ボクの奥さん

ボクの奥さんは、甲斐よしひろさんの大ファン。そんな彼女との生活をお話したいと思います。

ラジオ深夜便(2/7)その3

2018-02-18 12:58:00 | メディア
甲斐バンドのマネジメントとプロデュースを引き受けられた
「その当時、どんな意見を言ったか覚えてますか?」という質問に

佐藤さんは「まあ、歌詞に出て来る主語を
…アルバム3枚くらいまでは『僕』っていう風に彼は歌ってたんで…
僕は、もうそろそろ『俺』にした方が良いんじゃないか?ってことで
言葉…主語の変更っていうトコから始まりましたね」とお答えになってました

以前、柳田光司さんの「ニッポン娯楽列伝」に
「甲斐バンドを疾走させた『5番目のメンバー』第一声」は
「歌詞の主語は全て『俺』に変えよう!」だったと記されていたとご紹介した際

ボクは、甲斐バンドのアルバムの歌詞カードを引っ張り出し(笑)
「らいむらいと」では、主語がない【恋時雨】と
「おいら」で日本語の歌詞を書かれた【吟遊詩人の唄】を除いて
すべて「僕」になってること

「英雄と悪漢」は【光と影】に主語がなく
【裏切りの街角】が「おいら」で
唯一【狂った夜】だけに「俺たち」が使われていること

「ガラスの動物園」では【やせた女のブルース】に「俺」が登場するけど
この曲はカバー曲だし
【男と女のいる舗道】の「男は女にやっぱり俺じゃないと…」というのは
ちょっと「ト書き」風の描写で
「君と僕が(この街に…)」が、甲斐さんの心情かなあ?…とか

【ゆきずりの風】や(収録されなかった)【メモリーグラス】は「私」で
「この夜にさよなら」の【そばかすの天使】も「あたし」になっているものの
ともかく「僕」もしくは「僕ら」が圧倒的多数だった…とか

相手の女性のことを、ほぼ全部「君」となさっているのは
「僕」と「お前」はしっくり来ないから…という
ボクの主観も添えさせて頂いたり(笑)

一方、佐藤さんの「第一声」の後に作られた「誘惑」は
【LADY】だけが「僕(僕ら)」で
あとは「俺、俺、俺」の嵐、ところにより「おいら」って感じ(笑)…とか

それに連れて?相手のことを「お前」と呼ぶ曲が増え
アルバム未収録の【HERO】は「俺たち」と「お前」
【安奈】も「俺」と「お前」になっているけど

【嵐の季節】と【シネマクラブ】は
「俺」「おいら」と「お前」「君」が入れ替わり立ち替わりで
たぶん、メロディに乗せる語呂の問題で
二文字と三文字を使い分けていらっしゃるんじゃないか?…と続き

かなり意識なさって主語に「俺」を用いておられるのは
やはり「女子供のバンド」というレッテルを返上したいという
甲斐さんと佐藤さんの意思の表れでしょう…やら

確かに「僕」で書かれた歌詞の傷つきやすそうな青年像よりも
「俺」の方が、タフで意志が強そうな「男」というイメージがあります…やらと
これまた、ボクの主観も交えつつ(笑)

甲斐さんがラジオやインタビューで話される際に
「僕」とおっしゃったり「俺」になったりされるように
歌詞の中に登場する様々な印象の男性も
すべて「甲斐さん」が投影されているんでしょうね?…と書いております

「なぜ『僕』から『俺』に?」と訊かれた佐藤さんのお答えは
「やはり『僕』だと少年の感じがするんですね
で、音楽的にもっと力強い、もっと…何て言うのかな?エッジの効いた
なおかつ、どっか泥臭い…というようなものをやろうと思ってたんで

それには『僕』よりは…華奢な『僕』よりは
たくましい『俺』の方が良いんじゃないか?
というようなところから始まりましたね」とのことでしたが

「ポップコーンをほおばって」の中に…
「マネージャーになったばかりの佐藤剛は、ステージを見ながら
『違う、どこか違う』と言い続けていた」という一節や

「女子供の甲斐バンドって『蔑視』されていることも事実だったんです
何とか取り払いたかった
女の子のファンが多いことと、女子供向けのバンドだということとは
違うんだと判らせたかったんです」とか

「自分たちの力を測る意味でも
甲斐のソロアルバムをやったことは良かったと思ってますね
バンドの性格がキチンと反映された曲がヒットさえすれば
状況はガラリと変わると思ってましたから」とか

「甲斐の歌、音楽、バンドの像に、僕を重ね合わせていって
より多くの人に正当な評価をして貰いたい
それを実現したいというのが、僕の夢だったんです」

…といった佐藤さんの言葉が記されていて
甲斐さんが【裏切りの街角】以来、打ち出して来られた
「ブラックでアーシーな音楽」や「バンドカラー」が
佐藤さんのサジェスチョンによって、より明確になったんじゃないかと…

甲斐さんご自身も…「これまでの歌って
いつも泣いてる、いつも悲しみに沈んでいるわけ
そういう姿も本当だろうけど、人間って、泣きはらした後
どこへ行ったらいいのか、考えるんじゃない?そんな曲を今作りたいんだ」

