痛くはないが、鈍い悔恨が脳裏をかすめることがある。
率直に言って、私は色恋沙汰に鈍感なほうだ。別に女嫌いでもなく、他人への関心がないわけでもないが、子供の頃から鈍かったと思う。でも、それは男の子ならば普通のことだろうし、むしろ女の子が過敏に過ぎるとさえ思っている。
ただ、思春期に入ると、この鈍感さが少なからず失恋の原因になっていたことは否定できない。気づいていながら、何故に言葉に出来なかったのか。何故に相手が分かってくれるはずなんて、責任回避の怠惰さに逃げていたのか。思い出す度に悔やまれる。
私は過去を悔いるのが嫌いなので、だからなるべく思い出さないようにしている。思い出して、悔いてみたところで、失った過去が変わるわけではないからでもある。
それでも、思い出さずにいられないこともある。
小学校を転校してようやくクラスに馴染み始めた頃、幼稚園で発生した疫痢感染が家族等を通じて、小学校にも飛び火した。妹がその幼稚園に通っていたので、私も感染して病院の隔離病棟に強制的に入院させられたことがある。
退院後、伝染病に感染したことで、クラス内で差別的扱いを受けそうになったが、この時は担任の先生がしっかりしていたので、大事にならずに済んだ。ただ、気持ちの上での差別感は残っていたと思う。
あれは、多分フォークダンスのペア決めの時だと思う。既に私は伝染病からみで、クラスの女の子たちから忌避されている雰囲気は感じ取っていた。鈍感な私でも、差別感情には気が付かざるをえない。
だが、何故だか分からないが私はあまり気にしていなかった。断られるなんて、まったく考えもせずに真っ直ぐT子の席へ向かい、ペアになってくれと無造作に言い放った。
T子はうつむいて、小さな声で「うん」と言ってくれた。周囲が小さくざわめいていたのが、私にも感じられた。転校して半年あまり経ってはいたが、普段話すのは男の子ばかり。T子との接点は日頃なかった。にもかかわらず、私は迷わずT子を選んだ。
理由?
自分で決めておきながら妙だが、明確な理由があった訳ではない。ただ、T子はクラスでも目立つことのない大人しい子であった。もっといえば、無口な子であり、誰と争うこともなければ、強く自分を主張することもなかった。
ただ、転校当初から気が付いていた。T子は私を異端視しない子であった。米軍基地の隣町で、白人の子供たちと石や棒を使った荒っぽい喧嘩に慣れ親しんでいた私にとって、この住宅街の閑静な街は別世界であった。
目があっただけで罵りあう白人のガキどものような分かりやすさはなく、目を逸らして後で陰口叩くような陰湿なガキが多いのに閉口した。ちょっと絡んだだけで、すぐに先生に告げ口する意気地なしばかりであり、タイマン張る根性もない。
だから転校当初から私は少々クラスで浮いていた。両親の離婚やら、突然の転校やらでイラついていた私は、家でこそ大人しくしていたが、その分学校で苛立ちを発散していたのが原因である。
しかし、私は基本女の子には手を出さない。基本と書いたのは、当時も、そして今も女の子のほうが活発な子が多く、やかましく口を挟んでくる子もいたからだ。直接暴力こそ振るわなかったが、わざとそんな喧しい女の子のそばで取っ組み合う程度の嫌がらせはしていた。
ただ、不思議なことにT子は、ただ黙って私が悪さをしているのを見ているだけで、先生に告げ口もしないし、女の子同士で集まって私の悪口を言っているようにも見えなかった。
どちらかといえば、女の子たちのグループからも、ちょっと浮いている子であったように思う。私が勝手にフォークダンスのペアの相手にT子を指名した時も、不思議なことに誰ひとり囃したり、からかったりするクラスメイトはいなかった。
私は厄介者を押し付けられたT子への同情ではないかと勘繰っていたが、そう外れていないと思う。実際、周囲から安堵感のようなものを感じたからだ。ところでT子とは日頃接点はないと書いたが、もしかしたらあるかもしれない。
校内では問題児扱いの私であったが、唯一私が大人しくしていたのは図書室であった。当時から読書好きであった私は、ここでだけ大人しかった。そしてT子も図書室の常連であった。
多分、本のことでなにか話したことがあったように思う。正直記憶はおぼろだが、多分「おれ、この本好きだ。お前も好きか」程度のことは話したかもしれない。自信がないのは、私が無造作に、無意識に話したからで、意図しての会話ではないからだ。
ここから先は、まったくの憶測に過ぎないのだが、多分T子が私を拒否しなかったのは、図書室でのことがあったからこそだと思う。女の子って奴が、好って言葉に異常に反応を示すことは、なんとなく気が付いていた。
ただ、当時男の子であった私にとっては、お団子が好き、読書が好き、プロレスが好きといったレベルでの「好き」である。しかし、女の子にとっての「好き」は、どうも違うらしい。
一応書いておくが、当時の私は10歳未満であり、恋愛感情とは無縁である。ただ、女の子は少し違うかもしれない。もちろん、私の独りよがりかもしれないが、実は似たようなことを思春期に入ってからも何度かやらかしている。
私にとっては、無造作で意図のない「好き」であるが、受け取る相手によっては、それはただの「好き」にはならないらしい。それに気が付かなかった鈍感な私は、おかげでひどく恋愛下手になったように思う。
そんなことを思い出しながら観ていたのが表題のアニメ映画である。NARUTOファン以外は見る必要がない映画ではある。同時にまた、こりゃ週刊少年ジャンプでは描けなかっただろうとも思った。
私はNARUTOのヒロインは、当然に春野さくらだと思っていた。事実、中盤までは主人公を上回る活躍を見せている。でも、今回ようやく本当のヒロイン役がヒナタだと、さくらの科白から分かった。
「ナルトは昔っから私のことを好きだって言っていたけど、それは私がサスケ君を好きだったからでしょ」とさくらに云われて黙り込むナルト。ポップコーンをほうばっていた私も、思わず固まってしまった。そうか、そうだったのか。ちなみにサスケは、落ちこぼれのナルトがライバル視する眉目秀麗、成績優秀な少年忍者である。
でもね、多分作者の岸本先生も当初はさくらをヒロインのつもりで描いていたはず。多分、ヒナタの存在に気が付き、彼女こそ真のヒロインだと岸本先生に気付かせたのは、連載中に結婚された奥様ではないかと私は想像しています。
やっぱり女性の洞察力って凄いわな。ところで、私はあの学校は二年程度で再び転校しているため、T子とはまったくの無縁になってしまっている。別にいまさら、どうこうしたいわけではない。ただ、自分の愚かさ、鈍感さが思い起こされるのが辛いのです。