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つれづれ

思いつくままに

本屋さんで売れている本、二冊から。

2016-05-25 16:37:00 | 
京都の街中の本屋さん、店頭には京都案内がずらりと並んでいます。
まあ その種類の多いこと!
名所旧跡、グルメ、町家風お泊り処、パワースポット・・・

この手の書物を買ってまで読むことは、まずありませんでした。
京都に精通している訳でもないのに、京都生まれで 京都で育ち 京都に住んでいる自分が なんでまた・・・という、一種の見栄ですね。

その中にあって、気になる書名の新書が、ちらりと目に入りました。
題名は『京都ぎらい』、ことしの新書大賞第一位という帯が付いています。

例のごとく、あとがきから立ち読みです。
七は「ひち」である、という副題の付いたあとがきに、おおおっと釣り込まれました。

そうなんです、僕らより上の年代の京都人は、上七軒は「かみひちけん」です。
七条七本松は「ひっちょうひちほんまつ」なんです。

普通名詞なら、教科書通りに七を「しち」と読みましょう。
でも、上七軒も七条七本松も地名ですよ。
太秦を難読地名として「うずまさ」と読ましていますよネ、それと同じじゃあないですか。

あとがきだけを立ち読みして、『京都ぎらい』を買ってしまいました。

洛中というのは、豊臣秀吉が作った「御土居」で囲まれた中を指す、ということだそうです。
西大路通りのひとつ東に、「西土居通り」という南北の筋があります。
この西土居通りの御池通りを少し上がったところに、市五郎大明神という、こんもりとした小さな神社があります。
御土居の跡だそうです。

市五郎大明神は 小さい頃の遊び場所でしたが、わたしの生まれ育ったところは この西土居通りより少しだけ西でした。
だから わたしも、『京都ぎらい』の筆者同様、洛中人にはなれませんでした。
京都というところは、この書物に書いてある通り、こういうことを すごく気にする土地柄です。
いや、気にしているのは、わたしのほうなのかも知れません。

『京都ぎらい』を読んで感じたのですが、こういう いやらしい感覚は、一種の差別です。
嵯峨育ちの筆者が 洛中の綾小路新町の旧家・杉本家の当主から受けたひけ目は、より西側の亀岡をあなどりだす。
田舎者よばわりされた筆者は、より田舎びた亀岡を見いだし、心をおちつかせる。
筆者は これを、「京都的な差別連鎖」と呼んでいます。

差別される自分も きらいだが、差別する自分は もっときらい。
『京都ぎらい』の主題は、筆者の言葉を借りれば、京都的な差別連鎖のはしっこに いつのまにかすえつけられた自分自身への嫌悪なのでしょう。

ものすごく身にしみる読後感です。


もう一冊。
題名は『羊と鋼の森』、ことしの本屋大賞に選ばれた作品です。

テレビのニュースで、作者の宮下奈都さんがインタビューを受けていました。
その控えめな受け応えの様子、宮下奈都さんから発せられる清逸な雰囲気を、いいなぁと思いました。
何々大賞と付く小説を どちらかというと避けていたのに、『羊と鋼の森』は読んでみたいと思いました。

若いピアノ調律師が 優れた先輩たちに導かれながら「自分がほんとうになりたい調律師」とは何なのか、を掴み取ってゆくお話。
ひとことで言うなら「森の匂い」、すがすがしい風に導かれるように、おはなしの中に引き込まれていきます。
本屋さんたちが読者にぜひ読んで欲しい、そう思った訳がわかります。
ほんとに素敵な本です。

若い調律師・外村くんは、尊敬する先輩調律師の板鳥さんにたずねます。
「板鳥さんはどんな音を目指していますか」
板鳥さんは、原民喜の文章の一節を、小さく咳払いして語ります。
「明るく静かに澄んで懐かしい文体、少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体」

作者は、ピアノ調理師の姿を借りて、作者自身が目指す文章を、この作品の中で追い求めたのでしょう。
その企みは、達せられていると信じます。

外村くんが調律したピアノの音色が 高原の風に乗って聞こえてくるような錯覚を覚える、明るく静かに澄んで懐かしい小説です。
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みんなのための資本論

2016-05-24 15:53:26 | 

「政」(まつりごと)の本質は 弱者救済にある、と わたしは思っている。
この確信は、今も変わらない。


時代によっては、国が民より優先されることもある。
150年前の日本、幕末から明治維新がそうであった。
まず国(国を代表するなにか)を強くすること、であった。
しかしこれは 非常時手段であって、平時に採られるべき道ではない。