…と、考え始めていらした時期だったみたいだし
卵が先か?鶏が先か?じゃないけど(笑)
そのタイミングで、そういうお二人がタッグを組まれたことで
甲斐バンドに大きな化学変化が起こったことは間違いないでしょう

ちなみに…「甲斐よしひろの初期のボーカルは
無垢で傷つきやすい魂を感傷的に歌い上げる時、抜群の冴えを発揮した」
…と、おっしゃる亀和田武さんは

「雨にけむる街並みを息を切らして、駅へ駆ける少年」
「少女の乗ったバスを、どこまでもどこまでも追い続けた少年」
「年上の自堕落な女に恋をしてしまった少年」

「師走の冷たい街角で、長いマフラーを巻き
来るはずのない恋人を待ち続ける少年」…等々
「唇をジッと噛みしめて寂しさに耐える少年の過激なセンチメンタリズム」こそが
「初期の甲斐よしひろの曲の特徴」であり

「甲斐よしひろのボーカルは、艶のあるセクシーな雰囲気のそれだ
だから以前、彼のファンの8割以上を占めていた女の子たちは
彼のイメージを、可愛くて、セクシーで
ちょっと生真面目な男の子…という風に描いていたのではないか?」と記されていて

やはり、当時の少し甘い甲斐さんのハスキーな声と「僕」という主語が
「少年」のイメージを醸し出していたのかも知れません

ともあれ…主語を「俺」に変更され、サウンドもよりロック色を強めた
アルバム「誘惑」について、水上はる子さんは…

「ブルーの帯に書かれたキャッチフレーズ『愛のアジテーション』
…たとえ、それがレコード会社の宣伝マンの作り上げた惹句であったとしても
これほど甲斐よしひろのことを言い得ている言葉はないだろう
およそ相まみえない政治の言葉と日常の言葉とが
甲斐よしひろの位相でひとつになる」と評され

また、亀和田さんも【HERO】に関するコラムで…
「甲斐バンドが、この5年間に獲得した何か…
性急に結論づけてしまえば『普遍性』と『突出力』である
【HERO】という曲の美しさと
時代に対する普遍性と突出力を保証したものは
ヒロイズムと疾走感の2点である

人生はまるで一夜かぎりのショーのように
あるいは、路上のカクテルパーティのように脆く儚い
だから…まさしく『だから』なのだ
ヒーローになる時は今なのだし
俺たちは走り出さなくてはならないのだ

このまま、ここで立ち止まっていたなら
俺たちの愛がボロボロに崩れていってしまう
だったら、一刻も早く走り出さなくてはいけない
性急なまでの『愛のアジテーション』
少年少女の胸に向けて放たれた
語の本質的な意味でのメッセージソングが【HERO】だったのだ」と記されていて

「愛のアジテーション」というフレーズには
甲斐さんのセクシーさはそのままに
骨太な歌詞や「バンドの性格」が前面に押し出されていて
おそらく?このフレーズをお考えになったのであろう広瀬さんにも
佐藤さんの「夢」に対する熱意が届いたんじゃないかと…?
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ラジオ深夜便(2/7)その2

2018-02-17 12:34:00 | メディア
「甲斐バンドの面倒をみるきっかけは?」と訊かれて佐藤さんは…
「それは当時、新しい音楽を作る才能のある人達に
たびたびインタビューしたり、コンサート観に行ったり…というところで
原稿を書いて取り上げていたその中で
色んなアーティストとお会いしたんですけど

中でも自分が気に入って、相手にも、相手のスタッフにも気に入られて
で、スタジオに来てくれとか、コンサートに来て考えて思ったことを…
意見を言って欲しいとか言われるようになって

ただ単に音楽を聴いて、分析して思ったこと書いて…というよりも
そろそろ実践してみるのも良いんじゃないかと
それもまた新しい勉強になると思ったので
実際に音楽を作る側に回ってみようってことで…

当時の甲斐バンドは、新興楽譜出版社っていう
そもそも音楽出版…楽譜の出版、雑誌『ミュージック・ライフ』
『ヤングギター』っていう雑誌を作っていたんです
そういう意味では、わりと自分にとっての近さっていうのも感じられたので
ここに入社させて頂いて、マネジメントとプロデュースをやることにしました」
…とお答えになっているんですが

田家さんの「ポップコーンをほおばって」に…
「会社との軋轢はあったはずですよ
バンド側が、言ってみれば勝手に人を増やしてしまった訳ですからね」
…と話されている通り「契約料」の半額を会社が支払い
残りはバンドが「経費」として出すという異例の形態だったため
「『慣習破り』のレッテルもついていた」らしい(苦笑)

続いて…「当時の甲斐バンドは、デビューしてどのくらい?」との質問に
「デビュー3年目で…2年目くらいにかなりのヒット曲【裏切りの街角】が出て
その後は少し、いわゆるヒットチャートから離れて…
でも、きっちりコンサートをやっているような時代でした」と佐藤さん

