つれづれ

思いつくままに

太極拳経

2016-03-23 18:02:36 | 
太極拳経というのがあります。
「経」と表現していますが、何々論の「論」に近い。

その存在は以前から聞いていましたが、なんだか理屈っぽそうで、敬遠していました。
このたび、楊進氏(楊名時師家のご長男)が著した『太極拳経解釈---至虚への道』を熟読して、なぜもっと早く接しなかったのか との思いです。
太極拳に惹かれるわけを、太極拳経を通して、はっきりと理解できたのです。


唐突ですが、イチロー選手が 本塁突入に怒ったキャッチャーの突きに遭う場面が、忘れられません。
イチローは、大柄なキャッチャーの執拗な突きを、ひょいヒョイっと後にさがって躱すのです。

あのイチロー選手の動きは、まさに太極拳経で説かれている‘「虚」の使い方を知る武術'そのものです。
「以弱勝強」「後発先至」、この太極拳の基本理念は、わたしが太極拳に惹かれるわけであり、イチロー選手を敬愛するわけなのです。

太極拳経は、明確に相手の存在を肯定しています。
自分が相手より劣勢であることを、前提としています。
まさに、弱者救済の方法を説いているのです。

「弱きが強きを挫く」には どうすればいいのか、その根本は「争わない」ことに尽きる、と説いている。

けっして一方的に争いを放棄することではない。
自分の闘争心を押さえつけ、我慢して耐え忍ぶことでもない。

争わないためには、現在の関係を把握して冷静に対処すること。
力の衝突を避けて、円満な関係を築くこと。

そのために何が一番大切か、それは相手を推し量る「心」だというのです。
相手の剛を想像する力、想像力。
相手を推し量り 自分を制御する「心」を育てることが、太極拳の大きな目的だと。


太極拳経の最期のフレーズの冒頭に、「本是捨己従人」とあります。
この言葉に出会って、わたしは はっとしました。
そうか、と思いました。

太極拳は防御の武術、だといいます。
その本質は、「人を知る」ことに他ならない。
己を捨て 人に従うことから得るもの、それは「相手に勝つ」ことなのです。

わたしが ひそかに感じていた「太極拳は専守防衛」という感覚は、間違っていなかった。
相手に究極的に勝つ方法は、これしかないのです。
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再び、あのドラマのこと

2016-03-02 19:16:14 | 
あのドラマとは、『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』のことである。

たまたま買った週刊誌「週刊朝日」の〈てれてれテレビ〉というコラムで、このドラマをコテンパンにこき下ろしていた。
暗い!というのだ。
みていてイヤ~な気持ちになる「イヤドラ」(イヤ~なドラマということか)だと。

このコラム筆者の是とする主義を髣髴とさせる、こき下ろしっぷりである。
明るきゃ それでいい、みたいな…
弁護する義理はないのだが、暗くて 何が悪い!って言いたくて…


連(高良健吾)と音(有村架純)が住む近所のおばあちゃん・仙道静恵(八千草薫)の家での芋煮会。
コラム筆者は、いたたまれなさのドミノ倒し場面だという。
わたしは、シン底をえぐられる名場面だと思う。

音と朝陽(西島隆弘)、連と木穂子(高畑充希)が 、互いに恋人同士を演じているのを見て、連の友人・晴太(坂口健太郎)は、木穂子の不倫の過去を さらりと突き刺す。
コラム筆者は、まるで「ベッキーの前で文春朗読するような行為」だと。
まぁいいだろう、時を得た批評、としておこう。

音は、なんとか気まずいその場をとりつくろおと、「食べよ!芋煮いもに」。
音をじっと睨みつけていた小夏(森川葵、連の同郷の後輩)が噛みつく。
晴太が好意を寄せる小夏は、連に片思いしている。
コラム筆者が いたたまれなさの極みだという、場面だ。

