人生、誰だって浮き沈みはある。
落ち目の時にどう振る舞うか。そこにこそ、その人の真価が問われてしまうと思う。
アントニオ猪木が捨て身の思いで立ち上げたのが新日本プロレスであった。その創業時から全盛期を迎える直前の1970年代において、ライバルとして一世を風靡したのがジョニー・パワーズであった。
カーリーヘアが目立つ長身の白人レスラーであり、均整のとれた体格でャXターの一番目立つ場所を占めるスター選手でもあった。来日するのは年に一回だけだったが、エイトロックと呼ばれた強烈な四の地固めの使い手として知られている。
あの当時は、タイガー・ジェット・シンと並ぶ外人エース格であった。そのファイトぶりは死神の呼び名通りに足技を中心として相手を痛めつける冷酷な印象が強く、同じ悪役であっても観客を煽る演技力があったタイガーほど人気はなかったと思う。
おかしなことに、新日本プロレスの人気が上がるにつれて来日しなくなったプロレスラーであり、プロレス・ブームに沸いた80年代には既に忘れ去られたレスラーとなっていた。
そのあたりの事情が知られるようになったのは、90年代に入りプロレス団体が分裂し、外人レスラーが本音を語れるようなプロレス本が人気を博するようになってからだった。
私が驚いたのは、温厚で知られる上に他の外人レスラーからも信頼の厚いマスクド・スーパースターが珍しく悪口を述べたインタビューであった。詳細は忘れたがパワーズを評してレスリングが下手なだけでなく、一方的な試合運びで自分だけの都合で試合を作る我儘な男だと貶していた。
私の知る限り、日本でジョニー・パワーズとマスクド・スーパースターが絡んだ試合はなかったと思うので、おそらくはアメリカでの経験からの話だと推測できた。年齢的にはパワーズの方がずっと上であり、90年代には既にマットに上がるよりも、プロモーターとして活躍していたはずだ。
プロモーターといえばプロレスラーを雇う立場であり、人気レスラーとはいえ使われる立場のマスクド・スーパースターが本来誹謗していい相手ではない。しかも紳士で知られる彼がパワーズを誹謗したことに私は大いに驚いた。
その後分かったのだが、パワーズは非常に野心家でプロレスラーとしてよりも、実業家に憧れていたようでプロモーターもその一環に過ぎなかったらしい。しかも、一時は仕事も上手くいき成功の坂道を駆け上る勢いであった。
しかし、どうも仕事が上手くいかなくなると、途端に人間関係のトラブルが頻発し、あげくにギャラの未払い問題を引き起こし、アメリカのプロレス界から事実上追放されてしまったようなのだ。
今にして思うが、たしかにあの70年代当時のパワーズは輝いていたが、対戦相手を光らせるような試合の記憶はない。猪木や坂口といった実力者との試合でさえ名勝負と云われるような盛り上がる試合を作るのは下手であった。
プロレスの試合は対戦する二人の呼吸が合ってこそ盛り上がる。思うにパワーズは相手を思いやるような試合をするのが下手であった。おそらく、それはプロレスを離れても変わらなかったのだろう。
仕事ってやつは、人と人との間で生まれて大きく育ってこそ成功だと云える。如何に才能があろうと独り相撲では成功は続かない。そんな典型がジョニー・パワーズであったのだと思います。
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