「だから、アルバム時代っていうのかな?
その当時の…シングルヒットもそうですけど、アルバムが…
どちらかというと、アーティストの人達は力を入れていた時代なので…

そういう意味で、アルバムは確実に売れてるけれども
シングルヒットが欲しいねっていうような時代に呼ばれていって
そういう形でスタッフに加わったということです」と話されてましたが

「ポップコーンをほおばって」には
「一番イヤな職業についちゃったという感じはありましたね
それまで、なりたくないのはマネージャーと宣伝マン…と
音楽業界誌をやってる時に感じてましたから」発言があり(汗)

あくまでも「甲斐バンドの」契約マネージャーという
「限定つきだったのだろう」との田家さん説は正しかったんじゃないかと…?

その当時の甲斐バンドはというと…【裏切りの街角】のヒットの後
「客の動員数が増えるのと裏腹に
【かりそめのスウィング】以降、ジリ貧だった、パッとしなかったね」と甲斐さん

「やっぱり苦しいよね
なかなかすぐに気に入った明日が見えない訳だからさ
そりゃあ、ヒット曲を出せば良いのかも知れない
だからといって、他の作詞家や作曲家に依頼することだけはしたくなかったからね

絶対、自分たちの作った曲で勝負したいと思っていた
でも、時々、自分っていうのが、ふと見えなくなったりして
『俺は才能がないのかも知れない』と思って不安になったこともあったよ

しかし、誰にも言えないよね、確かに…
俺がそんなことを言ったら、もうメンバーやバンドはメチャクチャよ
誰も舵を取れなくなる…だから踏んばったね」とおっしゃっていて

【最後の夜汽車】を書かれた際に「吐き出し切っちゃったと思ったね
ワーッて思った…俺、それで酒飲んで泣いたことがあってね
ボロボロ泣いたもん
もう書けない…これ以上、何を書けばいいんだ…もう判らない」と
長岡さんに弱音を吐かれたという話を思い出しました

ともあれ…「その後【安奈】というような
大ヒット曲が出ましたよね?甲斐さんね」と要ディレクター
「あれっ?そこはフツー【HERO】なんじゃね?(笑)」ってこともさりながら
「甲斐さんね」の声のトーンがアヤシイ…(笑)

「『あの時』は、佐藤さんがプロデュースなさってた時ですよね?」との言葉にも
「甲斐バンドフリーク」のニオイ(笑)が感じられ
この番組と同じ「NHK-FM」の某番組のリスナーでいらしたのかなあと…?(笑)

佐藤さんは「僕のプロデュースっていうのは
いわゆるバンドの人達と一緒に考えて
演奏者ではない側から意見を言い、アイデアを出し…という風な
基本的にチーム全員で作ってる作り方をやってました」と話されてましたが

当時は「僕にも、自分が何ができるかハッキリしてなかったことは確かなんです
文章を書いたりすることなら自分のジャンルで
ある程度、判断がつきましたけど
レコードを作ったりすることの中では
自分のやれるポジションは、何もクリアーになってない

バンドの方もそうだったんでしょうね
どんな反応が出るか判らないから
『どう思う?』って、事あるごとに訊いて来る訳です
僕の意見が的確なこともあるし、的確じゃないこともある
その内、判って来るんですよ
ここは、僕は知らなくていいことで
ここは、ちゃんと言わなければいけない…という判断がついてくる」

…と、しばらくは「スタッフでもない、友人でもない
かといって、ブレーンでもない
逆に言えば、それらの全てがそうであると言える」存在として
「デスクワークに差し支えのない時は
ずっとスタジオにいる」という日々だったみたいです

佐藤さんは、78年の始めに「遠くまで、行くこと
そのために自分自身を高めること」といった内容の「決意文」を
メンバー全員に渡されたそうだけど

その前年から「まず、俺自身が大きくならなければ
甲斐バンドをもう一回り大きくすることは出来ない」という
リーダーとしての甲斐さんのお考えで始まっていた
甲斐さんのソロアルバム制作とも一致していると思うし

実際にナッシュビルまでレコーディングに同行され
「制作から宣伝まで一人でやった
あそこから始まったと言っていいでしょうね」とおっしゃった通り
ご自身とバンドとの関わり方のスタンスを確立なさったんじゃないかと…

余談ですが…「翼あるもの」の収録候補曲を選ばれる際に
佐藤さんが「ステージではやっているのにレコードになっていない
隠れた良い曲だ」と思っておられた
浜田省吾さんの【あばずれセブンティーン】を甲斐さんが挙げられたり

「甲斐が、古い歌をよく覚えてるのには感心させられましたね
歌詞を覚えていることはもとより
その歌にまつわる色んなことを本当によく覚えてる」と驚かれたり

「売れないGSのデビュー曲のB面のタイトル(笑)」が話題になったりと
マイナーな曲まで網羅されるほどの「音楽マニア」のお二人が
時間を忘れて話し込まれているご様子が目に浮かびますね(笑)
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ラジオ深夜便(2/7)その1

