ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

国家の度量

2014-09-26 14:52:00 | 社会・政治・一般

統治者は懐が深くなければならない。

人類の歴史においては、様々な国が興り、栄え、やがて滅んでいく。長く栄えた国もあれば、短期間で滅んだ国もある。栄えたのには理由があるし、滅んだのも理由がある。

栄えた国をよく観察してみると、その懐の深さに感心する。よく出来た統治機構なのだが、必ずどこかに綻びがある。抜け道であり、欠陥でもある。

その国の政治家たちは、その綻びを知らないのではない。時には法制度を改善して埋めようとしている。官僚の統治方式を変更して、綻びを法制度のなかに組み込もうともしている。

しかし、決して完璧にはやらない。四角い枠を丸く拾い上げるように、必ず拾い残しが出るようになっている。

それは400年余りの太平の世を築いた徳川幕府にもあった。江戸時代といえば、厳格な身分制度、世界に類を見ない戸籍制度などでガチガチに固めた封建時代とのイメージを持つ人は少なくないと思う。でも、それは表向きのこと。

厳格な身分制度にしたところで、養子縁組などを利用した事実上の抜け道があった。関所を設けて勝手に人々が動けないように制限する一方で、例外的にお伊勢参りのような抜け道を平然とつくる。

同時代のヨーロッパも封建時代ではあるが、日本のような身分移動や、庶民が数百キロを旅行するなんてありえなかった。これは島国で治安が安定していたという事情もあるが、徳川幕府の治世技術の根幹において、人を完全に縛ることを意図的に避けていたとしか言いようがない。

車の運転でいえば、ハンドルの遊びのようなものだろう。この遊び部分があるからこそ、神経質にならずに済む。嘘だと思うのなら、遊びの部分がまったくないレース用の車を運転してみると分かる。私はカートぐらいしか経験がないが、ほんの数ミリハンドルを動かしただけで、カートは敏感に反応する。これはレースではいいのだろうが、普通に運転するには過敏しぎて疲れてしまう。

人間ってやつは好き勝手に生きたがる。縛れば縛るほど、抜け出そうとするのが人間だ。そんな人間の本質を分かっている統治者は、厳格に政治を施行する一方で、どこかに遊びの部分を残しておく。

もう少し具体例を挙げておこう。ヨーロッパの諸都市には、城壁に囲まれたものが多い。現在は邪魔でしかない城壁が壊され、そこが広く快適な道路となっている。実は城壁があった頃、その城壁には別の役割があった。

城壁の内部は、王城があり、行政機関が立ち並び、飲食店や小売店が立ち並び、防衛のために曲がりくねった道の両脇が居住区となっている。ここは法が厳密に施行され、役人が徘徊して庶民を看視している。

ところが城壁を出ると、賭場や売春宿が並び、貧民街が広がっている。そのため城壁との境の門は、番兵が立ち、出入りを厳しく監視している。しかし、その貧民街や売春宿を取り壊すようなことはしない。せいぜい、小役人が賄賂目当てにえばり散らす程度だ。

城壁の中も、外も同じ国であり、同じ法が施行されているが、両者はまるで別世界のように同時並行で存在していた。これを矛盾とか、政治の手抜きと思ってはいけない。この外の歓楽街があるからこそ、城壁の中は栄えた。実際、城壁の内部の住人こそが、この歓楽街の最大の顧客なのだから。

これは現代でも通用している。その典型例がブラジルの首都ブラジリアだ。この超近代的な造形物が並ぶ未来都市は、ジャングルにナパーム弾を投下して焼き払った跡地に建設された。SF映画のような先進的な建築物が立ち並ぶブラジリアは、その立派な見かけとは裏腹に、当初20年ぐらいは過疎の首都であった。

どんなに立派な街を作っても、息抜きの場所がなく、それゆえにブラジリアに住みたがる人はいなかった。官僚たちでさえ、週末にはブラジリアを離れて郷里の町に戻っていった。生活に必要なものは一切揃っていたが、必要ではない安っぽい飲み屋や賭場、女性をはべらせたクラブ、そして売春宿がないことが、ブラジリアを過疎の首都としてしまった。

ちなみに現在のブラジリアは、人口も急増し大都市の片鱗をみせている。当然であろう。近代的な都市の周辺、ジャングルとの境目あたりに行けば、バラック建ての飲み屋、クラブ、そして売春宿が立ち並び、週末の夜ともなればドンちゃん騒ぎ。これこそが、人間の自然な在り様なのだろう。

このことが分からない人は少なくない。そんな人が立案したと思われるのが、二年後に施行されるマイナンバー制度である。要するに納税者番号であり、社会保障番号でもある。

ご存じない方も多いと思うが、実はこのマイナンバー制度は既に国会を通過している。現在は政省令の整備の段階に入っており、平成28年からの実施に向けて現実的な準備が始まっている。

一言で云えば、国民総背番号制度である。この統一された数字に基づき社会保障、納税徴収、福祉医療、災害対策などに使われる予定である。

もう想像はつくと思うが、これは大変なことである。国民すべての情報が、国家により一元管理されるのである。霞が関の官僚たちは、財産、家族、仕事といったすべての情報を入手して、より効率的な国家運営を考えているようである。

私も現在、いろいろと勉強中であるが、かなり危惧している。あまりに厳格な管理は、むしろ弊害が大きい。お勉強エリートの霞が関の高級官僚たちは、果たしてそのことが分かっているのだろうか。

人間が、すべての人間を管理するなんて不可能である。無理をすれば、どこかに無理が来て破綻する。神ならざる人間の限界を心得ておいて欲しいものだと、私は心配しているのです。

コメント (2)
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