からない。母が驚いていた様子からして、予期していたものではないようだ。
あの家には電話はなかった。電話は近所の方の電話を借りていたので、母とお祖母ちゃんが連絡を取っていなかったことは確かだと思う。第一、お祖母ちゃんは私たちが隣町に行っていたことも知らなかった。
おそらく母親の勘という奴ではないかと思う。後年、お祖母ちゃんは死んだ直後に、母の枕元にたったぐらい母のことを心配していた。手に職があるわけでもなく、学業優秀な優等生でしかなかった母は、食べ盛りの子供3人を抱えて生きていく自信がないことを察していたのだと思う。
お祖母ちゃんは数日滞在した。そして帰り際に私に手渡したのが、小銭の入ったお守りであった。お祖母ちゃんはその場で私に事情を話し、もし母の様子がおかしかったらすぐに電話するように私に言いつけた。
お祖母ちゃん子であった私は拒否しようもなく、素直に頷いてお守りを後生大事に首にかけた。その後、母と私たち子供は祖父母の家に引っ越すこととなった。そこで母は仕事を見つけて働きだすことになる。
お祖母ちゃんの言いつけを守り、私は母をそれとはなしに見張るようにしていた。幸い地方公務員として安定した収入を得た母は、精神的にも安定し、二年後には祖父母の家を離れて三軒茶屋の公務員宿舎へ私たちと引っ越した。そして貧しいながらも幸せな家庭を築き、私たち3人を育て上げた。
ただ、子供の私にとって母を看視するといったことは心理的にかなりな負担で、誰にも相談できずに心の奥底に仕舞い込んだ。仕舞い込むだけでは安心できず、私は自分の自我を守るため、いつしか記憶を自ら改竄していたようだ。
たぶん、初めて家族と離れて旅行に行ったのは小学校の移動教室ではないかと思う。その時には、小銭を入れたお守りは緊急時の連絡用アイテムだと認識していた。母を看視してお祖母ちゃんに連絡するためのお守りだとは考えなくなっていた。
率直に言って自分の母親を看視するのは、子供の私には荷が重かったようだ。たぶん、それはお祖母ちゃんも分かっていたと思うが、私以外に頼る相手がいなかったのだろう。
先日、母が亡くなりひと段落して実家で妹たちと今後の事を話し合った。その際、良い機会だと思って妹たちに初めて打ち明けたら、やはり知らなかった。まァ、こんな辛い思いは私一人で十分だ。
母子家庭で育ったせいか、妹たちは若干ファザコン気味である。一方私が結婚せずに独り身でいるのは、この幼い時の思い出があったからではないかと思っている。実際、私は自分に、このお守りは財布を無くした時の連絡用だと嘘をついた頃から、結婚とか家庭の話題を避ける傾向が出てきた。
幼い頃はいざ知らず、十代に入ってから私はTVで家族ドラマなどを一切観ていない。断言するが決して暗い家庭ではなかったし、私は母や妹たちとの家庭を嫌ってはいなかった。ただ、家庭に自分が縛られるのを厭う青年に育っていたことは間違いない。
母を見張ることを私に託したお祖母ちゃんの気持ちは良く分かるが、子供にはいささか荷が重すぎる任であったと思います。よく家族でなんでも話し合うなんて話を耳にすることがあるが、私は冷たい目で見ざるを得ない。
子供には知らせない方が良い事って、きっとあると思いますよ。
財布などを失くした時に備えて、そのお守りには小銭を入れておいた。多分、お祖母ちゃんに教わった知恵だと思う。そう、ずっと信じていた。それが嘘だなんて思いもしなかった。ただし、お祖母ちゃんがついた嘘ではない。私が自分の自我を守るために、自分についた嘘だった。
ずっと長い事、その嘘を信じ込んでいた。その真実を思い出したのは、20代も終わりの頃で、長きに渡った療養生活を終えて社会復帰を決意した頃だ。そのために雑多に散らかった部屋の聡怩オている時、偶然あのお守りを見つけた。
最初は懐かしかっただけ。中を探ると10円玉と百円玉がしまってあった。これでいざという時の電話代にするはずだったんだよな、と思い出した。
その日の夜のことだった。久しぶりに夢で御祖母ちゃんが出てきて私に言った。「もし、お母さんの様子がおかしかったら、すぐに電話するんだよ」と。
頭の中が急に寒々しくなって、思わず起きてしまった。いったい、何の話なんだ?