2018-02-16 13:56:00 | メディア
8日の朝に甲斐友さんからLINEが来て
この番組で「佐藤剛さんが甲斐バンドの話をしてる」と教えて貰った奥さん

今まで、甲斐さんがラジオで話されたり
甲斐バンド関連の本や雑誌の記事に取り上げられたりしたことを
佐藤さんがご自身で語られているのが興味深かったと言うので
ボクも早速、聞き逃し配信を聴いてみました♪

佐藤さんは、4時台の「明日への言葉」にご登場
「作家・音楽プロデューサー、1952年生まれ、現在65歳
音楽業界誌の営業・編集に携わった後、音楽プロデューサーとして
甲斐バンド、THE BOOM、小野リサなどの作品、ライブ、イベントをプロデュース…」等々
簡単なプロフィール紹介があり

「ご自身の音楽活動の道のりと
日本のスタンダードナンバーへの思いをお訊きします」とのことで
まず「音楽業界に入ったのは、学生時代から思っていたことですか?」と要ディレクター

佐藤さんは「そうですね、中学生になったくらいから
バンドを育てる、サウンドを作るという
プロデューサーって仕事をやりたいと思っていました」とお答えになり

「音楽は好きでしたし、クラシックからポップスから歌謡曲まで
気に入ったものを買って聴いてましたが
歌ってる人よりは、どこの誰が作詞、作曲したのか
エンジニア、プロデューサーは誰か
どこのスタジオで、誰が演奏してるのか、そういうことに興味がありました

だから、映画を観ても、監督が誰で、プロデューサーが誰で
企画を立てたのが誰か…というところで、わりと判断してました」
…と話されていたんだけど、確かに機関紙BEATNIKの中でも

「やっと時間を作って、半年ぶりで映画館に足を運んだ」のは
「滝田洋二郎という若い監督の3本立て」がお目当てでいらしたと記されてました

ともあれ…「そういう意味では、潜在的にずっと
そういう裏方の仕事に興味があったんです
ですから、楽器を弾いたりもしましたけど

やっぱり、音楽がいくら好きでも、演奏するとか、歌うっていうよりかは
どうすれば、素晴らしい歌手や演奏家を光らせることが出来るか?とか
才能を引き出してあげることが出来るか?
…という風なことばっかり考えてました」と佐藤さん

「ミュージシャンに対してコンプレックスがない」方と
「レコードを聴いたり収集したりする音楽マニア」から
「誰も自分の聴きたい音楽を作ってくれないんで」と
ミュージシャンになられた方が出会われる確率って、どのくらいなんでしょう?(笑)

「大学卒業後、最初に入ったのが雑誌の編集?」との質問には
「学生時代から、実際にコンサートのプロデュースをしていたので
今やってるような、歌謡曲含めての研究をやりたかったんです

でも、大学は4年で卒業なんで…
僕らの頃は、最初の2年間は学校がなかった…ロックアウトされていた時で
ほとんど大学には行ってないんで
自己流に色々、社会勉強しながら、好きなことを研究する…
映画を研究して、音楽を研究して、コンサートを開いて…
みたいなことをやってました

もう少し勉強したかったけど
お金を払って教えてくれる所がないんで
『ビルボード』…音楽業界の指針になる様々な情報とか分析とか
ヒットチャートを作っている…その日本版で
『ミュージック・ラボ』っていう会社が募集してたので
運良く入ることが出来ました

そこで入社時に『3年間、一生懸命やります
大学院に入ったつもりなので…
その代わり、3年経ったら自由にさして下さい』というお願いをして
その上で入社しました

きっちり3年で辞めさして頂いて、音楽プロデューサーの道に入って
そこから甲斐バンドっていうグループを引き受けて
マネジメントとプロデュースをやるようになりました」と答えておられましたが

田家秀樹さんの「ポップコーンをほおばって」によれば…
「社会に出ても大して面白くなさそうだけど
『とりあえず』興味を持てそうな所という入社だった

歌が好きだから、音楽の現場にいて
歌の成り立ち方と流行の仕組みを知りたいという、そんな動機の入社だった
3年経ったら、会社を辞めて、フリーのライターとしてモノを書きながら
作る側に関わって行きたい…そんな希望はあった」そうです

「『3年』という期限切れを前にして
事情を知っている関係者から誘いが来る
例えば、レコード会社、プロダクション、そして何人かのアーティスト
でも、甲斐バンドは、その中で一番条件が悪かった」らしく(汗)

「やはり悩みましたけどね
よした方がいいという人もいっぱいいたし…
でも、そういうことで測ることが出来ないバンドなんじゃないかという
気持ちの方が強かったんです」と佐藤さん

結果的に、1年ごとに更新される「契約マネージャー」になられたのは
「僕の方の希望でもあったんです
僕は甲斐バンドと一緒にやりたいとは思ったけれど
シンコー・ミュージックに入りたいと思った訳じゃなかったんで…」と説明なさってます

甲斐さんが「英雄と悪漢」のライナーノーツに書かれた
「ハードスケジュールの毎日、少ない貴重な時間の中で」
ミュージック・ラボ入社2年目の佐藤さんが取材をなさった時のことを

