雪が横殴りに吹き付けるなか、私は商店街を歩いていた。
この街は私が高校3年間を過ごしたせいで、懐かしいと言いたいところだが、再開発のせいで当時の面影は、ほとんど残っていない。ただ、その名残がところどころに見受けれる程度なので、懐かしさよりも寂寥感の方が強い。
それでも、かつて通った通学路を歩くと、不思議と高校時代を思い出す。自由な気風というより、我がままで放漫な乱れた気風と評するのが相応しい高校であった。一応標準服と称する制服はあったが、基本自由なので、みんな好き勝手な格好をしていた。
凄いというか、ひどいのになるとキャバレー出勤前の風俗嬢もたじろぐギンギラ・ファッションもまかり通っていた。その格好で放課後、新宿のディスコに直行しているのだから、本人は当然だと思っていたらしい。
毎日制服を着ている子もいたが、今日はセーラー服、昨日はブレザーと、どこの制服なのか、さっぱり分らない。学ラン詰襟を愛用している奴もいたが、制服の下に着込んでいたのはアロハシャツだから困ったもんだ。
私はといえば、基本詰襟の学ランであったが、これはおしゃれが苦手なので制服を愛用していただけ。部活が無い日は、放課後友達と下北沢のパチンコ屋に行き、その稼ぎで居酒屋で飲むので、そんな日だけは私服だった。
先生の見回りがあるので、高校の地元の商店街ではあまり遊ばなかった。一服するための裏通りの喫茶店には、ずいぶんと世話になったが、表通りの商店街は通るだけだった。
その商店街を抜けると、亡くなった某有名俳優の豪邸がある通りにぶつかり、そこを曲がって住宅街を抜けると、我が母校にたどり着く。
はじめて高校を訪れた人が、まずビックリするのが校門の前の公道のど真ん中に生えているサクラの木だ。このサクラの木のせいで、その周辺だけ道路が膨らんでいる。
地元の名物となっていたらしく、伐採の話が上がるたびに反対運動が起こり、そのせいで図々しく車道のド真ん中に、どっかりと生えていたままになっていた。
ある意味、自由すぎる我が母校のシンボル的存在でもあった。
ところが一年ぶりに立ち寄ったら、なんとあのサクラの木の姿がない。近寄ると伐採の跡がある。なんともいえない寂しい気持ちにさせられた。
樹齢は50年を超えていたはずだが、まだまだ枯れるような年ではない。事実、同じ頃に植えられたと思われる校門の内側のサクラの木は健在だ。ただ、根の周囲1メートルほどしか土がなく、後はアスファルトに覆われた場所なので、サクラの木にも厳しい環境だったのかもしれない。
もしかしたら、一年前の地震の影響もあったかもしれない。あるいは昨年、何度か東京を襲った台風による強風がサクラの木を唐オたのか。
私はしばし、そのサクラの木の伐採後の光景に見とれていた。形あるものは、いつかは崩れ去る。それは必然であり、避けられぬことでもある。
立ち尽くす私の傍らを、母子の二人連れが幾人も通り過ぎる。数人のグループになって通り過ぎる若者もいる。よくよく見ると、当日は入学試験の合格発表の日であった。
校門を抜けて、正面入り口に張り出された合格者番号に一喜一憂する姿に、時の流れを感じざるえない。私も30数年前、ここで合格を知り、サクラの木の下を晴れ晴れした表情で通り過ぎた。
あの頃、道路のド真ん中にあるサクラの木を、不思議な思いで見上げながら、足早に帰途を急いだものだ。でも、今日の合格者たちは、校門のなかのサクラの木は覚えていても、道路の真ん中にあったサクラの木の記憶はないだろう。
まだ降り止まぬ雪に背中を押されるように、私はその場を立ち去った。当日は今年二回目の大雪の日でもあった。涙雨ならぬ、涙雪といったところであろうか。
私は感傷を振り切り、頭を仕事モードに戻してその日の仕事をなぞり、数分後には顧客の家の門を叩いていた。ただ、無意識に背後を振り返ることは止められなかった。
やっぱり哀しいよね。