真っ暗な部屋の中で、布団から上体を起こしたまま、しばし考え込んだ。そして思い出してしまった。あの時のことを。
母が父と離婚したのは、私が小学校2年の夏休みの前だった。あの晩、雨が降っていたことは妙に生々しく覚えている。夜半、客間に使っていた四畳半で母から離婚の話を聞いた。途中から母が私に抱き着いて泣いていた。私の耳には、雨音と母の嗚咽が不協和音を奏でていたように思えた。私に出来たのは、大丈夫だよ、大丈夫だよと小声で囁くだけであった。
父が家から居なくなったことについては、さして哀しくもなかったのは、その状態が半年以上になっていたからだと思う。むしろ、この先自分が父親代わりになって頑張らなくてはいけないのだと思い、慄然としたことを良く覚えている。
そして梅雨が明けて夏休みとなった。母は私たち兄妹を連れて隣町へ行き、映画を観てデパートで食事をし、おもちゃを買って夕刻帰宅した。その日の晩には、プロパンガスの栓を開けて、一家心中するつもりであった。
そうならなかったのは、帰宅した私たちを出迎えたお祖母ちゃんが居たからだ。何故、お祖母ちゃんがそこに居たのかは分からない。母が驚いていた様子からして、予期していたものではないようだ。
あの家には電話はなかった。電話は近所の方の電話を借りていたので、母とお祖母ちゃんが連絡を取っていなかったことは確かだと思う。第一、お祖母ちゃんは私たちが隣町に行っていたことも知らなかった。
おそらく母親の勘という奴ではないかと思う。後年、お祖母ちゃんは死んだ直後に、母の枕元にたったぐらい母のことを心配していた。手に職があるわけでもなく、学業優秀な優等生でしかなかった母は、食べ盛りの子供3人を抱えて生きていく自信がないことを察していたのだと思う。
お祖母ちゃんは数日滞在した。そして帰り際に私に手渡したのが、小銭の入ったお守りであった。お祖母ちゃんはその場で私に事情を話し、もし母の様子がおかしかったらすぐに電話するように私に言いつけた。
お祖母ちゃん子であった私は拒否しようもなく、素直に頷いてお守りを後生大事に首にかけた。その後、母と私たち子供は祖父母の家に引っ越すこととなった。そこで母は仕事を見つけて働きだすことになる。
お祖母ちゃんの言いつけを守り、私は母をそれとはなしに見張るようにしていた。幸い地方公務員として安定した収入を得た母は、精神的にも安定し、二年後には祖父母の家を離れて三軒茶屋の公務員宿舎へ私たちと引っ越した。そして貧しいながらも幸せな家庭を築き、私たち3人を育て上げた。
ただ、子供の私にとって母を看視するといったことは心理的にかなりな負担で、誰にも相談できずに心の奥底に仕舞い込んだ。仕舞い込むだけでは安心できず、私は自分の自我を守るため、いつしか記憶を自ら改竄していたようだ。
たぶん、初めて家族と離れて旅行に行ったのは小学校の移動教室ではないかと思う。その時には、小銭を入れたお守りは緊急時の連絡用アイテムだと認識していた。母を看視してお祖母ちゃんに連絡するためのお守りだとは考えなくなっていた。
率直に言って自分の母親を看視するのは、子供の私には荷が重かったようだ。たぶん、それはお祖母ちゃんも分かっていたと思うが、私以外に頼る相手がいなかったのだろう。
先日、母が亡くなりひと段落して実家で妹たちと今後の事を話し合った。その際、良い機会だと思って妹たちに初めて打ち明けたら、やはり知らなかった。まァ、こんな辛い思いは私一人で十分だ。
母子家庭で育ったせいか、妹たちは若干ファザコン気味である。一方私が結婚せずに独り身でいるのは、この幼い時の思い出があったからではないかと思っている。実際、私は自分に、このお守りは財布を無くした時の連絡用だと嘘をついた頃から、結婚とか家庭の話題を避ける傾向が出てきた。
幼い頃はいざ知らず、十代に入ってから私はTVで家族ドラマなどを一切観ていない。断言するが決して暗い家庭ではなかったし、私は母や妹たちとの家庭を嫌ってはいなかった。ただ、家庭に自分が縛られるのを厭う青年に育っていたことは間違いない。
母を見張ることを私に託したお祖母ちゃんの気持ちは良く分かるが、子供にはいささか荷が重すぎる任であったと思います。よく家族でなんでも話し合うなんて話を耳にすることがあるが、私は冷たい目で見ざるを得ない。
子供には知らせない方が良い事って、きっとあると思いますよ。
父に関しては私のほうが執念深いね(苦笑)。なかなか言えなかったからねえ「お父さん」と。まァ、時が解決してくれたけど。
でも、案外と自殺に迷う人は多いみたいです。苦しいことも過ぎてしまえば昔話ですが、当時は本当につらかったのだろうと思います。
生まれ変わりを信じるタイでは、けっこうあっさりと自殺すると聞いたことがあります。自殺を禁忌とする宗教もあります。私自身は自分の生き死にくらい自分で決めたいと思いますが、根が怠け者なので自殺は難しいかもと軟弱に思っています。まァ、人生いろいろです。
私は、母が電話で誰かと話しながら泣いていた記憶があるんだけどなぁ・・・
おばあちゃんは、三茶に越してからも毎週のように週末遊びに来てはお小遣いくれたよね?凄く優しくて、怒られたこと一度もないよ。(その代わり、おじいちゃんにはよくお説教されたけど)
今だから言うけど、なくなる前のおばあちゃんはお見舞いに行くたび、残した食事を「食べなさい」って言いながら帯の間から自分の持っているお金全部くれてたんだよ。
亡くなってしまうのが寂しくて病院に入り浸っていたからね、私。
それと、お母さんは私とお兄ちゃんの手を引いて電車に飛び込もうとしたこともあるんだよ。背中で妹が泣き止まなくて、思いとどまったって言ってたけどね。
あと・・・
私はファザコンじゃないよ。
憎んでいたんだよ、お父さんのこと。
再会するまでずっと憎んでいたんだ、本当はね。
お母様、本当に大変だったのでしょうね。
女性の手で、子供3人を育てるのは並大抵では出来ないと思います。
ヌマンタさんは子供とは言え、唯一の男手だったから、お祖母様からも頼りにされたのでしょうが、確かに子供には荷が重い。
私も大きくなってから、父から聞いたのですが、私の母親、私を連れて心中しようとした事があったらしいです。
結局戻ってきたらしいのですが、ホント、死ななくて良かったよ~。(-_-;)
人生って、あれこれありますよね。ふだんはこんな事、人には言わないのですが、最近はけっこう平気になってきました。若い頃は、誰にも言えませんでしたね、やっぱり。