「取材予定をはるかにオーバーしたまま、甲斐よしひろと話をし続けたことは
初対面の取材としては鮮烈に残っている
しかも、その話の内容は、映画とストーンズの話に終始して
『いつか、この話の続きを…』と別れた」と話されてるんだけど

後の記事には…甲斐バンドのニューアルバムに関してインタビューなさるため
新興楽譜出版社の応接室で、初めてお会いになったこと

甲斐バンドについては「九州・博多の出身で
【裏切りの街角】が、ちょっと昔のGSを思い起こさせ
ややヒットしかかっていることしか知らなかった」こと

「インタビュアーの義務として『らいむらいと』を聞いておいたが
それほど感銘を受けた曲もなかった
ただ、面白いところや妙に気にかかる部分は随所にあって、興味はいくらか湧いた
楽譜集にも目を通しておいたが
そこでも歌詞はかなり複雑でいながらもストレートで、いっそう興味が増した」こと

「実際に彼らと会って話をしてみて
とても気分が昂ぶったことを覚えている
その日の晩は、興奮気味に甲斐バンドとの出会いを人に語った」ことが記されていて

1977年の正月明けに「俺たちと一緒にやらないか?」という
甲斐さんからのオファーを承諾されるまで
どれほど語り合われたのかなあと…?(笑)
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甲斐よしひろ BEAT HARDWORK(2/8)5

2018-02-15 21:14:00 | メディア
「…ということで、色々言わなきゃいけないことがありますが…
今年もついに5月からビルボード・ツアー始まります」と甲斐さん

「甲斐よしひろ ビルボード&ブルーノート2018
『EAST with WEST』ね…『with』になりましたか
これ付けたの何ヵ月も前なんで、忘れておりますが…(笑)
『from』だったか、ナンだったか…ナンだっけ?…ということで」

…と、ツアー日程を告知なさってましたけど
「孤独のグルメ」よろしく?シーズン6を目指されるとしたら(笑)
「to」「from」「with」の後はどうなるんでしょうね?(笑)

ともあれ…こちらの番組でも、ビルボード東京のカジュアル席が
ビルボード大阪のそれより500円安くなってることに触れられ
「これは、ビルボード・ライブ東京の弱気なんですか?(笑)
そうだよね?考えたら、いつもこうだもんね」と話され(笑)

「今日は1回目なんで、ちょっと詳しく言いました、ハイ
ということで、ムーディー・ブルースかけます」…で、4曲目【サテンの夜】へ…

「これも1月4日ですね、亡くなったのが…
これ、フルートとボーカル…レイ・トーマス
えー、ねぇ…日本人は大好きでした、この曲…ハイ、当時…

で、この人たちがいたおかげで、サディスティック・ミカバンドの…
日本に来日した時に、サディスティック・ミカバンドのレコード聴いて
『素晴らしい』っていうんで、彼らがイギリスへ持ち帰って、ミカバンド広めて
ミカバンドがイギリスでレコーディングするようになった
…という、すごい最大のきっかけを作った」と紹介なさってたんだけど

曲が明けて…「別にこれは、深夜喫茶の話じゃないですよね(笑)
違いますよ!あの生地のサテンみたいな、ビロードみたいな
そんな夜を表してると…ね?」と軽くボケられたのかと思いきや

「やっぱ、みんな同じこと思ったんですね?(笑)
『サテンの夜』って言ったら、ナンか深夜喫茶に入り浸ってね
学校クビになるような、そんな女の子の話かと思いますよね?(笑)

違います!違います!(笑)みんなスゴイなー!
それを言っただけで、全員が頷いたっていう…(笑)恐ろしい…ハイ」
…って、じゃあ甲斐さんも以前はそう思われたってこと?(笑)

ちなみに、甲斐バンドのドラマー時代の松藤さんは
「ライブで汗をかいても、つるんつるんと滑るから」と
サテン素材のステージ衣装を選ばれていたそうです(笑)

続いて…小室哲哉さんの引退についての投稿を読まれ
「まあ、とにかく引退は残念ですよね
それぞれ己れの決意が…みんなね、アーティストは自分なりの決意があるんで…
その…引退どうの、決めるのも自分ですから」と甲斐さん

「まあ、それはそれとしてもですね
だけど、それなりに仕事の繋がりが…僕、あってね…仕事一緒にやった仲なんで
ホントにこう…残念に…思いました、ええ…
まあ、僕、引退会見フルで見た訳じゃなくて
『ミスター・サンデー』とか、そういうような感じでしか、僕、見ないんで…

まあ、だけどもナンか…『そうか、ナンかこう…自分の中で幕引きをね
自分の中で決意していたんだな』
…っていうことは、よく伝わりましたね、ハイ」とコメントされてましたが

先日の「SWITCH」で、かつての小室さんと同様に
「年間100曲制作」なんて活動をなさっていたつんく♂さんが
「15年くらい、新しい音楽は聴かなかったかも知れない」と話されたほど
音楽業界に身をおかれながら
「音楽を楽しむ」余裕もない生活でいらしたことを明かされていたのを拝見して

