人間、そんなに変わりはしない。
青少年の異常な犯罪が起こるたび、新聞などはコンピューターゲームの悪影響を賢しげに解説する。画面上で人の命が簡単に失われ、リセットボタンを押すだけで嫌なことが消せるコンピューターゲームが、青少年の心を蝕んでいくと。
なんとなく納得できてしまうが、私はそこはかとなく違和感を感じていた。コンピューターが登場する以前だって、青少年の猟奇的な異常犯罪はあったし、命が簡単に失われることなんて子供だって知っていた。リセットボタンはなかったけれど、トランプでも双六でも気に入らなければ、机をひっくり返す手はあった。
忘れられているようだが、地球上には生命と死があふれている。私は子供の頃、無造作に芋虫の身体を引き裂き、訳もなく蟻を踏みにじり、生命を簡単に奪い去った。訳もなくと書いたが、実際は面白かったはずだ。さっきまで動いていた虫たちが、自分の手の簡単な動作で死んでしまう。
必死に抵抗しながらも、引き裂かれても逃げようとのたうちながらも、虫たちは生きようと必死だった。それを知りながらも、躊躇いすら感じずに命を奪い去った。おそらく、何十匹、いや、もっと多くの命を私は無造作に奪っている。
そんな私は、猟奇的な異常な人間なのだろうか。
幸いなことに、私にそのような傾向はないらしい。人生を半世紀近く過ごしてきたが、戦場などで人間の命があっさりと奪われることに悦楽を感じることはないし、自分でやりたいとも思わない。
子供の頃は、あれほど簡単に虫たちの命を奪っていたくせにね。そりゃ、虫と人間は違う。違うけれど、命は命。虫だって必死に生きている。それを遊び感覚で奪い去ったことは事実だ。
違いは、どこにあるのだろう。
たぶん、温もりだと思う。虫の死骸には大して感傷を抱くことはなかった。しかし、路上で車に引かれた犬や猫の轢死体となると、そうはいかない。
私は知っていた。犬のむくむくした柔らかさや温もりを。尻尾をふりふり、息ハアハアさせながら、まとわりつくワンコとの楽しい時間を知っていた。だから見知らぬ犬といえども、その死体には無関心ではいられなかった。
だが、白状すると内臓をまき散らして死んだ無残な轢死体に対する気持ち悪さも感じていた。道路に放置したままであることを悼む気持ちはあったが、その気持ち悪さ故に触ることが出来なかったのも確かだ。でも、愛犬だったら、間違いなく抱きしめると思う。やはり温もりを感じるほどに密接な犬や猫とは、心の距離感が違うのだろう。
人間って奴は、社会性の強い生き物だ。家族や友人、近所の人、学校の先生など、様々な人たちとの関係を通じて、子供は社会性を持つ大人へと育っていく。だが、まれに十分な社会性を持てずに育ってしまう場合がある。
家族の愛情欠如が原因であったり、あるいは過剰な愛情が過負荷となって心を歪ませる場合もある。そんな子供たちがしでかしてしまった偶発的な殺人事件。愛する我が子を殺したのが、自分が担任をしているクラスの生徒であることを知った女教師は、そのことを最後の日にクラスの皆の前で告白する。
警察に告発するのではなく、犯人を交えてクラスの皆に分かるように告白した女教師は、何を求め、何を期待したのか。なにも起こらぬ訳がない。そんな衝撃的な告白が引き起こした事件の行方を知りたかったら、この本を読むしかない。一気に読まねば気が済まないほどの傑作です。是非どうぞ。