つれづれ

思いつくままに

恥ずかしい思い出

2020-08-24 14:04:32 | 

初めての海外出張先は、オーストラリアのメルボルンであった。
1985年の夏(メルボルンでは冬)のことである。
京阪神商品展示会開催協議会が主催した「メルボルン・エンジニアリング・エキジビジョン」に参加しての 出向であった。

歳のせいだろうか、昔の楽しかった情景を たくさん思い出すことが多くなった。
楽しかった思い出は しかし、細部がぼやけていることが多い。
ところが、イヤな思い出(恥ずかしかった思い出)は、そのシーンの一つ一つを鮮明に思い出すのだ。
恥ずかしかった思い出は、何度も反芻するから かもしれない。

メルボルンでのエキジビジョンを終えて お開きレセプションの席でのことである。
たしか、ウィンザーホテルで開かれた と記憶する。
エキジビジョンで親しくなった メルボルン在住の同世代オーストラリア青年 ロブ君(ファミリーネームは記憶にない)と相席になった。
彼との話が弾んで、話題が太平洋戦争になった。

歴史の好きな自分としては きわめて迂闊な会話であった。
オーストラリアが連合国の一員であったことを、ごっそり失念していたのだ。
「オーストラリアと日本が対戦しなくて良かったね」とか なんとか、そんなことを 彼に向って話しかけた。
彼は、急に目をひきつらせて「デス レイルウェイを 君は知らないのか!」と わたしを詰った。
「デス・・・」は あやふやで、「レイルウェイ」だけは しっかり聞き取れた。
何のことか、そのときは まったく解らなかった。
なぜ 彼が怖い顔に変わったかも、解らなかった。
小学6年のとき 映画『戦場にかける橋』に感動していたにもかかわらず、である。

「デス レイルウェイ」は 「Death Railway(死の鉄道)」のことで、「泰緬鉄道(たいめんてつどう)」を指すことを、のちに知った。
日本軍が1942年6月に建設を始め 43年10月に完成させた タイとビルマを結ぶ約420kmの鉄道で、英領だったインドの北東部を攻撃しようとした「インパール作戦」のために 日本軍の補給路を確保する目的で 建設された鉄道である。
この建設に当たり 日本は、英国、オーストラリア、オランダなどの連合国軍の捕虜約6万人と、東南アジアの約20万人の人々を動員して、いわゆる「泰緬鉄道建設捕虜虐待事件」を起こしている。

その後 忙しさに日々過ごすうち、メルボルンでの恥ずかしい思い出は 記憶の彼方へ追いやられ、26年経った 2011年6月22日の新聞で、泰緬鉄道建設に従事した永瀬隆さんという方の死去を報ずる記事を目にした。
永瀬さんは、英語通訳として陸軍省に入り 太平洋戦争中の1943年にタイに赴き 泰緬鉄道の建設現場で働いた。
そこで 彼は、鉄道建設で犠牲になった捕虜兵や現地人の 痛ましい現場を目の当たりにした。
戦後 倉敷市で英語塾を営みながら 彼は、 過酷な強制労働で犠牲になった連合国軍捕虜やアジア人労働者を悼むため 135回にわたりタイを訪問し、映画『戦場にかける橋』で有名になったクワイ川鉄橋で 元捕虜と旧日本兵との再会を実現させた。
87年には、タイの子どもの教育のために「クワイ川平和財団」を設けている。

この記事を読んだとき わたしは、26年前の あの「恥ずかしい思い出」を蘇らせていた。
消え入りたいような恥ずかしさが、こみ上げてきた。
ロンドン生まれの画家で 戦時中 日本軍の捕虜となって泰緬鉄道建設に携わった ジャック・チョーカーという人の著した『歴史和解と泰緬鉄道』(朝日選書)を買い求め、遅まきながら 「泰緬鉄道建設捕虜虐待事件」の真相の一端を学んだ。
そして ようやく、あのレセプションの席で ロブ君が見せた冷たい態度の意味が、解けた。

高校のとき 歴史を教えてくれた 三宅先生は、高3の三学期のはじめ 大学受験で欠席の目立つ わたしたち生徒に向かって、こう語りかけた。
近代 ことに現代を十分に講義できないことを、君たちには まことに申し訳ないと思っている。 教育要綱が古代から始めることになっており、歴史でいちばん大切な近・現代史を教えるのが 大学受験や就職試験で忙しい この時期に重なることが、残念でならない・・・と。