小室さんも、スタジオに寝泊まりなさるような生活から
奥様の介護やご自身のご病気などで、ご夫婦の関係や環境が一変して
思うようなお仕事が出来ないことに
息苦しさを感じておられたのかなあ…と思ったり

また、会社員と違い「定年」がないお仕事だし
多くのアスリートの方みたいに、気力や体力の限界を感じられたり
ご本人の意志とは別のところ…例えば「戦力外通告」など
…で活躍の場が失われたりというのとも違って

いわば、ご本人が「もう、や〜めた!」と宣言するだけで
まあ、すぐにでも辞められるっちゃあ辞められる…とはいえ
今回の報道が、その「ふんぎり」のきっかけを作ったことは
間違いないんじゃないかと思ったり…

ただ、文春側に非難の矛先が向けられたのは
引退会見をなさる小室さんのご様子が弱々しく感じられたことや
介護が多くの方々にとって切実な問題であるために
「弱者をいじめる許しがたい行為」に映ったのではないか?とのご意見や

世間に渦巻く「処罰感情」自体がなくなった訳ではなく
今回は、引退や介護などが免罪符になり
「誰かを罰したい」という欲求が、文春批判に繋がっただけ…とのご指摘もあり
変に会見を見慣れてしまったのかなあ?と反省したり…(汗)

でも、本来なら、人気絶頂期に引退された山口百恵さんや
皆さんが「なぜ?」と驚かれた安室奈美恵さんの引退宣言のように
惜しまれつつ…というのと少しニュアンスが違うことが残念ですね…

王貞治さんはホームランの世界記録を樹立された後
「あと3年は続ける自信があったが、満足のいく活躍が出来ずに
惨めな姿をファンに見せるようなことはしたくなかった」と
40歳で現役を引退なさったことを
「出来るなら自分の人生を書き換えたいくらい」後悔されたそうで(汗)

人々の夢や憧れを一身に背負われる方にとって「引退」は
ご自身のお気持ちだけでは決められないのかも知れないし
そういう意味で小室さんの「幕引き」は、何かの巡り合わせだったのかなあと…

それはともかく…
「去年の10月くらいですかね?船越さんと、ある時、メシ食ってたら…
イヤ、こないだ屋形船でさ、みんなで宴会みたいな…
そこで、座ったら隣が小室さんで、甲斐さんの話したら

『イヤー、会いたいなー!会いたいなー!』って
1時間半くらいの間に、12回くらい言われた…っていう」
『甲斐さん、会いたいな』っていう、ナンか話があったんで…

ナンかこうねぇ…今、こういう感じで
ちょっとホント残念な感じで幕引かれたんで
まあ…『うん…そうなのか』って感じが
逆に船越さんの言葉でね、こう…ズンと…
その記者会見見ながら、自分の中でズンと来たんですけどね

まあ、そうは言っても、彼が書いた曲とか、そういう時代っていうのは
ずっと、みんなの記憶の中で、ずっと続きますからね
音楽って、そういうこと…そういうものです、ハイ」と甲斐さん

「THE BIG GIG AGAIN」発売の告知の後
「僕は、甲斐バンドが武道館5日間連続…解散することになった時に
『イヤ、バンドは終わっても曲は生きて行く』っていうね
それはね、みんな同じように感じるし
同じようにやっぱ考えるはずなんですよ

だけど、本当はそこにもう一つあって
まあ、それはね、86年に僕ら、そういう発言…僕がした時に
実は、その後、甲斐よしひろが生きて行ってる上での
そのストーリーというか、物語というか
そういうことが、すごく実は付加価値になっていて
それで、その書いた曲とかにフィードバックしてると…

だからやっぱり、どういう風にそのシンガーなり、アーティストなりが
生きて行くかっていうのが、その歌にフィードバックして行く
作品にフィードバックして行くってことなんで

だから、彼は引退したんですけど
小室くんは、そこにちゃんと存在はしてる訳だし
色んな意味で、色んな形で発信はして行くと思うんでね
是非やって頂きたいなと、僕は思ってます、ハイ
これ、ホント正直な気持ちですね」とおっしゃった後

「ビルボード・ライブから…2016年にやったライブですね
1曲聴いて貰いましょう」と5曲目に【卒業】を選ばれてました
甲斐さん流のエールだったんでしょうか

余談ですが…甲斐さんが、大森さんからの3度目のアプローチで
ついに甲斐バンドの解散をお決めになったことをご家族に伝えられる時

「もちろん虚しくなる瞬間があったのも否めなかった
ただ結果オーライという部分でもないけど
『ここぞ』と男が決めたことに家族の意見が入って来ちゃうと
小難しくなったりするからさ、結論だけバッと言った」そうですが

「音楽はてめえがやってるものだからね
家族は曲も作ってくんないし、詞も書いてくんない(笑)」という
冗談めかされた言葉に、前述の「アーティストの決意」が籠められてるなあと…

