寒いと震える。だが、本当に命の危険が迫るほどの寒さの時は、その震えで身体が痛くなる。そんな時に食べた、あのインスタントラーメンの味は生涯忘れない。
あれが大学受験に失敗した年だった。高校を卒業した後、代々木にある某有名受験予備校に通うことになった。ただし、朝はパチンコで一稼ぎしたかったので、午後のクラスに申し込んだ。この一事をもってしても、如何にいい加減な浪人生であったかが分かろうというものだ。
もちろん、このままではいけないと自覚はしていた。ただ、パチンコのようなギャンブルにはまると、抜け出すのは難しい。自分でも呆れたことに、11月になっても毎朝のパチンコ通いと、いい加減な受験勉強は治らなかった。
たるんでる。そう自覚はあった。だが、なかなかきっかけが掴めなかった。そこで、たるんだ気持ちを引き締めるため、初冬の上越の山へ一人登ることにした。まだ積雪はないのは確認してあったし、北面や日陰となる谷筋以外では、凍結もないようだと調べてから、谷川から一ノ倉を経て、蓬峠まで縦走することにした。
明け方に土合の駅の長大な階段を登り、ロープウェイは使わずに、谷川岳の山頂を目指す。空は快晴であり、少し冷たく感じる大気が気持ちいい。だが、稜線が見えてくると、上空を流れる雲の速さが気がかりとなる。異様なほど、雲が素早く流れていく。当然に次第に雲が厚くなり、山頂に着く頃には曇り空だ。
谷川岳は、世界屈指の登山死亡者が多い山だが、これは大半が一ノ倉の岩稜登攀事故によるもので、縦走路は特段難しいルートではない。もちろん積雪期は別だが、雪さえなければ危なくもない。
そのはずだった。ところが稜線に上がった私が直面したのは、凄まじい強風であった。もともと谷川連峰は、日本海側から太平洋側へと風が抜けるルートである。日本海側でドカ雪と呼ばれる世界屈指の大雪を降らせ、上越の山々を越えて乾燥した風を関東平野に吹かせる。通称「空っ風」である。
夏場の強風なら知っていたが、11月の空っ風は初めてだ。まさか、これほどの強風だとは思わなかった。なにしろ真っ直ぐ立っているのが辛いのだ。それでもなだらかな稜線沿いの道であり、行けると思い、まずは一の倉岳を目指す。
風は弱まるどころか、次第に細かい雨が混じるようになる。すぐに雨具を付け、慎重に縦走を続けるが、後1時間あまりのところで、凄まじい暴風に直面した。大の男が立って歩けないのだ。
これには焦った。仕方なく四つん這いになり、登山道を這い進む。あまりの風の強さに、耳はなにも聞こえなくなり、ただひたすらに四つん這いで身体を動かすことに集中した。
風は体温を奪い、体力を奪い、気力を奪う。体温が低下すると、人体は体の機能を維持するため、体内に熱を発せようとする。それが身体の震えとなって現れる。この震えがあまりにヒドイと、関節部分が痛くなる。実際、私は寒さから体の随所に痛みを感じるほど震えていた。
とにかく風を防げる建物が必要だった。膝と肘に血が滲み出した頃、ようやく見えたのが一の倉避難小屋である。写真をみてもピンとこないかもしれないが、ドラム缶を無理やり建物の建材に使ったような建造物である。
大人が二人入れば、もう満杯になるような小さな避難施設であり、小屋というより、箱である。だが、このなかに入れた時の安堵感は、地獄に女神であった。トイレもなにもない、ただの箱だが、あの強風から守ってくれる。
平日なので他に登山者の姿はなく、一人寝そべり安堵のため息をつく。現金なもので、助かったと分かると急に腹が減ってきた。ザックからホエーブスというコンロを出して、まずお餅を焼く。次にお湯を沸かしインスタントラーメンを作り、お餅を後から加える。
