ボクの奥さん

ボクの奥さんは、甲斐よしひろさんの大ファン。そんな彼女との生活をお話したいと思います。

そうだったんだ…おまけ1

2015-09-23 11:28:47 | 日記
今回は『そうだったんだ…』からこぼれたネタを書かせて頂きます♪

まずは、チューリップの【心の旅】の記事でご紹介した
元・東芝EMIのプロデューサー・新田和長さん
1986年頃の切り抜きにあった『STAFF』というインタビューによると…

新田さんは元ザ・リガニーズのメンバーでいらっしゃいますが
1968年にデビューされた時に
『もう堅気の世界には戻れない』と思われたという

当時は『音楽界っていう概念がなくて、芸能界しかなかったから
抵抗あったですよ。覚悟したね(笑)
音楽産業で食っていくぞというのと、かきまわしてやるって気で…』

この頃からレコードビジネスの世界は
シングルからLPへの変革期に入ったと感じられ
アーティストを辞め、69年に東芝EMIに入社されたそうだ

『ディレクターは、スタジオ・ワークだけやってればいいとされてたんです
でも、それじゃアーティストの生活設計から将来の夢まで
一緒になって取り組んでいけない
だから、僕はプロデューサーを志向したんです』

当時、プロデューサーは主任以上の役職で
それ以下の方はディレクターと呼ばれていたらしく
そんな勤務の年月や階級で、クリエイターを分けることに
反発を覚えられたんだとか…

『プロデューサーって言うとディレクターより幅が広そうだし
お金の管理もすれば、マネージメントもやって
宣伝プランも作るんだという見方もありますが
本当に優秀なディレクターは全部やってますよ』と新田さん

個人と組織、体力と知力、主観性と客観性など
相反したキャラクターが同時に要求されるこの仕事は

『音楽に詳しいことはもちろん大切
でも、音楽以外のものを持ってることが大事なんです
だから、楽しんで出来る人が強い』とおっしゃってます

以前にご紹介しましたが…
甲斐さんが初めて、瀬尾一三さんに全てを委ねられ
『シンガー』としてレコーディングをなさった際に

曲を作られてすぐではなく、いったん時間をおかれたことで
作り手から歌い手へと気持ちの切り替えが出来たと話されてたけど
待っておられる間は落ち着かないお気持ちだったみたいです(笑)

『らいむらいと』は、デビュー間もない頃に
まだ勝手がよく判らないまま
変則3人プロデューサー制でお作りになりましたが(笑)
その後はずっとディレクターなり
プロデューサーなりの仕事も兼任されて来たんですもんね

甲斐バンド脱退後にキャニオンのディレクターになられた長岡さんは
『これまでの俺の立場とまるで違って
作詞家や作曲家に作品を依頼したりすることから仕事が始まる

歌謡曲のタレントの場合だと
レコーディングのやり方もまるで違っていて
俺が歌唱指導したり、イメージ作りをしたりする訳ね』とおっしゃってましたが

東芝EMIには、68年から発足していた
『エキスプレス』というレーベルがあり
新田さんと共に関わっておられたのが広瀬将俊さん…
『甲斐のことならヒロセに聞きな』の方(笑)…で

お二人は『チューリップやユーミンを他の歌謡曲と一緒に扱うのは
何か違うんじゃないか?絶対に別物だと思っていた』と
75年に『フォーク&ロック部門』を立ち上げられたそうだ

ちなみに、この新部門の名称には
『ニューミュージック・グループ』も候補に挙がったみたいですが
『(当時は)あまりに軽く聞こえた』ので却下されたらしい(笑)

その後、CDの登場などにより
レコード産業全体が大きな変革期を迎えた際には

『技術的にもそうだけど価値観も変わりつつある
こんな時こそ、小さくて新しい組織発展の機会だ』と

新しいレコード会社『ファン・ハウス』を発足され
社長に就任なさいましたが、気持ちは
『いちプロデューサー』のままでいらしたんじゃないかと…(笑)
コメント (3)
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