(小夏)「なんで話、変えんだぁ?」
(小夏、音をぐっと睨んで)「この人、なんで急に変えんとすんだべな」
(朝陽)「楽しく食事ね…」
(小夏、覆いかぶせるように)「楽しい? 楽しいかなぁ。ほんとは全然楽しくねぇべ」
(連)「なにが…」
(小夏)「だって、だってだよ。みんな嘘ついてんだもん。だって、連が好きなのは木穂子さんじゃねえべ」
(小夏)(音を指差して)「この人だべさ。それをさ楽しいって、おかしぐね? それを、平気な顔して。いっしょにご飯なんか食べて。(音と朝陽を二本の指でさして)ふたりして、(連と木穂子を二本の指でさして)ふたりして。なんかいい感じの振りして。ちがねしだ全然。だって、(音を手元で指さして)連が好きなのはこの人で。この人も、連が好きなんだもん。なにこれ、なにこれ。上辺ばっか楽しそうな振りして、嘘ばっか」
(みんな黙っている、だから小夏は噛みつき続ける)「みなさんのしてること、楽しくないですよ。全然、きれいじゃないですよ。(木穂子に向かって)不倫して、ほかに好きな人いんのに、嘘ついて隠して付き合って、(音に向って)連と木穂子さんが付き合ってるの知ってるのに、こそこそ逢って…ドロドロっだべしたー」
(小夏、ちょっとトーンを下げながら、音を下から見上げるようにして)「ほんとのこと、言いましょ。好きなんでしょ。両想いなんでしょ。いいの? このままで。このまま、ここ、ほっといていいの」
(小夏、木穂子の方に向きなおって)「木穂子さんだって、ほんとは気付いてたんじゃねえの。ほかに好きな人いること、気付いてて、気付いてねえ振りしてたんじゃねえかよ。そんなの、卑しくてやんだな~」
(木穂子の気持ちを気遣う連、それを見て小夏)「連もそれでいいの? ここに(ローテーブルの上を指で突っつきながら)目の前に好きな人がいんのに、全然 好きでない人と付き合ってて いいの?」
(連)「俺は、木穂ちゃんが好きだよ」
(小夏)「何番目に? (黙ってる連を哀れむように)言えない! 嘘ばっかついて」
(小夏、音を正視しながら)「ゆったら。好きなんだって。好きですって、言ったら。ねぇ ほんとのこと言いましょ。連、すきよ、連、好きよって…」

連のやさしさ、音のひたむきが生んだ、かなしい心のすれ違い。

コラム筆者は、静恵おばあちゃんが不憫だ、と はぐらかす。
「いつかこの芋煮会を思い出してきっと泣いてしまう」と。
どっこい、静恵おばあちゃんは、なにもかも お見通し。
一番傷ついているのは、小夏だと。

最後の力を絞り出すように 小声で「好きよ」と叫ぶ小夏の肩を、後ろに回った静恵おばあちゃんはそっと抱く。
「小夏ちゃん、おいで」。


人はすべて、幸福を求めている。
だが 幸福は、なかなかつかみ難い。
聖書が「こころの貧しい人たち」と詠んだのは、幸福を掴もうと 尽きることのない旅路を歩む者たち、もがく者たちを指したものであろう。
そういう者たちを 暗い!と言うのなら、人生はすべて真っ暗闇である。

しかし、聖書は「こころの貧しい人たちは、さいわいである」と言っている。
暗い いま置かれているそのままの状態で、さいわいである、と祝福している。

第7話で、静恵おばあちゃんは、立ち直ろうとする連に、
「生きている自分を責めちゃ、ダメよ」
と、話しかける。
「音ちゃんを見てると、音ちゃんのお母さんが どんな人だったか、わかる。連を見てると、連のおじいちゃんが どんな人だったか、わかる。私たち、死んだ人とも、これから生まれてくる人とも、いっしょに生きていくのね」
コタツの片側に かしこまって座る連、その向こうに 愛犬サスケを抱いて じっとふたりの様子を見つめる音。
静恵おばあちゃんは、つづけて言う。
「精一杯、生きなさい」
コタツの上敷板に頭が付かんばかりに うな垂れる連の膝へ、サスケが潜り込む。
静恵おばあちゃんは、満面に笑みを浮かべて
「おかえり」。


くだんのコラム筆者は、きっとこのドラマの大ファンなのだ と思う。
あのコラムは、その裏返し表現なのだろう。
コラム筆者とは、漫画家・カトリーヌあやこ女史である。

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