たしか、この時食べたのは塩ラーメンであったと思う。水を節約したので、かなり塩辛かったが、疲れた身体には丁度良かった。実は登山小屋に泊まるつもりだったので、非常食しか持参していない。残り二食分のラーメンと餅しかない。
少し嫌な予感に襲われる。まさか、このまま明後日まで避難小屋で過ごすとなると、残り二回の食事はラーメンなのか? いささか不安になるが、こんな時一番やっていけないのは、慌てることだ。とりあえず、身体を横にして休めることにする。まだ午後2時だけどね。
少しウトウトしていたが、目が覚めると外が静かであることに気が付いた。慌てて扉を開けると、風は弱まっている。まだ日は十分高い。大急ぎで出発して登山小屋まで縦走する。
平日にもかかわらず、小屋は強風を逃れてきた登山者がけっこういた。山小屋のご主人とも相談し、この小屋で一泊し、明日他の登山者とともに下山することにする。
その後は、何事もなく無事帰京出来た。改めて自然の浮ウを痛感し、自分の弱さを痛切に自覚した。こんなんじゃダメだ。
私がパチンコを引退したのは、その後のことであり、普通の受験生に戻ることになった。おかげで二浪せずに済んだ。
その後、腎臓を傷め、塩分を取ることを控えるようになったので、インスタントラーメンは滅多に食べなくなった。なにせラーメンは一杯で、成人一日分の必要塩分を摂ることになるので、迂闊に食べられない。
それでも運動などをして、塩分が必要だと思うと、私は野菜たっぷりのインスタントラーメンを作ることがある。添付の調味料は三分の二ぐらいしか使わないので、当然に薄口である。
そんな時、決まって思い出すのが、あの避難小屋で作ったインスタントラーメンだ。えらく塩辛かったが、あれは美味かった。生き延びた安堵の味であり、明日を生き延びる決意の味でもあった。
多分、もう二度と味わえないと思う。
塩分補給にカップラーメンはダントツに効きます。
縦走途中に小屋で食べるカップラーメンがどれほどおいしいか!
疲れている体に麺よりスープです。パーティーで回し飲みしてます。
震えで間接が痛くなるって、それ低体温症→凍死の一歩手前でありませんか?
それはラーメンがさぞかし美味いでしょうね。
体が欲するものが一番美味い訳か…
しかしヌマンタさんの山記事は、山津波とか過激派のアジトとか、なにげに凄い。
8000メートル峰ばかりが冒険じゃないのだと思います。
実は22日に雪が降り始める前に2000㍍弱の山を登り始め、小屋に一泊して翌午後に下山したのですが。縦走は厳しいですね。本当に。
何人か雪山の撮影に来た若者が先行してくれ、踏み分け道を作ってくれ助けてくれたけど、全く就いてゆけません。雪が浅くても岩や根にアイゼンを引っ掻けて転唐キる。エスケープルートを降りる時、もう標高は低いのに、谷沿いを横切る地点では岩が張り出し積雪の撫で肩道なので、若者はヒョイと交わして行くけれども、私は浮ュて簡単に進めない。情けないけど本当に浮ゥった。
明け方から午後まで鰍ッて、やっと下山しました。でも山って不思議ですね。
凍りついたような斜面は浮ゥったけれど、素直にしてくれる。自分の能力も年齢も事実を受け止めさせてくれます。身辺を整理して復職する決意ができました。生きていくのは色々としんどいけど、また歩くしかないんだよなって。
考える余裕なんて少しも無かったのに、下山中に凍りついたような谷筋を恐々と見下ろした時に、
気持ちは決まってました。
ヌマンタさんの仰る通り、凍えて寒くて食べるラーメンは最高ですね。
自然の脅威は、人の虚飾を剥ぎ取り、素の自分を曝け出してくれます。だからこそ、山は私にとっては勉強の場であり、試練の場でもありました。登れない身体になったことは、本当に痛恨の悔やみです。