今の日本が150年前と同じ状況だとは、到底考えられない。
それを あたかも同じ状況であるごとく、まつりごとを導きたがる政治家たちやマスコミがいる。
公の秩序と個人の自由を対立させ、「公 」に個人の自由を服従させようとする流れ、危険な流れである。

まつりごとは、平等の理想、それも法のもとでの平等を実現することが、目的であるべきだ。
税というシステムを通じて、富める者から貧しい者に豊かさを再分配する。
金銭だけではない、弱者が住みよい街を築くのも、再分配の ひとつの形態だ。
国の大きな特権である税とは、そういうものであろう。

まつりごとは、外交と専守防衛を除いて、平等の追求以外のことに首を突っ込むべきではない。
ことに 個人の自由は、「公の秩序」を盾にとって  国が介入して良いものでは 決してない。
個人の自由は、国が介入したがることを戒めるため、憲法がしっかりと保障している。
自由は、芸術や文化や宗教という 個人のもっとも崇高な、人間活動の根幹だからだ。
芸術や文化や宗教は、多数決では はかれないからである。


さて、経済についてだが、国にどこまで口だしを許すのか。
わからない、だから、経済をしっかり捉えている人物に、教えを乞わねばならない。

ミヒャエル・エンデは、経済活動の理想は 友愛だと言った。
この理想を、資本の自己増殖を許す金融構造が 破壊してしまった、と考えた。

それを一気に推し進めたのは、グローバル社会、テクノロジー社会、であろう。
格差社会は、それらの申し子みたいなもの。
しかし、もはや グローバルやテクノロジーを否定して生きていくことはできない。

では、格差社会に どう向き合っていけば良いのか。
その解決を手探りするきっかけを、映画『みんなのための資本論』が与えてくれる。

この映画は、アメリカを代表する経済学者、ロバート・ライシュが、たくましい言論社会のアメリカにおいて、今のひずみに至った道程を語っている。
資本主義の大転換のための処方箋を、ちょっとコミカルに ちょっとアカデミックに 解りやすく説いた、エコノミカル・エンタテイメント映画である。

ロバート・ライシュは、クリントン大統領政権下で労働長官を務めたが、その経歴だけでは 彼の情熱は読み切れない。
身長147センチの小さな体、そのハンディキャップを乗り越え、いまの時代に本気で変革を起こすために、人生を捧げた情熱の男である。

彼は いま、カリフォルニア大学バークレー校で教鞭を執っている。
それは、アメリカの将来は 若者たちにかかっている、という信念があるからだ。
学ぼうとする意欲を持った若者たちに、経済格差を通して、経済の歴史を より深く理解してほしい、と。
このことは、アメリカだけではない、日本も 中国も、全世界に共通する希望である。

ライシュは、社会主義者でも 共産主義者でもない。
人一倍頭を使い 人一倍汗を流した者が、ほどほどに仕事を流している者たちの 何百倍何千倍もの給料をもらうことは、当然だと考えている。

ライシュは、アマゾンにいち早く目をつけ投資して大富裕層になったベンチャーキャピタリスト、ニック・ハナウアーを紹介している。
ニックは、ライシュの一番伝えたいことを、こう語る。
「典型的なアメリカ人の千倍もの収入を得ている私のような人間であっても、一年間に千個もの枕は買わないのさ」

ちょっと高級な枕を買える階級、健全な経済を支える中流階級の急速な減少が、アメリカの経済危機を招いた、とライシュは警告しているのだ。
かっての中流階級、年収500万円プラスマイナス250万円の階級が、どんどん貧困層、年収200万円以下の階級へと没落している。
アメリカも日本も、この傾向は酷似している。
それはなぜか。

ライシュは、かっては無料だったバークレー校の授業料を、例に挙げている。
それに因んで、日本の国立大学(学部)の授業料を見てみよう。
50年前、授業料は月額3000円だった、それがいまや、その15倍である。

初任給は、50年前 大卒で3万円だった、今は20万円、約7倍。
つまり 大雑把に言って、50年前と同じ中流階級の生活を 今するには、今の収入が倍なければならない。