戦後の教育において わたしたち戦後生まれの生徒たちは、空襲や原爆投下など 日本が被った悲惨な出来事は 学んだが、日本が他国において犯した残虐な事件については 教えてもらった記憶がない。
その多くが、近・現代史に集中している。
高校の三宅先生は、そのことを「残念でならない」と表現されたのではないか。

戦後のドイツの生徒たちが ナチスの犯した罪を教えられたように、戦後の日本の生徒たちが 日本軍の犯した罪を しっかり教えてもらっていたならば、日本の外交 ことに近隣諸国との外交は もっと違った形で進んだのではないだろうか。

自分の自助学びの足りなさを棚に上げて、ロブ君との恥ずかしい思い出から、そんなことを考えたりしている。

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新美南吉のかなしみ

2020-08-19 15:10:44 | 

これまで75年を生きて わたしは、いい友達に恵まれた。
けっして多くはないが、こころの通う友人たちである。
もう鬼籍の人もいるが、彼らに共通するものがある。
最近、そのことに気付いた。
それは、彼らがみな 新美南吉のかなしみを理解できる人たちだ ということだ。
実際に 彼らが、新美南吉を承知しているかどうかは 別にしてである。

新美南吉のかなしみ とは、彼自身が最晩年に書き残している。
それは、「よのつねの喜びかなしみのかなたに、ひとしれぬ美しいもののあるを知っているかなしみ」である。
彼岸花の美しさ、と言えようか。

もう一月もすれば、この殺人的猛暑も やわらぐことだろう。
そして きっと彼岸花が、田んぼの畔や河原の土手伝いに 咲くことだろう。
彼岸花が咲くと わたしは、新美南吉のかなしみを思う。

この年になると、喜びより 悲しみが、似合うようになる。
悲しみは、思うほど つらいものではなくなってきた。
それが、似合う ということなのだろう。

新美南吉のかなしみを ほんとうに理解できる人間になることが、いまのわたしの 生きる意味である。

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亀の石像のある公園

2020-08-14 13:10:03 | 

長男は、愛媛県新居浜市の別子病院で生まれた。
わたしが新社会人として新居浜に赴任して 二年目の春であった。
責任のない立場である新入社員の生活は、家族第一で過ぎて行った。

社宅のすぐそばを、国領川(こくりょうがわ)が流れていた。
本州の西日本太平洋側に住み慣れたものにとっては、川は北から南へ流れるものとの先入観が強い。
京都のまちなかで育ったわたしにとって、川と言えば鴨川で それは北から南へ流れる川である。
だから、国領川が南から北に流れているということが 感覚的に理解できなかった。

定時で帰宅して いちばんにすることは、長男を自転車の後ろの荷台に乗せて 彼のお気に入りの場所「亀さん公園」へ向かうことであった。
「亀さん公園」には 亀の石像があったので、長男が そう名付けた。
国領川べりを 流れに沿って走る。
当時 わたしは、その方向(北)が南だと思い込んでいた。
しばらく走ると、予讃線の鉄橋が見えてくる。
その少し手前に架かる橋を渡って、国領川の向こう側 そのすぐあたりに、「亀さん公園」はあった。

方向音痴のわたしは、その公園が予讃線の北側にあったのか 南側だったのか、いまだに理解していない。
ただ、「亀さん公園」の亀の石像を撫で この公園から予讃線を走るジーゼル列車を見ているときの 長男の顔が、いちばん好きだった。

あの「亀さん公園」を訪れることは もうないであろう。
「亀さん公園」は、わたしが長男と親しく接した 数少ない思い出のひとつである。

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一枚の 幼い絵

2020-08-14 11:54:53 | 

引っ越しの時、納戸の上の棚の奥にしまい込んであった 幼いころの絵を見つけた。
幼稚園から中学校1年までに描いた絵 20枚ほどが、くすみのついた大丸の包装紙に 包まれてあった。
母が大事にしまっておいてくれたのだと思う。

