ボクの奥さん

ボクの奥さんは、甲斐よしひろさんの大ファン。そんな彼女との生活をお話したいと思います。

ラジオ深夜便(2/7)その1

2018-02-16 13:56:00 | メディア
8日の朝に甲斐友さんからLINEが来て
この番組で「佐藤剛さんが甲斐バンドの話をしてる」と教えて貰った奥さん

今まで、甲斐さんがラジオで話されたり
甲斐バンド関連の本や雑誌の記事に取り上げられたりしたことを
佐藤さんがご自身で語られているのが興味深かったと言うので
ボクも早速、聞き逃し配信を聴いてみました♪

佐藤さんは、4時台の「明日への言葉」にご登場
「作家・音楽プロデューサー、1952年生まれ、現在65歳
音楽業界誌の営業・編集に携わった後、音楽プロデューサーとして
甲斐バンド、THE BOOM、小野リサなどの作品、ライブ、イベントをプロデュース…」等々
簡単なプロフィール紹介があり

「ご自身の音楽活動の道のりと
日本のスタンダードナンバーへの思いをお訊きします」とのことで
まず「音楽業界に入ったのは、学生時代から思っていたことですか?」と要ディレクター

佐藤さんは「そうですね、中学生になったくらいから
バンドを育てる、サウンドを作るという
プロデューサーって仕事をやりたいと思っていました」とお答えになり

「音楽は好きでしたし、クラシックからポップスから歌謡曲まで
気に入ったものを買って聴いてましたが
歌ってる人よりは、どこの誰が作詞、作曲したのか
エンジニア、プロデューサーは誰か
どこのスタジオで、誰が演奏してるのか、そういうことに興味がありました

だから、映画を観ても、監督が誰で、プロデューサーが誰で
企画を立てたのが誰か…というところで、わりと判断してました」
…と話されていたんだけど、確かに機関紙BEATNIKの中でも

「やっと時間を作って、半年ぶりで映画館に足を運んだ」のは
「滝田洋二郎という若い監督の3本立て」がお目当てでいらしたと記されてました

ともあれ…「そういう意味では、潜在的にずっと
そういう裏方の仕事に興味があったんです
ですから、楽器を弾いたりもしましたけど

やっぱり、音楽がいくら好きでも、演奏するとか、歌うっていうよりかは
どうすれば、素晴らしい歌手や演奏家を光らせることが出来るか?とか
才能を引き出してあげることが出来るか?
…という風なことばっかり考えてました」と佐藤さん

「ミュージシャンに対してコンプレックスがない」方と
「レコードを聴いたり収集したりする音楽マニア」から
「誰も自分の聴きたい音楽を作ってくれないんで」と
ミュージシャンになられた方が出会われる確率って、どのくらいなんでしょう?(笑)

「大学卒業後、最初に入ったのが雑誌の編集?」との質問には
「学生時代から、実際にコンサートのプロデュースをしていたので
今やってるような、歌謡曲含めての研究をやりたかったんです

でも、大学は4年で卒業なんで…
僕らの頃は、最初の2年間は学校がなかった…ロックアウトされていた時で
ほとんど大学には行ってないんで
自己流に色々、社会勉強しながら、好きなことを研究する…
映画を研究して、音楽を研究して、コンサートを開いて…
みたいなことをやってました

もう少し勉強したかったけど
お金を払って教えてくれる所がないんで
『ビルボード』…音楽業界の指針になる様々な情報とか分析とか
ヒットチャートを作っている…その日本版で
『ミュージック・ラボ』っていう会社が募集してたので
運良く入ることが出来ました

そこで入社時に『3年間、一生懸命やります
大学院に入ったつもりなので…
その代わり、3年経ったら自由にさして下さい』というお願いをして
その上で入社しました

きっちり3年で辞めさして頂いて、音楽プロデューサーの道に入って
そこから甲斐バンドっていうグループを引き受けて
マネジメントとプロデュースをやるようになりました」と答えておられましたが

田家秀樹さんの「ポップコーンをほおばって」によれば…
「社会に出ても大して面白くなさそうだけど
『とりあえず』興味を持てそうな所という入社だった

歌が好きだから、音楽の現場にいて
歌の成り立ち方と流行の仕組みを知りたいという、そんな動機の入社だった
3年経ったら、会社を辞めて、フリーのライターとしてモノを書きながら
作る側に関わって行きたい…そんな希望はあった」そうです

「『3年』という期限切れを前にして
事情を知っている関係者から誘いが来る
例えば、レコード会社、プロダクション、そして何人かのアーティスト
でも、甲斐バンドは、その中で一番条件が悪かった」らしく(汗)

「やはり悩みましたけどね
よした方がいいという人もいっぱいいたし…
でも、そういうことで測ることが出来ないバンドなんじゃないかという
気持ちの方が強かったんです」と佐藤さん

結果的に、1年ごとに更新される「契約マネージャー」になられたのは
「僕の方の希望でもあったんです
僕は甲斐バンドと一緒にやりたいとは思ったけれど
シンコー・ミュージックに入りたいと思った訳じゃなかったんで…」と説明なさってます

甲斐さんが「英雄と悪漢」のライナーノーツに書かれた
「ハードスケジュールの毎日、少ない貴重な時間の中で」
ミュージック・ラボ入社2年目の佐藤さんが取材をなさった時のことを

「取材予定をはるかにオーバーしたまま、甲斐よしひろと話をし続けたことは
初対面の取材としては鮮烈に残っている
しかも、その話の内容は、映画とストーンズの話に終始して
『いつか、この話の続きを…』と別れた」と話されてるんだけど

後の記事には…甲斐バンドのニューアルバムに関してインタビューなさるため
新興楽譜出版社の応接室で、初めてお会いになったこと

甲斐バンドについては「九州・博多の出身で
【裏切りの街角】が、ちょっと昔のGSを思い起こさせ
ややヒットしかかっていることしか知らなかった」こと

「インタビュアーの義務として『らいむらいと』を聞いておいたが
それほど感銘を受けた曲もなかった
ただ、面白いところや妙に気にかかる部分は随所にあって、興味はいくらか湧いた
楽譜集にも目を通しておいたが
そこでも歌詞はかなり複雑でいながらもストレートで、いっそう興味が増した」こと

「実際に彼らと会って話をしてみて
とても気分が昂ぶったことを覚えている
その日の晩は、興奮気味に甲斐バンドとの出会いを人に語った」ことが記されていて

1977年の正月明けに「俺たちと一緒にやらないか?」という
甲斐さんからのオファーを承諾されるまで
どれほど語り合われたのかなあと…?(笑)
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