この街は私が高校3年間を過ごしたせいで、懐かしいと言いたいところだが、再開発のせいで当時の面影は、ほとんど残っていない。ただ、その名残がところどころに見受けれる程度なので、懐かしさよりも寂寥感の方が強い。
それでも、かつて通った通学路を歩くと、不思議と高校時代を思い出す。自由な気風というより、我がままで放漫な乱れた気風と評するのが相応しい高校であった。一応標準服と称する制服はあったが、基本自由なので、みんな好き勝手な格好をしていた。
凄いというか、ひどいのになるとキャバレー出勤前の風俗嬢もたじろぐギンギラ・ファッションもまかり通っていた。その格好で放課後、新宿のディスコに直行しているのだから、本人は当然だと思っていたらしい。
毎日制服を着ている子もいたが、今日はセーラー服、昨日はブレザーと、どこの制服なのか、さっぱり分らない。学ラン詰襟を愛用している奴もいたが、制服の下に着込んでいたのはアロハシャツだから困ったもんだ。
私はといえば、基本詰襟の学ランであったが、これはおしゃれが苦手なので制服を愛用していただけ。部活が無い日は、放課後友達と下北沢のパチンコ屋に行き、その稼ぎで居酒屋で飲むので、そんな日だけは私服だった。
先生の見回りがあるので、高校の地元の商店街ではあまり遊ばなかった。一服するための裏通りの喫茶店には、ずいぶんと世話になったが、表通りの商店街は通るだけだった。
その商店街を抜けると、亡くなった某有名俳優の豪邸がある通りにぶつかり、そこを曲がって住宅街を抜けると、我が母校にたどり着く。
はじめて高校を訪れた人が、まずビックリするのが校門の前の公道のど真ん中に生えているサクラの木だ。このサクラの木のせいで、その周辺だけ道路が膨らんでいる。
地元の名物となっていたらしく、伐採の話が上がるたびに反対運動が起こり、そのせいで図々しく車道のド真ん中に、どっかりと生えていたままになっていた。
ある意味、自由すぎる我が母校のシンボル的存在でもあった。
ところが一年ぶりに立ち寄ったら、なんとあのサクラの木の姿がない。近寄ると伐採の跡がある。なんともいえない寂しい気持ちにさせられた。
樹齢は50年を超えていたはずだが、まだまだ枯れるような年ではない。事実、同じ頃に植えられたと思われる校門の内側のサクラの木は健在だ。ただ、根の周囲1メートルほどしか土がなく、後はアスファルトに覆われた場所なので、サクラの木にも厳しい環境だったのかもしれない。
もしかしたら、一年前の地震の影響もあったかもしれない。あるいは昨年、何度か東京を襲った台風による強風がサクラの木を唐オたのか。
私はしばし、そのサクラの木の伐採後の光景に見とれていた。形あるものは、いつかは崩れ去る。それは必然であり、避けられぬことでもある。
立ち尽くす私の傍らを、母子の二人連れが幾人も通り過ぎる。数人のグループになって通り過ぎる若者もいる。よくよく見ると、当日は入学試験の合格発表の日であった。
校門を抜けて、正面入り口に張り出された合格者番号に一喜一憂する姿に、時の流れを感じざるえない。私も30数年前、ここで合格を知り、サクラの木の下を晴れ晴れした表情で通り過ぎた。
あの頃、道路のド真ん中にあるサクラの木を、不思議な思いで見上げながら、足早に帰途を急いだものだ。でも、今日の合格者たちは、校門のなかのサクラの木は覚えていても、道路の真ん中にあったサクラの木の記憶はないだろう。
まだ降り止まぬ雪に背中を押されるように、私はその場を立ち去った。当日は今年二回目の大雪の日でもあった。涙雨ならぬ、涙雪といったところであろうか。
私は感傷を振り切り、頭を仕事モードに戻してその日の仕事をなぞり、数分後には顧客の家の門を叩いていた。ただ、無意識に背後を振り返ることは止められなかった。
やっぱり哀しいよね。
会社の敷地内の桜並木のほとんどを伐採して
新しい棟を建てた時は寂しかったです。
近頃の不景気は、桜のタタリではないかと思うくらい残念でした。
あ、みかん畑もなくなっちゃったんだ。
いろんなこと忘れちゃったけど、あの木の事だけは鮮明に覚えていたのに…
残念です。