その中に、二重包装の表書きに 「金賞」と書かれた絵があった。
縦38cm横54cmの この絵の裏には、拙い字で「1ねんろくみ」と書かれてある。
この絵を見て、なぜ金賞なのか 理解に苦しむが、その被写体は すぐに理解した。
そのころ住んでいた西大路姉小路の、西大路を跨いで斜め北向かいにあった 「進駐軍の門」である。

アーチ形看板には、「STATION COMPLEMENT CAMP KYOTO  8011th ARMY UM(N?)IT」と 読み取れる。
これは、8歳上の姉が書いてくれたことを うっすら記憶している。
「補足基地 京都駐屯所 第8011陸軍部隊」とでも いう意味だろうか。

ハーシーチョコレートにつられて GIの腕に抱かれて接収構内に入り 迷子になったわたしを母が気狂いのように探し回った という記憶は、姉たちの話から 形作られたものである。
この絵の「進駐軍の門」から 接収構内に入ったに違いない。
GIの歯と掌の白さ そして体臭は、この話から残る、ほんとうの記憶である。

この 拙い絵は、わたしの幼い記憶の原点であることは 間違いない。

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平岡養一の木琴

2020-08-02 13:29:16 | 

通崎睦美(つうざきむつみ)さんの木琴演奏会が、京都文化博物館の別館ホールで催された。
クラシックギター奏者の永田参男(ながたみつお)さんとの、 ハーモニーコンサートである。

コロナのせいで、長い間 こういうコンサートから遠のいていた。
会場が近くでもあり、コロナ対策がしっかりとられている とのことで、こわごわながら 聴きに出かけた。

小学校の低学年の時だった。
講堂で、平岡養一氏が 木琴演奏を披露してくれた。
初めて、音楽は美しい と感じた瞬間だった。

通崎さんの木琴の 魔法のような音色に うっとりしながら、永田さんの 出しゃばらないギター伴奏に 音の深さを感じながら、60分の演奏会は 瞬く間に過ぎていった。

通崎さんが演奏に使っていた木琴の腹に、「Youichi Hiraoka」の文字が見て取れた。
平岡養一氏が初演した『木琴協奏曲』を 通崎さんが平岡氏の木琴で演奏したことがきっかけで、通崎さんが その木琴と約600点にのぼる楽譜やマレットを譲り受けた、という。
通崎さんの演奏と、65年前の小学校講堂での 平岡養一の演奏が、タイムスリップしたように 重なった。
懐かしさが、どっと こみ上げてきた。

通崎睦美さんの とろけるような演奏とともに、平岡養一の木琴と再会できた 貴重なひとときであった。

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コロナに思う

2020-08-02 12:42:37 | 

先日の夕方、烏丸二条の交差点で、急に雨が降ってきた。
烏丸通りを 東側から西側へ渡ろうとしていた時である。

烏丸通り優先なので 東西に渡る信号待ち時間は、けっこう長い。
雨足は激しくなり、車道のアスファルトに 跳ね返り雨が躍り出した。
用心して持って出てきた 75cmの雨傘でも、足元がすぐに濡れだした。

左隣に 帽子を目深にかぶった少年が、信号待ちしている。
帽子から 高倉小学校の生徒だと、すぐに判った。
重そうなリュックカバンを背負って 彼は、まっすぐ前を向いて 辛抱強く信号を待っている。

背恰好が、小学生だった 孫の陸玖に似ている。
思わず、雨傘を 少年の肩にかざしかけた。
彼は、ちらっとわたしを見て 横ずさりして、わたしから遠のいた。
ちょっと申し訳なさそうに、小声で「いいです」と言いながら。

わたしは、すぐに悟って 無理強いはしなかった。
知らない人に近づいてはいけない、いや 今はコロナで、2メートル以内に知らない人に 近づいてはならない と、学校でも家庭でも 注意されているのであろう。
いずれにしても、わたしが軽率だった。
彼は、正しい行動をとったに過ぎない。

だが、少しさびしい気持ちになった。
困っている人に手を差し伸べることは 自然な感情なのに、それが許されない 今の状況が、なにか さびしい。
コロナが、その状況を加速化した。
コロナを 憎く思う。

信号がやっと青に変わって 少年は、雨の中を駆け足で横断して、向こう側の歩道を 南のほうに消えていった。

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