ただ、以前に甲斐さんが「お引きあっての芸人」と話されたことがありましたけど
結成60年のボニージャックス・鹿嶌武臣さんも
「この世界は、コンサートに呼んでくれる人がいなくなったら
それが定年なんです」とおっしゃっていて

確かに、聴きたいと願うファンの方が大勢いらしても
興行として成立しなければ「事実上の引退」になっちゃうし(汗)
プロとアマチュアの違いは「自分の技を職業とするか否か
それで生計を営むのか、それを楽しみとしてやるのか」ということだし…

…といったことをボクが話すと
奥さんは「誰も聴く人がいなくなってね…
5人しかいない…それが女房とガキだとしても
結構、一生懸命歌うと思うんだ、その時…」って日が
永遠に来ないことを願っておりました
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甲斐よしひろ BEAT HARDWORK(2/8)4

2018-02-14 20:05:00 | メディア
甲斐さんは特にコールされませんでしたけど
おそらく?「マイ・ムービー」のコーナーでしょう(笑)
「『シング・ストリート』のサウンドトラックが…かけますが
これねー、この曲がいかにスゴイか
この曲を聴いてから…」とおっしゃいつつ

「1985年、アイルランドで起きたアマチュア…とにかくすごくて
自分の高校の対面の建物に、いつもキレイな美人が立ってて…
すごいキレイな美人のコが…そのコを何とか気を引きたいためだけに
『俺、バンド作ってるんだけど』…バンド作ってませんよ
その主人公は高校に入ったばっかりですから…」とストーリー紹介が始まり(笑)

「『バンド作ってるんだけど
プロモーションビデオ撮るから出てくれない?』って言って…
気を引くためだけに嘘を言って、バンドを作る羽目になったという…
これは、ジョン・カーニー監督のね(作品)…
『はじまりのうた』とか、それから『ONCE ダブリンの街角で』とか
すごい有名になった…の3作目なんですけど、これ、世界中で当たりました、ハイ

その時に、一瞬しか出て来ないんだけど
わぁー!80年代のこの感じ!一番気分は出してるよなって
一番表してるなっていう曲が、一瞬なんですけどかかるんですけど
これ、素晴らしいと思いましたね
僕、サントラももちろん買いましたけど…」
で、3曲目は、ジョー・ジャクソンの【Steppin' Out】

曲が明けて…「欧米で大ヒットしたね、曲なんですが
まず、あの…ジョン・カーニーという監督は『ONCE ダブリンの街角で』
これ、低予算映画だったんですけど、口コミで世界中に広がってってね
まあ、世界中、口コミって、ホントに『コショコショ』って言ってる人いませんからね

大抵、ツイッターやったりね、ネットでってことなんですけど
あっという間に広まって、じわじわじわじわ上がって行って、大ヒットして…
次が『はじまりのうた』で、マルーン5のボーカルのアダム使って
ま、これはですね、うぅーん…まあ…まあ
それなりにサントラもすごいヒットしたし
それなりに映画もヒットしたんですけど

ジョン・カーニーがですね、上映後に
ちょっと、キーラ・ナイトレイに厳しいツイートしたおかげで
世界中から、ちょっと叩かれると…
えー、マルーン5のアダム使ったんで
もっとヒットするんじゃないかと、彼は目論んでたんじゃないかと思うんですけど
ま、映画もそういうもんでもないんで…

で、その…ま、ナンていうか、第3弾…まあ、リベンジということですかね
この『シング・ストリート 未来へのうた』っていうのは、だから、一切ですね
無名の役者ばっかり使ってるんですよ
それが、ものすごく、やっぱ良くて…」と話されてました

その「厳しいツイート」というのは
「映画スター達の世界は全く魅力的じゃなかった
キーラには取り巻きが沢山いて、どこに行くのも一緒だった
だから満足な仕事が出来なかった
彼女は自分を隠していた、それでは俳優になれない
ギターを弾くシンガー・ソングライターには見えなかった」といった内容で

後にきちんと謝罪しているんですが
ハリウッド進出する気はなくなったらしく(汗)
「だから、一切」有名な俳優は使いたくなかったのかも知れません(苦笑)

そういえば、クリント・イーストウッド監督の新作も
一般人を起用したものなんだけど
こちらは「実話」をベースにした映画なので
実際に、その現場にいた方々をそのまま「本人」役で登場させたそうです

ともあれ…「さっきも言いましたけど
1985年のダブリンを舞台に、不景気や転校でドン底にいた高校生が…
ま、結局、父ちゃん母ちゃんが不仲で
父ちゃんはもう無職になり、週3でバイトをやってる母ちゃん…ね
で、結局、この2人がもう別れると…

だから、経済的に大変だから
『お前、私立に行ってたけど、明日から公立ね』って言われて
公立に通うようになって…当然、まあ、私立はね
ある種、その…ナンての?クライアントですから
そこまで厳しくない訳ですよ、生徒に…

だけど、もう、公立は関係ないですからね、国の…
それと、その学園長の教育方針で…
で、さっきも言いました、その『ミュージックビデオ撮るから』っていう理由で
いつも学校出て来ると、そこの対面の建物に立ってる、すごくキレイな美少女がいて
そのコに、えー、そういう気を引くために嘘をつくと…