ライシュが指摘するように、その穴埋めを「女性の社会進出」つまり 共働きで賄ってきた。
それも 次第に苦しくなり、夫の残業代稼ぎ つまり長時間労働で食いつないだ。
それでも十分な収入を得ることができなくなると、アメリカの家庭はどんどん借金に陥った。
我が家を抵当にした借金生活。

周知のように、リーマンショックは その抵当の‘我が家'の値打ちが暴落して起こった。
平成3年に生じた 日本のバブル崩壊も、同じ道程を歩んでいる。

ライシュが最も恐れるのは、格差が民主主義を壊すことだ。
中道という 賢明な思考が後退し、極左か極右かが もてはやされる社会。
その行き着くところは、民主主義社会の崩壊であろう。
だから、格差社会を是正しなければならない。

トリクルダウン理論というのがある。
富める者が富めば、貧しい者にも自然に富が滴り落ちる(トリクルダウンする)とする、経済理論である。
アベノミクスの基本的な考え方、と理解している。
日本の少し先を歩いているアメリカの経済史を学べば、トリクルダウン理論はレーガノミクスで間違いが実証されている。
景気が良くなるという媚薬に、もう 酔ってはならない。


映画『みんなのための資本論』で、ロバート・ライシュは、具体的な「格差是正案」を示しているわけではない。
示しているのは、格差是正の経済政策こそが、まつりごとが果たすべき仕事だということだ。
歴史に学び、一歩さがって全体図を見渡しなさい、と。

賢明なまつりごとの成果は、知識を得た国民一人ひとりの肩にかかっているのだ、と。

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あん

2016-05-07 12:15:15 | 

映画『あん』を、ご覧になりましたか?
去年公開の 河瀬直美監督作品で、樹木希林が主演している映画です。
わたしは、京都シネマで見逃して 諦めかけていたのですが、丹波橋の呉竹文化センターで再上映しているのを知り、念願が叶いました。

ひょっとしたら この映画、樹木希林さんの最後の映画になるかも、そう思うと、この映画への思い入れが ますます募ります。
(ちかぢかロードショーの『海よりもまだ深く』という映画に 樹木希林さん 出演するんですね、安心しました。)
元ハンセン病患者という重い役柄(徳江役)を演じるのが 彼女でなければ、こんなに希望の予感漂う、「どら焼き いかがですかぁー」というセリフの似合う映画にはならなかっただろう、 観終わって最初の感想です。


西武新宿線沿いの 桜の花がいっぱいの通り、その一角にある どら焼き屋「どら春」が舞台。
インタビューで希林さんが語っていたのが 印象に残ります。
「言葉じゃうまく説明できないけれど、“ここ”って場所でしたね。それをどう撮るかもセンスだけど、場所を決めるのも、見つけるのもセンス。そういう意味では、美術やカメラワークも含め、河瀬さんの秀でたセンスというか、美意識が現れている映画ですよ」。

原作本作者のドリアン助川(明川哲也)は、この物語が生まれるきっかけを、こう話しています。
きっかけは、(ラジオの深夜放送のパーソナリティをやっていた頃)番組内で若いリスナーたちが好んで口にする言葉だった。
「社会の役に立つ人間になりたい。そうじゃないと、生まれてきた意味がない」
誰からも否定されないであろう立派な言葉だ。でも、だからこそ思うところがあった。
重い障碍があり、寝たきりの人。歩けるようになる前に亡くなってしまった乳児。社会の役に立つことが人の存在価値になるなら、そうした命には生まれてきた意味がなかったのだろうか?

「どら春」の店長・千太郎(永瀬正敏)が、徳江が暮らしてきた療養所を 女の子・ワカナちゃん(内田伽羅)と尋ねるシーンがあります。
徳江の身の上話を聴いた千太郎が背を丸めて嗚咽する、たぶん、千太郎の投影は原作者自身なのでしょう。

永瀬正敏が実にいい。
彼のイメージは、山田洋次監督の『息子』で固定されていたのですが、すばらしい中年男優に育ちましたね。


ところで、題名の「あん」って、アンコの意味だったんですね、「どら春」のどら焼きの「あん」。
てっきり、女の子の名前かと思っていました。

食べてみたかったなぁ、徳江さんの作ったあんが包まれた「どら春」のどら焼きを…
と書きかけて、ほんとにスーッと口に運べるだろうか、と疑う自分がいます。

この映画は、そうも問いかけてくる。
ほんわかとガツンとくる、そして 桜と月がいつまでも脳裏に残る、映画でした。

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