ボクの奥さん

ボクの奥さんは、甲斐よしひろさんの大ファン。そんな彼女との生活をお話したいと思います。

ラジオ深夜便(2/7)その2

2018-02-17 12:34:00 | メディア
「甲斐バンドの面倒をみるきっかけは?」と訊かれて佐藤さんは…
「それは当時、新しい音楽を作る才能のある人達に
たびたびインタビューしたり、コンサート観に行ったり…というところで
原稿を書いて取り上げていたその中で
色んなアーティストとお会いしたんですけど

中でも自分が気に入って、相手にも、相手のスタッフにも気に入られて
で、スタジオに来てくれとか、コンサートに来て考えて思ったことを…
意見を言って欲しいとか言われるようになって

ただ単に音楽を聴いて、分析して思ったこと書いて…というよりも
そろそろ実践してみるのも良いんじゃないかと
それもまた新しい勉強になると思ったので
実際に音楽を作る側に回ってみようってことで…

当時の甲斐バンドは、新興楽譜出版社っていう
そもそも音楽出版…楽譜の出版、雑誌『ミュージック・ライフ』
『ヤングギター』っていう雑誌を作っていたんです
そういう意味では、わりと自分にとっての近さっていうのも感じられたので
ここに入社させて頂いて、マネジメントとプロデュースをやることにしました」
…とお答えになっているんですが

田家さんの「ポップコーンをほおばって」に…
「会社との軋轢はあったはずですよ
バンド側が、言ってみれば勝手に人を増やしてしまった訳ですからね」
…と話されている通り「契約料」の半額を会社が支払い
残りはバンドが「経費」として出すという異例の形態だったため
「『慣習破り』のレッテルもついていた」らしい(苦笑)

続いて…「当時の甲斐バンドは、デビューしてどのくらい?」との質問に
「デビュー3年目で…2年目くらいにかなりのヒット曲【裏切りの街角】が出て
その後は少し、いわゆるヒットチャートから離れて…
でも、きっちりコンサートをやっているような時代でした」と佐藤さん

「だから、アルバム時代っていうのかな?
その当時の…シングルヒットもそうですけど、アルバムが…
どちらかというと、アーティストの人達は力を入れていた時代なので…

そういう意味で、アルバムは確実に売れてるけれども
シングルヒットが欲しいねっていうような時代に呼ばれていって
そういう形でスタッフに加わったということです」と話されてましたが

「ポップコーンをほおばって」には
「一番イヤな職業についちゃったという感じはありましたね
それまで、なりたくないのはマネージャーと宣伝マン…と
音楽業界誌をやってる時に感じてましたから」発言があり(汗)

あくまでも「甲斐バンドの」契約マネージャーという
「限定つきだったのだろう」との田家さん説は正しかったんじゃないかと…?

その当時の甲斐バンドはというと…【裏切りの街角】のヒットの後
「客の動員数が増えるのと裏腹に
【かりそめのスウィング】以降、ジリ貧だった、パッとしなかったね」と甲斐さん

「やっぱり苦しいよね
なかなかすぐに気に入った明日が見えない訳だからさ
そりゃあ、ヒット曲を出せば良いのかも知れない
だからといって、他の作詞家や作曲家に依頼することだけはしたくなかったからね

絶対、自分たちの作った曲で勝負したいと思っていた
でも、時々、自分っていうのが、ふと見えなくなったりして
『俺は才能がないのかも知れない』と思って不安になったこともあったよ

しかし、誰にも言えないよね、確かに…
俺がそんなことを言ったら、もうメンバーやバンドはメチャクチャよ
誰も舵を取れなくなる…だから踏んばったね」とおっしゃっていて

【最後の夜汽車】を書かれた際に「吐き出し切っちゃったと思ったね
ワーッて思った…俺、それで酒飲んで泣いたことがあってね
ボロボロ泣いたもん
もう書けない…これ以上、何を書けばいいんだ…もう判らない」と
長岡さんに弱音を吐かれたという話を思い出しました

ともあれ…「その後【安奈】というような
大ヒット曲が出ましたよね?甲斐さんね」と要ディレクター
「あれっ?そこはフツー【HERO】なんじゃね?(笑)」ってこともさりながら
「甲斐さんね」の声のトーンがアヤシイ…(笑)

「『あの時』は、佐藤さんがプロデュースなさってた時ですよね?」との言葉にも
「甲斐バンドフリーク」のニオイ(笑)が感じられ
この番組と同じ「NHK-FM」の某番組のリスナーでいらしたのかなあと…?(笑)

佐藤さんは「僕のプロデュースっていうのは
いわゆるバンドの人達と一緒に考えて
演奏者ではない側から意見を言い、アイデアを出し…という風な
基本的にチーム全員で作ってる作り方をやってました」と話されてましたが

当時は「僕にも、自分が何ができるかハッキリしてなかったことは確かなんです
文章を書いたりすることなら自分のジャンルで
ある程度、判断がつきましたけど
レコードを作ったりすることの中では
自分のやれるポジションは、何もクリアーになってない

バンドの方もそうだったんでしょうね
どんな反応が出るか判らないから
『どう思う?』って、事あるごとに訊いて来る訳です
僕の意見が的確なこともあるし、的確じゃないこともある
その内、判って来るんですよ
ここは、僕は知らなくていいことで
ここは、ちゃんと言わなければいけない…という判断がついてくる」

…と、しばらくは「スタッフでもない、友人でもない
かといって、ブレーンでもない
逆に言えば、それらの全てがそうであると言える」存在として
「デスクワークに差し支えのない時は
ずっとスタジオにいる」という日々だったみたいです

佐藤さんは、78年の始めに「遠くまで、行くこと
そのために自分自身を高めること」といった内容の「決意文」を
メンバー全員に渡されたそうだけど

その前年から「まず、俺自身が大きくならなければ
甲斐バンドをもう一回り大きくすることは出来ない」という
リーダーとしての甲斐さんのお考えで始まっていた
甲斐さんのソロアルバム制作とも一致していると思うし

実際にナッシュビルまでレコーディングに同行され
「制作から宣伝まで一人でやった
あそこから始まったと言っていいでしょうね」とおっしゃった通り
ご自身とバンドとの関わり方のスタンスを確立なさったんじゃないかと…

余談ですが…「翼あるもの」の収録候補曲を選ばれる際に
佐藤さんが「ステージではやっているのにレコードになっていない
隠れた良い曲だ」と思っておられた
浜田省吾さんの【あばずれセブンティーン】を甲斐さんが挙げられたり

「甲斐が、古い歌をよく覚えてるのには感心させられましたね
歌詞を覚えていることはもとより
その歌にまつわる色んなことを本当によく覚えてる」と驚かれたり

「売れないGSのデビュー曲のB面のタイトル(笑)」が話題になったりと
マイナーな曲まで網羅されるほどの「音楽マニア」のお二人が
時間を忘れて話し込まれているご様子が目に浮かびますね(笑)
コメント
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