実際、バンドも作…しょうがないからね
ミュージックビデオ撮らなきゃいけないんで…バンドを作るんですけど
これがね、なかなか、まあすごい

で、映画の最初の方に…兄貴がいて、えー、妹もいる…
というような3人兄妹なんですけど、兄貴がものすごい良いヤツで
大学中退して働いてるんだけど

その兄貴が『おい、観るぞ!』って言って、ワーッとテレビの前に…
イギリスの『トップ・オブ・ザ・ポップス』が始まると
弟に『おい、観よ観よ!』って言って、観るんですけど
それが、デュラン・デュランの【リオ】なんですよ

だから、MTVがやっと始まりの時で
デュラン・デュランの【リオ】がかかってて
で、父ちゃんが…後ろで父ちゃんが
『ナンで歌ってるのに、口パクなんだ?
ナンで、ホントに歌ってないんだ?』

だから、ミュージックビデオだしさ…みたいな(笑)
父ちゃん、ほら知らないからさ…ね
『シークリフ・リチャード・ショー』しか、そういうのしか知らないから(笑)

それで、ホントにミュージックビデオの始まりで
えー、で…まあ、ホントにデュラン・デュランを聴いたら
素直に、その格好も…ファッションも、自分で作る曲も
デュラン・デュランっぽいの作るし

【マン・イーター】…ホール&オーツ…それ聴くと
『ドンドンドン、ツドンドン…』って、まあ言ったら
【マン・イーター】そっくりの曲を…
しかもホール&オーツっぽいファッションとか…

で、あの…これ、予告編で…この『シング・ストリート』は
予告編はジャムだったんですよ、ジャムの曲がガンガンかかってて…
これ、本編の中はちょっとしか、かかんないんですけど
うっすらとしか、かかんないんだけど…【悪意という名の街】ね
【タウン・コールド・マイルス】がガンガンかかってると…

そういうのが、もう全部…あの頃、だからニューヨーロピアンと言われる…
デュラン・デュランとか、そういう…ニューヨーロピアンと言われた時代
えー、エレクトロポップ…エレクトロポップって言うと判りますよね?

エレクトロ・サウンドが全盛期の時代に
そうやって、バンドがどんどん、どんどん上手くなって行って
で、ミュージックビデオもすごいミュージックビデオ作るっていう…

で、これは、80年代に割と売れたミュージシャン達とかが…
ミュージシャンが、ちゃんと作品を書いてて、映画用に…
で、今、割とアイルランドとかで売れてるバンドとかが手伝って
いわゆる、わざと下手に弾いたりとかしててですね

この映画用のオリジナル曲もすごい良いんですよ
だから、このサントラ優劣だなあと思って…ホントに良く出来てますね」と
「ひよっこ」のヤスハル役の古舘さんが「わざと素人っぽく歌ってる」
って話された時を彷彿させるトーンでおっしゃってました(笑)

「で、最後…まあ、兄弟愛というか、結果的にその女の子を連れて
おじいちゃんが持ってたモーターボートみたいな小さなボートで渡って行って
イギリスに向かうと…ちゃんと辿り着いたんでしょうか?
…みたいな感じで、取り敢えず、それでも渡って行くと…
そうそう!水バンバン浴びてすごいんだよね
それ、死ぬぞ!って感じなんですけど…

その時に兄貴がものすごく良いんですよ
その舟をこう…バン!と手配して、で、乗せて『じゃあな』って言った時に…
やっぱり、その…『リトルダンサー』って映画の時も
親父と兄貴がバスを見送るところで
うわぁーってなるんですけど、それと同じくらい

この兄貴が素晴らしい!その弟にちゃんと大事なことを言う
『俺が切り開いて来た道を、お前はただ
のほほんとついて来ただけだけどな』って言いながら
すごく大事なことをちゃんと弟に教えてるっていうですね
だから、弟も兄貴大好きっていうようなことなんですよ

ぜひ皆さん、良かったら『シング・ストリート』観て頂きたいと思っております
面白かったら、サントラもぜひ聴いて下さい」
…と、いつも以上に熱く語られてましたが

甲斐さんも「荒馬のように」の中で… 一番上のお兄様が、ご家庭の事情で高校進学を断念せざるを得なくなられた時
ご両親の前では号泣されたものの
「長男の責任…そう思ったのか、弟の俺たちの前で、一切涙は見せなかった」とか
「兄貴の苦労は俺の数十倍だったろう」とか

また、残された3兄弟で家計を助けるために始められた新聞配達で
甲斐さんが間違った家に配ってしまわれ、ベソをかいていらした時に
「兄貴の良さは、こういう時に弟の俺を殴ることだった

あいつらは決して口でなんか教えなかったね
もっと別のところで俺に教えてくれた、いつだってね
これには、今でも感謝している、本当に」と記されていて
「弟も兄貴大好き」ってトコにグッと来られたんだろうなあと…
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